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2009.07.31

忙しいことに疲れたので考え事をした

7/30(木)はれ

 第五週目の木曜だったので、決まった仕事がなかった。

 夜は夜で、定例の研究会が臨時休会になった。

 そんなわけで、ずっと家にいて仕事をしてた。居眠りしながらだから、進まなかったけど。

 でもふだん気になりながらできていなかったことがいくつかできたので、それはよかった。

 余分な時間は大事だわ。もうほとんどオーバーワーク状態だから冷静を欠き出しているけど、気分を落ち着かせることができた。

 まあ、地道に行くほかない、という結論でしかないが。

 それでいいのだ。

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2009.07.30

高橋慎一朗さんと飲んだ

7/29(水)はれ夜雨

 京都女子大学に行く。今日は前期試験の日。

 新型インフルエンザのせいで、講義がずれこんだせい。迷惑。

 230人も登録している。大変だった。いろんな人間模様があった。必ず遅刻してくる人があるし、受付がすぎてからの入場希望もある。もちろん受けさせられない。悲喜こもごも。

 夜、高橋慎一朗さん(中世史。東京大学史料編纂所)と山科駅前で飲んだ。いま醍醐寺に調査で来ておられる。楽しかった。

『日本金石文の編年史料化と史料学的分析方法に関する研究』(科研費報告書、2008年3月)もいただいた。感謝。

 石碑のはなしでもりあがる。鎌倉市に多数の建碑をした「鎌倉青年団」が話題に出た。いままだ京都府下の研究にとどまっているが、将来はこういう団体の研究もあるべきだと思った。

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2009.07.28

町田明広さんと会った

7/25(土)大雨

 絶句するような大雨。

 佐和山城跡(滋賀県彦根市)の発掘調査、現地説明会に行くつもりがいけなかった。

 夜、東京の維新史家、町田明広氏(博士(文学・佛教大学))と会う。今回上洛されたのは、龍馬カンパニー主催の龍馬講座に出講のため。

 大雨と宣伝不足のため、とてもお客さん少なかった由。が、レジュメを拝見しておどろいた。坂本龍馬を東アジア論の視野でとらえようとされていた。

 残念だなあ。龍馬ファンには必見(必聴)のおはなしなのに。また九月にもある由ですから、今度は行ってください。

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2009.07.25

幕末志士の書翰が難解だった模様

7/24(金)はれ

 くずし字入門に出講。久しぶりに幕末史料を読みだした。ある幕末志士の書翰2通である。難解だった模様。もう前の記録にもどりたいという声あり。なれたらねえ、読めてくるのだけれど。考えます。

 終了後、打ち合わせを兼ねて、法人監事のKさんと食事。またいろいろ教えていただいた。

 家に帰って、また仕事つづき。あまりやる気がでないが。

 夜、東京の歴史作家(僕は歴史研究者といいたいのだが)桐野作人先生からお電話。あるお仕事の御誘い。楽しみです。ありがとうございます。

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2009.07.24

直江兼続から龍馬へ移行しはじめる

7/23(木)はれ

 京都新聞文化センターに出講。「直江兼続のみた洛中洛外」の2回目。

 関ケ原合戦研究の最近の動向とか、史料にもとづいた小田原合戦とか(上杉景勝・直江兼続が参加)とか、伏見城研究のいまとか話す。やっぱり時間が足りなかった。

 終了後、Y田係長と10月からの新講座の打ち合わせをした。やっぱり「龍馬」である。

 最近、龍馬の仕事が確実に増えている。2004年の「新選組!」の比ではない。少しは世に知られたということか。

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2009.07.23

豊臣秀頼は関白になれたかどうかを論ずる

7/21(火)あめのちくもり

 基礎からまなぶ日本歴史に出講。豊臣秀頼論のつつぎ。はたして豊臣秀頼は関白になれたかどうか。

 というのは、慶長12(1607)111日、秀頼が右大臣を辞しているからである (公卿補任)

 『関ケ原合戦と大坂の役』で、笠谷和比古さんはこれにふれずに「豊臣・徳川二元公儀」論を展開しておられる。はたしてこの件を無視してよいか。

 近世政治に詳しい久保貴子さんは、慶長11年(1606)4月、徳川の推挙無く武家に官位を与えないよう武家伝奏を通じて朝廷に申し入れた点をとりあげられ、これを豊臣秀頼の官位の執奏権の抑止したものとし、将来の秀頼関白就任はなくなったとされる。秀頼の右大臣辞任はこの翌年である(『徳川和子』17ページ、吉川弘文館、2008)

 僕は桐野作人さんの所論に導かれて、家康が亡くなればl秀頼関白就任はありえたと位置づけ、笠谷和比古さんの「豊臣・徳川二大公儀」論を支持したつもり。

 秀頼の右大臣辞任は、昇進して左大臣就任することを避けたからと理解した。

 家康が前右大臣だから、左大臣秀頼が実現すると家康をこえてしまう。これを徳川がきらい、朝廷や豊臣家が遠慮したというわけである。だから家康の死後はありえるということだ。

 ただ一点気になったのは、秀頼と秀忠の関係である。

 家康との関係ばかりが話題になり、家康死後は秀頼のカリスマに秀忠は勝てなかったかも知れないという仮定が「豊臣政権復活」論にはおもしろいのだが、それでいいのかどうか。

何がいいたいのかというと、慶長19年(1614)3月9日、将軍徳川秀忠が員外で右大臣に任ぜられ、従一位に叙されているからである。

このとき官は秀頼と並び、位はそれをこえる。ほとんど話題にならないが、豊臣家はこれをみすごしてよかったのだろうか。将来、今度は秀忠に遠慮しないといけなくなるのではないか。それを徳川はねらったものではないか。

慶長19年(1614)3月は、大坂冬の陣の半年前である。いろいろと考えるべきことが多いことを述べたつもり。

 

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2009.07.21

家にいた

7/20(祝・月)あめ

 仕事が死ぬほどあるので、家にいた。

 昨日の嵯峨野学藝倶楽部での三宅安兵衛遺志碑論の整理もした。珍しいことだ。次回、最終回だしね。

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2009.07.20

超大物史料群、幕末京都土佐屋敷史料、高知県購入へ

7/19(日)くもり夕方一時大雨 

 午前11時から、右京区帷子の辻の嵯峨野学藝倶楽部「京都歴史講座」に出講。午前3時50分から、京都駅前で「基礎からまなぶ坂本龍馬」にも出講。

 いずれでも、去る7月15日、高知新聞に掲載された新出の幕末京都土佐屋敷史料のはなしをした。昨年からシークレットで一部に大きく話題となっていた史料だ。

 記事内容は、以下。公開が楽しみですね。

「多量の血痕と、血染めの羽織が落ちていた――。1866(慶応2)年の寺田屋事件で負傷した坂本龍馬の足跡などを、追っ手の伏見奉行所側が記した京都土佐藩邸資料がこのほど見つかり、県が購入へ向け、所有者と金額交渉を進めている。折り合えば9月の補正予算に計上する方針で、14日開かれた県議会7月定例会の文化厚生委員会に報告した。」http://203.139.202.230/?&nwSrl=245907&nwIW=1&nwVt=knd

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2009.07.19

【初講演】幕末史家町田明広氏登場

 友人、町田明広さん(幕末史家)の初講演会が、なんと京都であります。ふるってご参加ください。

 昨年の大河ドラマ「篤姫」で登場した島津久光を、あたらしい視点で論じたと評判の『島津久光=幕末政治の焦点』 (講談社選書メチエ) の著者です。

【講演案内】

町田明広の「知ってトクする幕末史講座」 

2009年725(
「東アジアにおける幕末維新期の思想と外交ー知られざる龍馬の対外認識!」


黒船はペリー来航からとされますが、実は寛政期のロシア船から始まりました。
この時期の対外交渉と、それに対する日本人の考え方を探ります。
坂本龍馬の対外認識も、勝海舟や近藤長次郎の征韓論や海援隊商法から解き明かします。

2009年927日(日)
「維新の主役・島津久光の登場 -幕末はここから始まった!」


幕末史の隠れたキーマン、島津久光は驚くほど知られていません。
西郷や大久保の陰に隠れた真の幕末の主人公、久光の生い立ちや側近体制、中央政局への登場までを、詳しく解説します。

時間12:30~13:40
【参加費】1,000円   
【定員】60
キャンパスプラザ京都5F34演習室
          
京都市下京区西洞院通塩小路 (JR京都駅ビッグカメラ前)

【主催】龍馬カンパニー(京都市中京区木屋町六角下ル都会館1階、「龍馬」内)

講師プロフィール
幕末史研究家

1962年、長野県生まれ
上智大学文学部・慶應大学文学部卒業、佛教大学文学研究科修士課程・同博士後期課程修了

博士(文学)。専攻は日本近代史(明治維新史)。

著書:

『島津久光=幕末政治の焦点』 (講談社選書メチエ) 。

主論文:

「文久三年中央政局における薩摩藩の動向について―818日政変を中心に」(日本史研究会『日本史研究』539号、2007年)

「幕末中央政局における朔平門外の変―その背景と影響について」(日本歴史学会『日本歴史』713号、2007)
「文久二年中央政局における近衛関白と薩摩藩の周旋について―四奸二嬪排斥運動を中心に―」(鷹陵史学会『鷹陵史学』34号、2008)

など

いずれも幕末の入門者からツウの方まで、満足いただける講座です。

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2009.07.18

特等席で祇園祭山鉾巡行をみた

7/17(金)小雨のちくもり

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 祇園祭山鉾巡行の日である。

 友人M夫妻のお招きで、そのマンションから山鉾巡行をみた。真ん前を山鉾が通って行った。特等席であった。写真は長刀鉾。

 ただ残念なことに、昼からいつもの「くずし字入門」があったので、3基だけ見て、会場へ向かった。

 今日は知恩院(つづき)・養源院・金地院・延暦寺などの建物復興を読んだ。養源院の復興にまた芦浦観音寺がかかわっていた。どうしてだろう。

 『滋賀県の地名』など既存の同寺の解説には一切記載がない。洛中には芦浦観音寺屋敷があるようだし、おそらくこれまで知られていない、洛中などの建築管理責任が同寺にはあるのだろう。

 次回、この史料の最終回。その後は久しぶりにまったくちがう史料を読むことにした。

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2009.07.17

聚楽第址碑建立者からご連絡いただき驚く

 先日「聚楽第址」碑が新しく建っていたと報じた。

 ただ建設者と建設日が標石にきざまれておらず分からない、残念だと記した。

 この碑の存在は、当会監事の郡邦辰さんから教えていただいたことだが、郡邦辰さんは京都市の石碑サイト「フィールド・ミュージアム京都」で知られた。

 そのサイトを訪ねて、その「聚楽第址」碑の部分を見てみると、建立者について( )でくくって、「岡本正二」とあった。

 

 その方は存じ上げない。碑にはたしかに刻んでいなかったので、京都市の独自の調査かなと思った。

 

 数日前、その岡本正二さんから突然、メールがあった。拙ブログをみられてのことだった。「私が建立者です」ということと、建立日をお知らせくださったのだ。

 

 建立日は、2009年5月19日(火)午後の由である。記して謝意を表します。ありがとうございました。

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2009.07.16

祇園祭宵山の感慨

 祇園祭宵山ですね。

 名古屋で仕事してました。帰ってから「龍馬」に寄ってました。久しぶりです。奥さんもきてくれました。楽しかったです。

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2009.07.14

大阪駅で号外配布に出くわす

7/13(月)はれ

 昨日につつぎ、大阪市内へ出張。

 今日はNHK文化センター大阪教室での講座。ここで「京都の江戸時代をあるく」を論じている。今回はミヤコの惣構こと御土居堀と寺町(寺丁)。あいかわらず、好き放題な話をさせていただいた。

 終了後、3人の方からサインを望まれた。ありがとうございます。そろそろサイン書きもなれないといけません。

 帰途、次の仕事を進めるため、帰宅を急ぐ。下手に大阪市内に滞在しているとビールを飲みたくなる。飲んではだめだ。仕事ができなくなる。

 午後3時すぎ、大阪駅で、号外をもっている人にきづく。「しめた、号外を配っているのではないか」。以前、書いたが、僕は号外コレクターである。もちろん日本屈指の新聞コレクターY名さんには及ぶべくもない。実にささやかなコレクターである。

 駅前でみつけた。朝日新聞だ。2部もらった。「総選挙8月30日」が決まったことを報じていた。裏返すと、裏はちがう記事だった。珍しい。だいたい裏は関連記事なのだが。「『脳死は人の死』成立」速報だった。

 実は号外を配っている人からもらったのは初めて。いつもはあとから人からもらうことが多い。1回だけ落ちているのをひらったことがある。

 うれしい日だった。

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2009.07.13

大坂冬の陣古戦場、惣構跡をあるく

7月12日(日)はれ

 よみうり文化センター天満校に出講。今回は巡検の日。

 午後1時30分、JR環状線「玉造」駅に集合。大坂冬の陣の古戦場、惣構(そうがまえ。いわゆる外堀)跡の南端をあるく。「玉造」駅は南東角の「黒門」跡と推定されている。

 積山洋さんの論文「豊臣氏大坂城惣構南面堀の復原」(渡辺武館長退職記念論集刊行会編『大坂城と城下町』思文閣出版、2000年)の挿図を使わせていただいた。

 真田丸跡にも立ち寄ったり、丁寧に堀跡を示す崖線を追ったので、ことのほか時間がかかった。約2時間かけたのに西はしの東横堀川に到達せず、空堀商店街の途中の谷町筋で終わる。もっと歩きたい方もおられたようだが、炎天下であった。しんどい方も多数おられたはずだ。

 みなさま、どうもありがとうございました。来月は「幕末の大坂をあるく」の座講(教室講義)です。お間違えありませんように。

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2009.07.12

聚楽城跡の新碑が建っていた

Dcf_0037 7/10(金)くもり

監事の郡邦辰さんから、聚楽城東堀跡に碑が建ったと教えていただいた。

だからすぐ見に来た。

表に「聚楽第址」、側面に「大内裏及聚楽第東濠跡」とあるだけで、いつどなたが建てられたかわからなかった。

まあ、建立碑はかなり最近だろうけど。

場所は上京区大宮通中立売北西角。1992年2月、東堀跡が検出されて現地説明会が行われた西陣ハローワークの北むかいです。

 あとあと困るので、建立年月と建立者は明記してほしいなあ、と思ったことでした。

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2009.07.11

「天地人」の聚楽城復元をみての感想

先週7月5日放映分の「天地人」(第27回「与六と与七」)を見て、感想を書きたくなった。

 はじまって10分ぐらいで、聚楽城が出た。桐野作人さんのブログでも紹介されているが、聚楽城を鳥瞰したCGなんて過去に例がないと思う。とても喜んだ。

 が、静止して見直すと、とんでもないものだと気づかれた。

 まずどこから描いたものかを特定したいと思った。塔が遠望された。おそらく現存の東寺五重塔だろう。すると北東方向から描いたことになる。

 ならば聚楽城天守は本丸の南西に位置することになる。これは最近の理解としては誤りであろう。

 三井記念美術館(旧三井文庫別館)の「聚楽第図屏風」や、尼崎本「洛中洛外図屏風」によれば、天守は北西隅にあったといえる。中井均さんの研究もそれを踏襲している(日本史研究会編『豊臣秀吉と京都』文理閣)。

 手前(東側)に「西本願寺飛雲閣」と思しき建物がある。飛雲閣は聚楽城の建物遺構ではなく、江戸初期の新築建物であることはいまや常識の域である。おかしい。それから敷地のまんなかに広大な池があった。

 これらの配置により、思いだされるものがあった。幕末の天保13年(1843)に描かれた、京都の学者名倉希言による想像図「豊公築所聚楽城之図」である。ただこれは北東からではなく、南東からの鳥瞰図だが。

 真中の池は同図が描く「須浜池」だろう。それならば分かる。同図では天守っぽい建物は南方に描かれている。

 それにしても、どうしてそんな古い図をいまさら復元に使うのか、不思議だ。そう思ってよくみると、それら建物が古びてみえた。CGなのに。で、静止画にして熟視すると、模型だときづいた。

 どこと断定できないが、どこかの展示施設がかなり以前に制作した模型を利用したのではないか。

 背景も気になった。

 聚楽城の西側に平屋の檜皮葺と思われる屋根がみえる。なんだろうと思った。聚楽城の西側に市街地はない。内裏は東だし。肯定的にうけいれるなら、屏風図類が描く聚楽城内の後陽成天皇行幸の際の「きやうこのま(行幸の間)」なのだろう。それにしては、聚楽城の外に描かれているようにみえる。

 ああ、いい忘れてた。

 先ほど、どちらの方向から描いたのかを決める際に基準に使用した東寺五重塔。ドラマの時期は、天正15年(1587)11月である。このとき、実は東寺に五重塔はない。

 永禄6年(1563)に焼けているからである。それを復興したのは秀吉であるが、それは文禄3年(1594)のことである。そう、7年後のことなのだ(その後それも焼けるので、現存の建物はさらに新しいものです)。

 過去の景観を正確に復元することは、とても難しいことだと思う。が、多くの人がみる番組であるから、やはり専門家に丁寧な監修を求めるべきである。今回の聚楽城復元は、よい企画だったのに、出来栄えはあきれるほどお粗末でした。残念です。

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2009.07.08

三玄院の石田三成墓参が叶った!

7/7(火)あめのちくもり

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 「基礎からまなぶ!日本歴史」に出講。今回から豊臣秀頼論に入る。関ケ原以後、秀頼はどんな存在だったのか。あわせて淀殿・北政所論も。最近、研究が進んだ分野である。次回もつづく。

 午後3時、大徳寺三玄院へ。いわずと知れた石田三成の墓所である。非公開寺院である。大学生だった1989年に断られて以来、墓参は悲願だった。

 今回、A野さんが僕の意をくんで、大徳寺とご縁の深いお仲間Y田さんにご協力を要請し、初めて墓参が実現した。

 感激した。三成墓碑の側面に、三基の一石五輪塔がある。戒名と没年月日が刻まれていた。中央が兄石田正澄、向かって右がその子右近、左が同じく正澄の子主水正と思われた。

 1907年(明治40)の改葬以前の埋骨地もご住職に教えていただく。渡辺世祐博士『稿本石田三成』(1908年、私家版)282~283ページのあいだに掲載された墓所写真は改葬前のものと思われるが、それと比べても同じ墓石が皆無でよくわからなかった。100年もたつとさまざま変化するものか。

 ご住職から無口ですね、といわれる。いろいろ思うことがありすぎて。

 昨日、三成死刑引き廻し推定ルートをあるき、終焉地に立ったばかり。信じられない都合のよさ。

 ここは古田織部や森忠政(美作津山城主。蘭丸の弟)の墓所でもある。とくに森忠政は、上洛中の寛永11年(1634)7月7日に亡くなっている。そう、偶然だが、祥月命日だったのだ。呼ばれたか。

 旧公家にして旧華族の久我(こが)家の墓所であることも、初めて知った。すなわち女優久我美子(くが・よしこ)さんの実家である。久我美子さんのお母さんの墓碑もあった。

 帰りにご住職から、三玄院の開山にして三成を埋葬したとされる、春屋宗園(円鑑国師)の伝記『大宝円鑑国師一黙稿』(三玄院編、淡交新社、1960年)を恵贈される。予期せぬことでとても喜ぶ。

 今年は潜伏したとされる旧古橋村の石窟にも入れたし、なんという年か。生きていると願いはかなうものだと、また思った。感無量だった。

 残念ながら、写真撮影は許されなかった。そのため掲示できません。冒頭写真は、山門前の道標です(1908年10月、名古屋朝日町の石田喜蔵建立)。

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2009.07.07

石田三成の死刑を追いかけ、池田屋再開に立ち会った

7/6(月)あめのちはれ

 朝5時に寝て、7時半に起きた。久しぶりの2時間半睡眠。今月の池田屋原稿をあげるまで頑張ったから。でもまだ「池田屋」に入ってない。すごい連載になってる(講談社メルマガ連載中)。

 午前9時、地下鉄二条城前駅改札集合。恒例の月例、基礎からまなぶ日本歴史の巡検日。石田三成の死刑引き廻し推定ルートをあるいた。

 石田三成らは奥平信昌屋敷に収容されていた。そこから六条河原にむかった。その奥平邸はどこか、これが今回の焦点のひとつとなった。

 渡辺世祐博士は『稿本石田三成』で、堀川出水としている。が、その典拠がわからない。ちがうのではないか。結論はでなかったが、候補地は堀川出水もふくめて4か所ぐらいあげた。そのうち3つまで訪ねた。

 さすがにすべてをあるくことは困難だった。だから途中から電車に乗り、目前の地からまた歩き出した。

 で、最後はちゃんと六条河原に到着した。12時40分ごろ。そこから何がみえたかも話題にした。現地に立ったからわかること。やっぱりこないとだめだ。

 お昼は有志と京都駅前でいただく。終了後、河原町三条へむかう。

 午後3時から、池田屋跡でのイベントに参加。全国チェーン展開をしておられる居酒屋「はなの舞」が、ここに出店をする(7月8日=池田屋事件の日)。だからその前々日に関係者に内覧会をされた。そこへの参加だった。

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 K都新聞社のS藤T幸記者に連れて行ってもらった。内部でいつもの「龍馬さん」と「おりょうさん」に出会った。ゲストに土方歳三役でしられた俳優、栗塚旭氏もおこし。「龍馬さん」のご紹介で握手した。

 詳しくは「龍馬」のブログをごらんください。

http://kyoto-ryoma.jp/blog/index.php

 「池田屋」原稿に1週間つきっきりだった。だから1週間、酒を飲んでいなかったので、ここで久しぶりにいただく。

 池田屋跡にひさしぶりに「池田屋」を標榜した店ができた。地域活性に大きな役割をはたすだろう。個人的には、「主人」は新選組ではなく、池田屋惣兵衞であってほしいが、のぞめないことだな。

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2009.07.05

池田屋事件直前の西郷隆盛の手紙を読んだ

7/4(土)はれ

 名古屋の栄中日文化センターに出講。

 「幕末志士の手紙をよむ」の4回目。今回は西郷隆盛。

 まずは慶応2年(1866)12月29日付、3日前に西郷隆盛の家臣琉仲祐(徳之島仲祐)が京都で病死した。それをいたんだ書翰を読んだ。

 西郷は一般に「いい人」イメージがある。イメージではなく、実際に「この人なら、人はついて行きたくなるなあ」と僕が初めて思った忘れられないもの。

 なおこの琉仲祐の死を、新選組土方歳三が殺害したと記すものがあるが、根拠を提示されたことはなく、信ずるにたらない話であろう。

 本書翰は『西郷隆盛全集』には入っていないようで、横山健堂『大西郷兄弟』(宮越太陽堂書房、1944年、276ページ)から引用した。

なお琉仲祐は、相国寺塔頭の林光院に埋葬されたようで、同地にいまも西郷自筆銘による思われる墓碑が残る。

 西郷の楷書の筆跡は、かわいらしい文字で特徴がある。ほかに西郷筆跡と伝わる、伏見区大黒寺の寺田屋事件戦死者墓碑銘や、東山区東福寺即宗院の戊辰役戦死者墓碑銘も同じである。まちがいなかろう。

 カラーでクリアーな写真が、木村幸比古氏『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』(淡交社、2005年、16ページ)に掲載されている。ご参照ください。

 この墓碑以外にも、西郷は、薩摩の西郷家先祖墓地にも琉仲祐の墓碑をつくっている。なんと家臣思いか。書翰内容とセットで感動できるはなしだ。

 話がながくなりすぎた。ほかには、いまの僕の関心から、池田屋事件直前の京都からの西郷の手紙を読んだ。でも時間が全然足らず、かなり中途半端に終わった。

 事件直後に中村半次郎を長州屋敷にスパイとして送り込んだことを記した書翰(元治元年6月14日付大久保利通宛、全集1巻317ページ)も読みたかったが、残念だった(書翰の存在は桐野作人さんから先日教示をうけました)。

 今夜もいつもの「龍馬」に遊びにいかず、まっすぐ家に帰って、「池田屋事件」になやんだ。

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2009.07.04

池田屋事件になやむ

7/3(金)はれ

 くずし字入門に出講。まだ江戸時代の社寺の建物修復記録を読んでいる。今回は東寺、愛宕社、上賀茂社、下鴨社、河合社。なんで芦浦観音寺(滋賀県草津市)が愛宕社の復興にかかわるのか、という疑問がわいたりした。

 芦浦観音寺を巡検したいと、ちょっと思った。

 終了後、K理事と昼食を兼ねて歓談。相手におかまいなく、行き詰った池田屋事件論を吐く。いつもの喫茶店Hばで。みなさん、大事にしてくださる。今朝の京都新聞連載(中村武生さんとあるく洛中洛外)も読んでくださり、頭使いすぎてるからと、ショートケーキをサービスしてくださった。いつもありがとうございます。

 K理事に吐いたおかげで、やる気がでた。寺町三条上ルのスマートで修正する。進んだ。その勢いで、龍馬で遊ばず帰宅。

 家に帰って、食事して、また「池田屋事件」に立ち向かう。かなりうまく行った。進んだとはいいがたいが。よりよくなっているとだけ言っておく。

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2009.07.03

龍馬殺害地標石での除幕式をみた

6/30(火)はれのち雨

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 基礎からまなぶ日本歴史に出講。

 きたる7/6(月)午前中に、月例の巡検がある。「石田三成の死刑引き廻し推定ルートをあるく」という、超マニア行為。

 その準備会みたいなことをした。石田三成らの死刑執行は、慶長5年10月1日(1600年11月6日)である。その日の公家日記や、有名な「柿のはなし」の原典にあたった。「付録」もあったので、やっている本人が楽しかった。

 夕方から河原町通蛸薬師に出る。「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」標石前に、京都市による駒札と献花台ができた。その除幕式があったので、見に行った。

 京都市長もこられて、すごい狭い空間なのに、大にぎわい。知っている人が多数来られて、同窓会気分だった。

 (駒札の文章に少々問題があるのではないかと、読売新聞のT岡記者に聞かれたので、そうだなあとつぶやいたら、翌日の朝刊に活かされていて、驚いた)。

 夕方のNHK京都ニュースに報じられていたと聞いたが、僕はみれなかった。

 午後5時から、三条ラジオカフェにいつものラジオ収録に行く。池田屋跡の再開店のこと、八幡・松花堂弁当の器展のこと、最近いただいた本のことなどをしゃべった気がする。

 そのまま急いで帰って、原稿を打ち込むつもりが、いつもの「龍馬」で、京都国立博物館と京都文化博物館の「龍馬先生」がおこしで、楽しんでしまった。

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