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2009.08.30

「皆川淇園弘道館址」の位置は正確か

Pc170018

 石碑建立によって、「史蹟」は生まれるとする。その史蹟は地域に認識され、時間の経過により、地域の「顔」となることがある。

 だからその建立された石碑は正しく事実を反映しているのか、とても重要なこととなる。

 「顔」がウソであってはまずいでしょう。

 そんな僕の目的意識の上で、大事な対象として、京都市教育会が1910年代から40年代にかけて建てた、約80基の紀念標石がある。その事実検証や意義づけを心がけている。

 ある依頼があって、そのひとつを検討する機会を得た。 

 上京区上長者町通室町西入北側(元土御門町)に建つ、「皆川淇園弘道館址」標石である。

 ねんのため銘文を掲示しておく。

【表】皆川淇園弘道館址

【左】大正六年三月建之 京都市教育会

【裏】寄附者 山田長左衞門                                                 

 皆川淇園(みながわ・きえん/17341807江戸中期の儒者である。

 手元の電子辞書の「スーパー大辞林」には立項されているから、まあ、無名とはいえまい。

 

 個人的には、文化元年(1804)、南庄村(現大津市伊香立南庄町ほか)で「龍骨」が見つかったとき、「龍骨図」が作成されたが、その解説文を書いた人としてなじみ深い(松岡長一郎『近江の龍骨』33-38ページ)。

 以前に紹介しましたね。

 京都市教育会メンバーで、幕末碑建立に主導的役割を果たした寺井萬次郎(筆名寺井史郎)が、1934年(昭和9)に『京都史蹟めぐり』を刊行している。

 そこに「贈従四位皆川淇園弘道館の址」が立項されていて、その位置を石碑と同じく「上長者町室町西入北側」と記す(上京区50ページ)。

 が、根拠は示さない。

 

 どうしてこだわるかといえば、その寺井の師である碓井小三郎の著した地理書『京都坊目誌』(上京第十三学区之部)は異なる見解をとるからである。

 中立売通室町西入ルの三丁町がそうだとする(新修京都叢書18巻、404ページ)。

 中立売通は建碑の地、上長者町通の一本北にあたる。

 

 ちなみに平凡社刊行の『京都市の地名』も『京都坊目誌』の説を踏襲している(590ページ)。

 しかし「元土御門町」の部分では、まったく何もふれなかった(590ページ)。

 事実に相違して石碑が建っている、なんてことは記されなかった。

 

 碑銘にある建碑費用の「寄附者山田長左衞門」が、現位置の旧居住者であることもわかっているし、現位置と1934年(昭和9)の寺井の記述が一致するのであるから、最近になって碑が移動したとは考えられない。

 皆川の墓碑が寺町今出川上ル阿弥陀寺にある。

 その銘によれば、文化2年乙丑(1805)、自宅の西隣を買い取り、塾を開いた。

 これが弘道館である(寺田貞次『京都名家墳墓録』35-38ページ)。

 銘には自宅の所在地に関する具体的表記はない。

 京都市教育会や寺井萬次郎(寺井史郎)はいったい何を根拠に、上長者町通室町西入北側(元土御門町)をその地だと特定できたのだろうか。

 ちなみに江戸後期の弘化4年(1847)刊行の、画家や学者などの名簿「京都書画人名録」には、皆川の孫にあたる皆川西園の居所を記す(『新撰京都叢書』9巻376ページ)。

 そこに「中立売室町西」とある。

 『京都坊目誌』の述べる場所と同じである。

 もし碓井が「京都書画人名録」の記事を根拠としたのなら、皆川淇園の居所が孫の代まで変化しなかったと判断したのだろう。

 いや僕が知らないだけで、はっきりそれを示す史料があったのかも知れない。

 京都市教育会の建碑は必ずしも厳密な検証をふまえて建碑をしたわけではないことはすでに明らかになっている。

 坂本龍馬殺害地への建碑が一軒北へずれていることも周知のことといえる(拙著『京都の江戸時代をあるく』171ページ)。

 とにかく現段階では、弘道館跡の標石の位置は事実に相違する可能性があると思っている。

 さらに調査を継続したい。

 ※碓井小三郎や寺井萬次郎と京都市教育会については、拙著『京都の江戸時代をあるく』131-160ページ、文理閣を参照ください。

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2009.08.24

岡田有希子と直江兼続と同窓会(おかしい)

8/22(土)はれ

 本日は故・岡田有希子(本名、佐藤佳代)の誕生日である。1967年(昭和42)生まれなので、生きていたら42歳である(~1986年4月8日)。

 毎年のようにこの日ににつぶやいているが、忘れないことが残されたものの義務である。供養であると思っている。つぎは祥月命日につぶやく予定。

 朝から夕方まで、京都おこしやす大学に出講。「直江兼続のみた洛中洛外」。伏見をあるく。参加者13名。実に適正な人数で、楽しかった。質問もしやすかったのか、かなり聞かれたし、僕も答えた。答えやすかった。

 夜は、スペシャル同窓会。場所はいつもの木屋町六角下ル「龍馬」。15年ぶりの「大会」だった。

 あと1人いれば、100点だったのだが、それでもスペシャルだった。当然、「龍馬」から電話したけど。

 ありがとうございました。何にも代えがたいような一夜でした。

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2009.08.23

ついに江戸日記の年代わかる

8/21(金)はれ

 

 くずし字入門に出講。今日も「在府逗留中日記帳」を読む。

 相変わらず、受講者の熱心ぶりに頭がさがる。

 その勢いにおされて、どうしても年代決定してみたくなった。

 

 で、終了後、京都府立総合資料館に行き、司書松田万智子さんを煩わせて種々の史資料にあたった。

 その結果、なんとはやばやと、当日記の年代決定ができた。とても驚いた。

 答えを先にのべれば、文化9(1812)の日記だった。

 なぜ分かったか。

 まず以前にふれたが、本文中に、「中山備中守」が「水戸様ノ御伯父君」とある。

 これは水戸徳川7代当主治紀(はるとし)の叔父、中山信敬(のぶたか/中山家10代)と推定していた(水戸徳川家5代宗翰(むねもと)の9男)。

 すると水戸治紀の当主期間、文化2年(1805)から文化13年(1816)だろうと考えていた。

 実はほかにも年代を明らかにできそうな情報がいくつもある。

 たとえば本文にふたりの老中が登場する。

 「松平伊豆守」と「牧野備前守」である。

 「松平伊豆守」と「牧野備前守」は、江戸時代全体ではいずれも複数いて、そのうちの誰であるか、にわかには分からない。

 が、在任期間が重なるのは、ひと組しかない。

 松平信明と牧野忠精である。

 それがいつなのかといえば、

享和1年(1801)7月11日~享和3年(1803)12月22日と、

文化3年(1806)5月25日~文化13年(1816)10月13日である(『歴史手帳』2009年、44ページ、吉川弘文館)

 

 上記、水戸治紀の当主期間とも矛盾しないのである。

 その上で、本日記中の特異なひとつの情報に注目した。7月11日条の冒頭に「今日八ツ半時大地しん(震)」とあることだ。

 もし他の史料によって、7月11日八ツ半ごろ(午後3時ごろ)、江戸とその周辺に地震があった年が明らかにできれば、年代決定できる。

 で、京都府立総合資料館の司書松田万智子さんである。

 上記のことを尋ねると、即座に東京大学地震研究所編・刊『新収日本地震史料』(1984年)という史料集の存在を教えてくださった。

 まったく知らない史料だった。

 やはり尋ねてよかった。

 いつも言っていることだが、司書の鑑みたいな人だ。

 京都府立総合資料館は、松田万智子さんを雇われて本当に得をされている。

 さっそく文化3年(1806)5月25日~文化13年(1816)の間で、7月11日に地震がなかったか、見ていった。

 世の中、そんなにうまくいこくとはない。

 過去の地震が漏れることなく把握されていることはありえない。

 まあ、ないだろうと思っていた。

 が、載っていたのである。

 当該史料集をまったくなめていた。

 編者の先生方に失礼をわびるとともに、深甚の敬意を表したい。

 その4巻によれば、推定していた文化3(1806)13年(1816)の間の文化9(1812)が唯一、711日の地震を記録していた(325ページ)

 その典拠は、八王子郷土資料館蔵「石川日記」である。

 「十一日 晴天 八つ時大じしん」とあった。「八ツ時」なのである。

 しかも八王子。八王子なら江戸近郊であるので、まったく問題はない。すごい。

 が、このまま受け入れてよいか。もうひとつ確認を試みた。

 

 江戸の武家の紳士録といえる、「江戸武鑑」である。文化9(1812)のものが現存しているし、刊本にもなっている(石井良助監修『編年江戸武鑑/文化武鑑』6、柏書房、1982年)。

 日記に登場する大名たちはこの年に実在するか、どうか。

 するとまず「松平伊与守」が「江戸武鑑」にあった(92ページ)。

 御小姓組御番頭の松平伊予守定能(5,000石)である。

 興味深いことに、居住地は「あたこ下」とある。

 当日記の、松平伊与守屋敷は「芝口」とあったから。

 ええ、愛宕下は芝口に所在するのである。一致したのである。

 ※たとえば嘉永3年(1850)刊行の絵図に「増補改正芝口南西久保愛宕下之図」がある(『別冊歴史読本/江戸切絵図の世界』24-25ページ、新人物往来社、1998年)。

 ※松平伊予守定能は、山梨県の地誌として屈指の評価がある『甲斐国志』の編者として知られる(松田万智子さんの教示)。

 

その他、日記に「勘定ニて柳生主膳正様」という記事がある。

「勘定」とは勘定奉行のことだろうか。

 

 当たりだった。

 「御勘定奉行」に「柳生主膳正久通」(1,100石)がいたのだ(11ページ)。

 こんなところで許してください。

 

 そんなわけで、当該日記が文化9(1812)の日記であることは疑いをいれられないだろう。

 僕が所蔵している程度のしょぼい史料の年代を決定できたことは驚くべきことだ。

 ひさしぶりに深い感激のなかにある。

 詳しくは、次回「くずし字入門」で発表します。

 2009年8月28日(金)午後0時30分~1時40分

 JR京都駅前のキャンパスプラザ京都の5階です。

 参加費はワンコイン(500円)。予約不要です。

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2009.08.20

【見学会】直江兼続のみた洛中洛外をあるく

 「直江兼続のみた洛中洛外」を見てあるく以下の講座があります。ぜひご参加ください。

 聚楽城・伏見城の武家地をあるく、直江兼続ゆかりの日帰りの旅

【予定コース】中日ビル前(午前8時、名古屋市・栄)⇒(バスで高速道路)⇒聚楽城武家地跡(直江兼続亭跡推定地、上杉景勝亭跡、千利休亭跡など)⇒昼食(京都国際ホテル内「ほり川」)⇒伏見城下町(直江兼続ゆかりの惣構の土塁、毛利輝元亭跡、伊達政宗亭跡、山内一豊亭跡、御香宮など)⇒(バスで高速道路)⇒中日ビル前(午後7時)

【講師】中村武生(歴史地理史学者、京都女子大学非常勤講師)※集合場所から同伴し車内でコース解説をいたします

【日程】2009年10月4日(日)

【費用】15,000円(中日文化センター会員は、14,500円)

【企画】中日新聞グループ中日旅行会(052-231-0800)http://www.chunichi-tour.co.jp/

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2009.08.19

長曽我部盛親の京都出発

8/18(火)はれ

 豊臣秀吉の祥月命日にして(慶長3年=1598)、八月十八日政変の日(文久3年=1863)。ただし現暦にすると、それぞれ別の日になるが(前者が9月18日、後者が9月30日)。

 基礎からまなぶ日本歴史に出講。本日はいつもとちがって、9時10分から。とても朝早いのに、それほど受講者数は減らず。ありがたいことだ。

 豊臣秀頼の寺社復興のはなしや片桐且元のその後、長曽我部盛親の大坂入城のことなど御話しする。

 長曽我部盛親が相国寺門前の住居を出発し、大坂城に入るまでの途中につぎつぎと人が集まってきたという有名なエピソードの出典を朗読した。

 「塊記」3である。『大日本史料』に収められたものを使用した。もちろん事実かどうかは分からない。

 「大坂御陣山口休庵咄」によれば、住居は相国寺門前ではなく、「小川通りの上」とある。だいぶ位置が異なる。まあ、そんなもんだろう。

 終了後、以前に一緒に仕事をしたD通テックのY野さんたちと待ち合わせ。次の仕事の打ち合わせ。

 そのあと、京都府庁のあるイベントの講師を依頼されたので、その打ち合わせのため、府庁に行く。

 さらに寺町丸太町の京都市歴史資料館に、ある書籍を購入しにうかがう。が、展示変えのため、臨時休館。がっかり。でもダメもとで呼び鈴を押したら、応じてくださった。ありがとうございます。大変助かりました。

 寺町を南下して二条通に達する。友人がつとめているので、のぞく。某冷菓を差し入れる。おられてよかった。1本当たりが出たそうだ。何よりだ。

 一旦帰宅し、また出かけようと思ったら、京都新聞社のS藤記者からメールがきて、「中村武生さんとあるく洛中洛外」の今週締め切りは今日ですよと告げられる。忘れていた。危なかった。

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2009.08.17

幕末の土佐摂津住吉陣屋を論ずる

8/16(日)はれ

 嵯峨野学藝倶楽部に出講。「三宅安兵衛遺志」碑の最終回。相楽郡山城町・加茂町・笠置町の三宅碑18基を紹介し、論ずる。

 まだ久世郡久御山町などの碑を紹介していなかった。今回最終回は、少々つらい。でも次回からの計画があるからやむをえない。

 次回からは、やはり多数の建碑を行った、京都市教育会のはなし。「池田屋騒動之址」も「坂本龍馬中岡慎太郎遭難之地」も、この団体が建てた。よろしければお越しください。

 9/20(日)「京都市教育会と建碑事業」

 10/18(日)「学校教科書に載った歴史の場所に建碑しよう!」

 11/22(日)「意外と多い商人・学者の邸宅跡の碑」

 12/20(日)「どうして河原町三条界隈に幕末史蹟は多いのか」

です。時間は11:00-12:30です。

三壺庵
(京都市右京区嵯峨野開町14-1。京福電車「帷子ノ辻」駅下車徒歩3分)
1回:1.000円(茶菓子付)
先着25名。要予約⇒sagano@ren-produce.com
伝統文化プロデュース【連】
URL:http://www.ren-produce.com/

 夕方からは、キャンパスプラザ京都で「基礎からまなぶ坂本龍馬」に出講。文久元年(1861)11月と、文久3年(1863)正月ごろの龍馬の居所を検討する。

 とくに土佐山内家が文久元年(1861)4月に設置した、摂津国住吉郡中在地村・今在地村(現大阪市住吉区)の陣屋(住吉陣屋)にこだわる。

 先日、よみうり天満講座でも取り上げたが、そのときは情報不足があり、誤りもした。それゆえ最近こだわっていて、情報も増えてきた。だから再度、取り上げた。

 10月には当講座で、住吉陣屋跡を巡検する予定。付近にもいろいろ幕末史跡があるし。ご関心あるかたはどうぞお越しください。次回は9月20日(日)です。

参加費:1,000円   
定 員:60名
場 所:キャンパスプラザ京都5F第3・4演習室
京都市下京区西洞院通塩小路 (JR京都駅ビックカメラ前)
お問い合せ:龍馬カンパニー
京都市中京区木屋町通六角下ル材木町184 都会館1F「龍馬」
TEL/FAX 075-211-3666

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2009.08.15

また僕蔵の江戸日記のはなし

8/14(金)はれ

 くずし字入門に出講。

 本日も拙蔵の「在府逗留日記」(江戸滞在日記)を読んだ。今回は三回目。

 日記の筆者(記主)は「勘解由」というらしい。

 その記主が、中山備中守の家来で御勝手方御用人の藤田市郎右衛門を訪ねた。

 記主は難波備前守からの「引合セ書状」(紹介状のようなもの)をもって行ったようで、そこに「内願之趣」(訪問内容)のあらましは記してあったが、詳しくは「勘解由」自身が申し述べるので、万事世話をしてやって欲しいと認めてあった。

 が、初めての訪問なので御目にかかることがでぎず、手紙のみ手渡し、読んでほしい、1~2日ののちに再びうかがいますからと辞去した。

 なおこの中山備中守は、「水戸様」の御附家老で、「水戸様」の「伯父君」にあたる。石高は1万石で、老中にも毎度会いに行ける人で、江戸ではよく知られた方だそうだ。

 そのあと記主は、その足で「壬生様」の手紙を持って、芝口の松平伊予守屋敷を訪問した。玄関で取次の林■介という人に申し入れたところ、用人の森孫三郎がたしかに手紙を受け取った、さっそく「堀川様」へさしあげると返事をした。

 なぜ「堀川様」への書状を森孫三郎が引き受けたかというと、森孫三郎の父森嘉左衞門が「堀川様」の用人を勤めているからなのだそうだ。

 以上が今回読んだところの概要である。

 「壬生様」も「堀川様」も平出(わざわざ改行してその人の名前を行の先頭に持ってくること)や欠字(その人の名前の前を一字空白にする)をなされている。かなり身分の高い人らしい。公家ではないかと思っているのだが、いまのところ確証はない。

 「壬生様」の手紙を持って行っているところからすれば、記主は「壬生様」に仕えているのかも知れない。

 ちなみに中山備中守は、歴代、水戸徳川家の御附家老をしている家だが、その歴代当主のうち、水戸徳川家当主の「伯父」(叔父)にあたるのは、たった一人のように思う。

 水戸徳川家5代宗翰(むねもと)の9男、中山信敬(のぶたか/中山家10代)である。

 水戸7代治紀(はるとし)からみて、父の弟すなわち叔父にあたるのだ(伯父ではないのが気になるが)。

 治紀の水戸家当主の期間は、文化2年(1805)から文化13(1816)である。ここまでの推定が正しいとすると、本日記の年代はこの期間にあたるということか。

 恥ずかしながら、難波備前守や、芝口に屋敷をもっている松平伊予守が誰のことなのかも、いまだ不詳である。

 受講者から、「堀川様」は公家ではなく、高家の堀川広益ではないかと意見を頂戴した。すごいそれは気づかなかった。堀川広益は公家久我通名の子だし、石高は500石と低いが、官位は従四位上、兵部大輔である。

 が、堀川広益の没年は宝暦6年(1756)である。だから、さきほどの文化2年(1805)から文化13(1816)かという推定にあてはまらない。

 それ以後の堀川広益の子孫はどうかであるが、彼以後は「有馬」苗字をなのり、「堀川様」ではなくなる。ここにも矛盾が発生する。

 いかに近世真っ只中の江戸の情報に僕が浅いか、今回思い知らされた。

 本日記は、これから老中なども登場し、情報満載といえる。だから年代決定は急がないでいよう。とにかく久しぶりに「くずし字入門」を楽しんでいる。またお話いたします。

 関心のある方は、ぜひ「くずし字入門」にお越しください。原則、毎週金曜日、JR京都駅前のキャンパスプラザ京都の5階です。参加費はワンコイン(500円)です。予約不要です。

 次回は、8月21日(金)午後0時30分から1時40分までです。

 次回以後は、8月28日(金)、9月4日(金)、9月11日(金)、9月18日(金)です。

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2009.08.14

来月は右京区です

8/12(水)はれ

 月一回の「中村武生さんとあるく洛中洛外」の取材の日。来月は右京区。主に花園・太秦地区をあっちいったり、こっちいったり。

 本当は京北町に行きたかったのだが、「洛外」にしては遠すぎるというのであきらめた。光厳上皇のはなしをしたかったのだ。

 午前中で終えて、一旦帰宅。あさって掲載分の校正をして、夜、「洛中洛外」メンバーと暑気払いに行く。カメラマンO村さんと記者S藤さんと。

 本日はいつもの「龍馬」のおりょうさんの誕生日である。だから、二次会はそちらへ。本日は三時間睡眠だったので、店で寝てしまった。

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2009.08.10

幕末の大坂の意義を論じた

8/9(日)くもり時々雨

 大阪・天満のよみうり文化センターに出講。

 「大坂の古地図をあるく」という講座。今回のサブタイトルは「幕末志士の大坂―篤姫や龍馬のあるいた場所」。

 幕末期の大坂はなぜ大事なのか、なぜ諸事件がおきるのか、というのを攘夷・将軍上洛とセットで論じたつもり。

 意外なことに、大坂南郊の「住吉」に話題が集中した。偶然なのだが、驚いた。

 時間がたりなかったことと、一ヶ所致命的なミスをしたことが悔やまれる。ミスの内容と訂正事項は、次回の見学会でみなさんにお伝えします。申し訳ありません。

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2009.08.08

僕所蔵の江戸日記を読みだした

8/7(金)はれ

 くずし字入門に出講。

 前回から、ぼくの所蔵品をテキストに使っている。

 年不明7月から8月にかけての、「在府逗留中日記帳」である。年不明だが、本文の記載内容から、江戸後期の19世紀初頭のものと思われる。

 おそらく記主は京都の人だろう。何かの用事で江戸に行き、そこに滞在中の公務日記だろう。

 久しぶりに僕は楽しんでいる。手に入れてから2年ほどたつが、ずっと放置していた。熱心なみなさんのおかげで、ようやく読もうという気になってきた。

 分量はたいしたことない。15丁なので、30ページほどだ。意味ある内容なら、活字化してもよいかも知れない。わからないけれど。

 夜は、懸案の仕事をひとつ、やっと仕上げた。ほっとした。

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2009.08.06

【シンポ】京都の花街の現在と未来を考える

 京都の花街のシンポジウムのお知らせです。

 僕もかかわっている、花街文化研究会のメンバーも参加します。

 興味深い内容と思います。

 ぜひご参加ください。

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2回 京都創生花街シンポジウム

『京の花街 ひと・わざ・まち ―歌舞練場から花街の現状と未来を考える―』 

                   ご案内        

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◇開催にあたり

 「花街(かがい)」は歴史的に多くの文化を創造し、また今日に伝え続けてい

ます。

 20083月に京都創生シンポジウム「<京都発>花街の文化とまちづくり」が

開かれ、このような花街の文化の多様性について議論されました。これを発展

させて刊行したのが『京の花街 ひと・わざ・まち』(日本評論社)です。

これを機に、ますますの花街の文化が発展し、また花街文化の研究が進めら

れますことを祈念し、『京の花街 ひと・わざ・まち』刊行記念シンポジウムならび

に記念会を開催する運びとなりました。

 花街についての理解を深めて頂くことに加え、その未来につても考えていただ

ける、貴重な機会にあんることと思います。ぜひ、お気軽にお越しください。

  第一部となるシンポジウムでは、執筆者による討議だけでなく、花街の宴会

等で演奏を担当する「地方(じかた)」にスポットをあて、出版にご協力いただい

た先斗町の芸妓・もみ鶴さんにお座敷唄の演奏を披露していただきます。第二

部の記念会では、花街の未来をご参加の皆様と語り合いたいと思います。また

、もみ鶴さんに加え、出版にご協力いただいた上七軒の芸妓・勝喜代さん、宮

川町の芸妓・美代治さんにもお越しいただき、舞の披露を予定しております。

◇日時

 2009815()

      第一部 13:30開場/14:00開演(1630終演予定)

      第二部 16:30受付/1700開会(1900閉会予定)

◇場所

 京都コンサートホール((第一部:ムラタホール/第二部:1階エントランス)

 〒606-0823 京都市左京区下鴨半木町1番地の26

 http://www.kyoto-ongeibun.jp/kyotoconcerthall/

◇参加費

 第一部:無料(事前申込不要)/第二部:有料(8,000*要事前申込)

URLhttp://www.ren-produce.com/kagai-sympo2/index.html

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◆第一部

2回京都創生花街シンポジウム

『京の花街 ひと・わざ・まち -歌舞練場から花街の現状と未来を考える-』

◆内容

 『京の花街 ひと・わざ・まち』の執筆者が執筆を通して見えてきた花街の現

状と問題点について、今回は<歌舞練場>に焦点を当てながら語りあいます。

 さらに、『京の花街 ひと・わざ・まち』にも登場いただいた、先斗町の地方(

じたか)・もみ鶴さんをお招きし演奏をお楽しみいただくと共に、地方(じかた)

の現状について、お話を伺います。

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◆第二部

太田達・平竹耕三編著『京の花街 ひと・わざ・まち』出版記念会

◆内容

『京の花街 ひと・わざ・まち』の刊行を記念し、執筆者とともに、花街の現状や

未来を語り合いませんか。出版に協力いただいた芸妓さんや舞妓さんによる、

舞の披露も予定しております。

◆会費 8,000円(要事前申込)

 *軽食をご用意しております。

 *太田達・平竹耕三編著『京の花街 ひと・わざ・まち』を1冊贈呈いたします。

◆お申込方法

 E-mailまたはFAXにて下記までお申し込みください。(※第二部のみ)

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◆お問い合わせ先

 『京の花街 ひと・わざ・まち』出版記念会事務局

 [花街文化研究会 内]

 Tel: 090-6808-0453 Fax: 075-864-9700

 E-mail: kagai@ren-produce.com

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直江兼続ゆかりの石清水八幡宮滝本坊跡に立った

8/3(月)はれ

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 「基礎からまなぶ日本歴史」恒例の月例巡検の日。

 今回は石清水八幡宮へ。上杉景勝(や直江兼続)がはじめて上洛した天正14年(1586)、さまざまなところへ行った。

  そのひとつが石清水八幡宮である。上洛日記によると、滝本坊に入ったらしい。その地にたつために来た。原文は以下。

(前略)(六月)十八日、従大坂御上洛。石清水八幡宮へ御社参。於滝本坊御振舞有之。深更御京着候事。翌十九六条ニ御坐候 (後略)

(「天正十四年上洛日帳」(東京大学史料編纂所蔵。同所のサイトのデータベースで読めます) 

【現代語訳】6月18日、大坂より京都へ上がられた。(途中)石清水八幡宮へ御参りをされた。滝本坊において御振る舞いがあった。深夜に京都へ着かれた。翌19日は六条本国寺におられた。

 その跡地には、いつもの「三宅安兵衛遺志」碑が建っているが、驚くほど荒れている。大河ドラマに便乗しようとしない、石清水八幡宮の欲のなさに感心する。ほめているわけではないのだが

 山内に山ほど建っている三宅碑をみまくり、古城跡さながらの崩れ落ちた坊(寺)跡の石垣に哀愁を感じた。石清水の参拝ぐらいしたことがある人ばかりだったが、こんな見学はなかなかなさらないようだ。けっこうウケた。

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2009.08.02

名古屋でかっこいい桂小五郎の「残念」な部分を紹介し、泉州堺へ行く

8/1(土)大雨のちくもり

 名古屋の栄中日文化センターに出講の日。

  なのに朝、雷雨・豪雨。

 家を出るときに、すさまじいことになる。行けへんがな。奥さんに近くの地下鉄駅まで車で送ってもらった。助かった。

 地下鉄もやっと来たと思ったら、その駅に到着してすぐ動かなくなった。車内事故とかで約10分とまっていた。詳しい理由は知らない。

 名古屋遅着を危惧したが、たいしたことはなかった。いつも通り、着けた。 

 「幕末志士の手紙をよむ」その5。今回は桂小五郎(木戸孝允)。池田屋事件直前・直後の有名な書翰、禁門の変に関する自叙、潜伏中の但馬での書翰などを読んだ。

 かっこいいところと、びっくりするぐらい「残念な」ところを知ってもらいたかったから。総じて桂小五郎(木戸孝允)は魅力的であると、伝わったでしょうか。

 当然、いつもの「ここだけの話」をした。

 終了後、中日ビルでいつもの茶話会をして、つぎは大阪府堺市へむかう。

 堺龍馬会の懇親会というのがあって、それにぜひにと招聘された。ありがたいことなので、うかがった。

 堺は惣構(そうがまえ。まち全体を囲いこむ城壁・堀)をもった戦国期屈指の自治都市として関心がふかい。

 幕末期には、京都から大坂をへて大和へむかう天誅組が、船で上陸した場所である。堺港には碑もあり、思い入れがある。

 明治新政府の外交を考える上で興味深い、堺事件の地でもある。

 堺にくると、「堺だ」と特殊な気持ちになれる。楽しい。

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2009.08.01

新選組屋敷の建物と山田邦和博士とかなり近い親戚

7/31(金)はれ

 金曜日だから、京都新聞朝刊(市民版)にいつもの「中村武生さんとあるく洛中洛外」が載っていた。今月は金曜日が5週あるので本来は休みなのだが、好評のため今週も掲載された。

 新選組の洛中屋敷のうち、いわゆる「不動堂村屋敷」と西本願寺屋敷について、述べた。

 土方歳三がいう旅宿「西本願寺講堂」(慶応元年(1865)3月1日付、佐藤彦五郎宛書翰)とは、旧西本願寺北集会所(現亀山本徳寺本堂(兵庫県姫路市))でいいのかと、問題視した。

 それはまあいいのだ。

 6面の「私論公論」コーナーをみると、山田邦和博士の「天皇陵研究の新時代へ」という玉稿が載っていた。天皇陵公開(発掘ではない)の意義を、明治天皇陵(伏見城跡)などご自身の経験を事例に語られたものであった。

 同日の新聞内に山田博士と共存していたわけだ。名誉なことだ。

 ちなみにテレビ欄にはとても近しい親戚の作品紹介もあり、記念すべき新聞になった。

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