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2009.07.11

「天地人」の聚楽城復元をみての感想

先週7月5日放映分の「天地人」(第27回「与六と与七」)を見て、感想を書きたくなった。

 はじまって10分ぐらいで、聚楽城が出た。桐野作人さんのブログでも紹介されているが、聚楽城を鳥瞰したCGなんて過去に例がないと思う。とても喜んだ。

 が、静止して見直すと、とんでもないものだと気づかれた。

 まずどこから描いたものかを特定したいと思った。塔が遠望された。おそらく現存の東寺五重塔だろう。すると北東方向から描いたことになる。

 ならば聚楽城天守は本丸の南西に位置することになる。これは最近の理解としては誤りであろう。

 三井記念美術館(旧三井文庫別館)の「聚楽第図屏風」や、尼崎本「洛中洛外図屏風」によれば、天守は北西隅にあったといえる。中井均さんの研究もそれを踏襲している(日本史研究会編『豊臣秀吉と京都』文理閣)。

 手前(東側)に「西本願寺飛雲閣」と思しき建物がある。飛雲閣は聚楽城の建物遺構ではなく、江戸初期の新築建物であることはいまや常識の域である。おかしい。それから敷地のまんなかに広大な池があった。

 これらの配置により、思いだされるものがあった。幕末の天保13年(1843)に描かれた、京都の学者名倉希言による想像図「豊公築所聚楽城之図」である。ただこれは北東からではなく、南東からの鳥瞰図だが。

 真中の池は同図が描く「須浜池」だろう。それならば分かる。同図では天守っぽい建物は南方に描かれている。

 それにしても、どうしてそんな古い図をいまさら復元に使うのか、不思議だ。そう思ってよくみると、それら建物が古びてみえた。CGなのに。で、静止画にして熟視すると、模型だときづいた。

 どこと断定できないが、どこかの展示施設がかなり以前に制作した模型を利用したのではないか。

 背景も気になった。

 聚楽城の西側に平屋の檜皮葺と思われる屋根がみえる。なんだろうと思った。聚楽城の西側に市街地はない。内裏は東だし。肯定的にうけいれるなら、屏風図類が描く聚楽城内の後陽成天皇行幸の際の「きやうこのま(行幸の間)」なのだろう。それにしては、聚楽城の外に描かれているようにみえる。

 ああ、いい忘れてた。

 先ほど、どちらの方向から描いたのかを決める際に基準に使用した東寺五重塔。ドラマの時期は、天正15年(1587)11月である。このとき、実は東寺に五重塔はない。

 永禄6年(1563)に焼けているからである。それを復興したのは秀吉であるが、それは文禄3年(1594)のことである。そう、7年後のことなのだ(その後それも焼けるので、現存の建物はさらに新しいものです)。

 過去の景観を正確に復元することは、とても難しいことだと思う。が、多くの人がみる番組であるから、やはり専門家に丁寧な監修を求めるべきである。今回の聚楽城復元は、よい企画だったのに、出来栄えはあきれるほどお粗末でした。残念です。

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