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2009.07.08

三玄院の石田三成墓参が叶った!

7/7(火)あめのちくもり

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 「基礎からまなぶ!日本歴史」に出講。今回から豊臣秀頼論に入る。関ケ原以後、秀頼はどんな存在だったのか。あわせて淀殿・北政所論も。最近、研究が進んだ分野である。次回もつづく。

 午後3時、大徳寺三玄院へ。いわずと知れた石田三成の墓所である。非公開寺院である。大学生だった1989年に断られて以来、墓参は悲願だった。

 今回、A野さんが僕の意をくんで、大徳寺とご縁の深いお仲間Y田さんにご協力を要請し、初めて墓参が実現した。

 感激した。三成墓碑の側面に、三基の一石五輪塔がある。戒名と没年月日が刻まれていた。中央が兄石田正澄、向かって右がその子右近、左が同じく正澄の子主水正と思われた。

 1907年(明治40)の改葬以前の埋骨地もご住職に教えていただく。渡辺世祐博士『稿本石田三成』(1908年、私家版)282~283ページのあいだに掲載された墓所写真は改葬前のものと思われるが、それと比べても同じ墓石が皆無でよくわからなかった。100年もたつとさまざま変化するものか。

 ご住職から無口ですね、といわれる。いろいろ思うことがありすぎて。

 昨日、三成死刑引き廻し推定ルートをあるき、終焉地に立ったばかり。信じられない都合のよさ。

 ここは古田織部や森忠政(美作津山城主。蘭丸の弟)の墓所でもある。とくに森忠政は、上洛中の寛永11年(1634)7月7日に亡くなっている。そう、偶然だが、祥月命日だったのだ。呼ばれたか。

 旧公家にして旧華族の久我(こが)家の墓所であることも、初めて知った。すなわち女優久我美子(くが・よしこ)さんの実家である。久我美子さんのお母さんの墓碑もあった。

 帰りにご住職から、三玄院の開山にして三成を埋葬したとされる、春屋宗園(円鑑国師)の伝記『大宝円鑑国師一黙稿』(三玄院編、淡交新社、1960年)を恵贈される。予期せぬことでとても喜ぶ。

 今年は潜伏したとされる旧古橋村の石窟にも入れたし、なんという年か。生きていると願いはかなうものだと、また思った。感無量だった。

 残念ながら、写真撮影は許されなかった。そのため掲示できません。冒頭写真は、山門前の道標です(1908年10月、名古屋朝日町の石田喜蔵建立)。

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