「皆川淇園弘道館址」の位置は正確か
石碑建立によって、「史蹟」は生まれるとする。その史蹟は地域に認識され、時間の経過により、地域の「顔」となることがある。
だからその建立された石碑は正しく事実を反映しているのか、とても重要なこととなる。
「顔」がウソであってはまずいでしょう。
そんな僕の目的意識の上で、大事な対象として、京都市教育会が1910年代から40年代にかけて建てた、約80基の紀念標石がある。その事実検証や意義づけを心がけている。
ある依頼があって、そのひとつを検討する機会を得た。
上京区上長者町通室町西入北側(元土御門町)に建つ、「皆川淇園弘道館址」標石である。
ねんのため銘文を掲示しておく。
【表】皆川淇園弘道館址
【左】大正六年三月建之 京都市教育会
【裏】寄附者 山田長左衞門
皆川淇園(みながわ・きえん/1734~1807)は江戸中期の儒者である。
手元の電子辞書の「スーパー大辞林」には立項されているから、まあ、無名とはいえまい。
個人的には、文化元年(1804)、南庄村(現大津市伊香立南庄町ほか)で「龍骨」が見つかったとき、「龍骨図」が作成されたが、その解説文を書いた人としてなじみ深い(松岡長一郎『近江の龍骨』33-38ページ)。
以前に紹介しましたね。
京都市教育会メンバーで、幕末碑建立に主導的役割を果たした寺井萬次郎(筆名寺井史郎)が、1934年(昭和9)に『京都史蹟めぐり』を刊行している。
そこに「贈従四位皆川淇園弘道館の址」が立項されていて、その位置を石碑と同じく「上長者町室町西入北側」と記す(上京区50ページ)。
が、根拠は示さない。
どうしてこだわるかといえば、その寺井の師である碓井小三郎の著した地理書『京都坊目誌』(上京第十三学区之部)は異なる見解をとるからである。
中立売通室町西入ルの三丁町がそうだとする(新修京都叢書18巻、404ページ)。
中立売通は建碑の地、上長者町通の一本北にあたる。
ちなみに平凡社刊行の『京都市の地名』も『京都坊目誌』の説を踏襲している(590ページ)。
しかし「元土御門町」の部分では、まったく何もふれなかった(590ページ)。
事実に相違して石碑が建っている、なんてことは記されなかった。
碑銘にある建碑費用の「寄附者山田長左衞門」が、現位置の旧居住者であることもわかっているし、現位置と1934年(昭和9)の寺井の記述が一致するのであるから、最近になって碑が移動したとは考えられない。
皆川の墓碑が寺町今出川上ル阿弥陀寺にある。
その銘によれば、文化2年乙丑(1805)、自宅の西隣を買い取り、塾を開いた。
これが弘道館である(寺田貞次『京都名家墳墓録』35-38ページ)。
銘には自宅の所在地に関する具体的表記はない。
京都市教育会や寺井萬次郎(寺井史郎)はいったい何を根拠に、上長者町通室町西入北側(元土御門町)をその地だと特定できたのだろうか。
ちなみに江戸後期の弘化4年(1847)刊行の、画家や学者などの名簿「京都書画人名録」には、皆川の孫にあたる皆川西園の居所を記す(『新撰京都叢書』9巻376ページ)。
そこに「中立売室町西」とある。
『京都坊目誌』の述べる場所と同じである。
もし碓井が「京都書画人名録」の記事を根拠としたのなら、皆川淇園の居所が孫の代まで変化しなかったと判断したのだろう。
いや僕が知らないだけで、はっきりそれを示す史料があったのかも知れない。
京都市教育会の建碑は必ずしも厳密な検証をふまえて建碑をしたわけではないことはすでに明らかになっている。
坂本龍馬殺害地への建碑が一軒北へずれていることも周知のことといえる(拙著『京都の江戸時代をあるく』171ページ)。
とにかく現段階では、弘道館跡の標石の位置は事実に相違する可能性があると思っている。
さらに調査を継続したい。
※碓井小三郎や寺井萬次郎と京都市教育会については、拙著『京都の江戸時代をあるく』131-160ページ、文理閣を参照ください。
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