豊臣秀頼は関白になれたかどうかを論ずる
7/21(火)あめのちくもり
基礎からまなぶ日本歴史に出講。豊臣秀頼論のつつぎ。はたして豊臣秀頼は関白になれたかどうか。
というのは、慶長12年(1607)1月11日、秀頼が右大臣を辞しているからである (公卿補任)。
『関ケ原合戦と大坂の役』で、笠谷和比古さんはこれにふれずに「豊臣・徳川二元公儀」論を展開しておられる。はたしてこの件を無視してよいか。
近世政治に詳しい久保貴子さんは、慶長11年(1606)4月、徳川の推挙無く武家に官位を与えないよう武家伝奏を通じて朝廷に申し入れた点をとりあげられ、これを豊臣秀頼の官位の執奏権の抑止したものとし、将来の秀頼関白就任はなくなったとされる。秀頼の右大臣辞任はこの翌年である(『徳川和子』17ページ、吉川弘文館、2008年)。
僕は桐野作人さんの所論に導かれて、家康が亡くなればl秀頼関白就任はありえたと位置づけ、笠谷和比古さんの「豊臣・徳川二大公儀」論を支持したつもり。
秀頼の右大臣辞任は、昇進して左大臣就任することを避けたからと理解した。
家康が前右大臣だから、左大臣秀頼が実現すると家康をこえてしまう。これを徳川がきらい、朝廷や豊臣家が遠慮したというわけである。だから家康の死後はありえるということだ。
ただ一点気になったのは、秀頼と秀忠の関係である。
家康との関係ばかりが話題になり、家康死後は秀頼のカリスマに秀忠は勝てなかったかも知れないという仮定が「豊臣政権復活」論にはおもしろいのだが、それでいいのかどうか。
何がいいたいのかというと、慶長19年(1614)3月9日、将軍徳川秀忠が員外で右大臣に任ぜられ、従一位に叙されているからである。
このとき官は秀頼と並び、位はそれをこえる。ほとんど話題にならないが、豊臣家はこれをみすごしてよかったのだろうか。将来、今度は秀忠に遠慮しないといけなくなるのではないか。それを徳川はねらったものではないか。
慶長19年(1614)3月は、大坂冬の陣の半年前である。いろいろと考えるべきことが多いことを述べたつもり。
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