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2009.06.28

松花堂弁当誕生に関わる展示をみてきた

6/27(土)はれ

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 午前中、東寺の子院跡の現地見学会がある。行く。八条通に面した東寺北門から南へ下がった東側。室町時代の堀状の遺構が気になった。何を囲ったものだろう。

 午後から八幡市へ。いま松花堂美術館で「松花堂弁当の器」展をしている(6月28日(日)まで)。松花堂弁当といえば「吉兆」創業者湯木貞一ではない、八幡の郷土史家西村芳次郎(1868-1939)だ、と主張してきた中村武生なので、気になっていた。そのことが指摘されているかいなかである。

 ところが、どうやらそれどころではなく、西村芳次郎が松花堂昭乗の墓所(現、泰勝寺)を復興しようとした際の関係文書が貼り交ぜ屏風になって展示されていると知った。

 6/25(木)に行われた恒例の「三宅日記輪読会」での、メンバーK井裕さんからの情報である。

 翌日、いつものくずし字入門のあと駆けつけたら、びっくり。なんと1925年(昭和初年)前後の、21通もの西村芳次郎宛書翰群だった。竹田宮(宮の代行の家扶)や富岡鉄斎からのものが目立った。

 富岡鉄斎って、栂尾(とがのお)高山寺の「三宅安兵衛遺志」碑の揮毫者じゃないか。西村も三宅碑の大なる協力者だ。偶然かそうでないのか、なんて考える。

 とりわけ意義深かったのは、西村宛の益田孝(鈍翁)書翰2通。松花堂昭乗の墓所を復興にかかわるストレートど真ん中な文書だった。益田孝(鈍翁)は三井物産創業者にして、稀代の美術品コレクターとして知られる。

 しかもその2通だけ釈文が掲示されていた。必死で写す。時間がなかったので、釈文と原文の照合はもちろん、ほかの文書を読むひまがなかった。

 だから翌日である本日も来た、というわけ。

 2日目になると、前日気づけなかったことにも気づけてくる。やはり来てよかった。「三宅碑と西村芳次郎」論文は必ず今年出すつもりだった。

 京都大人文研の近代京都研究会(高木博志氏ほか班)でこの話を報告したのは、2005年秋だった。そのときにもほぼ完成しつつあったのに、さらに4年も放置した。この間の生活の変化が影響している。よかれあしかれ。

 が、偶然とはいえ、遅れたため今回の文書群を加味してまとめることができる。けがの功名とはこのことか。

 『池田屋事件』を真っ先に片づけなければならないので、そのあとだが。

 写真は西村芳次郎旧邸入り口現況(現、国史跡松花堂庭園内、八幡市女郎花)。

 ちなみに、西村芳次郎については、以下で大なり小なりふれた。ご参照ください。

1.「京都三宅安兵衛・清治郎父子建立碑とその分布」(『花園史学』22号、73ページ、2001年)

2.「鳥羽・伏見の戦い-史蹟を読み解く視点」(別冊歴史読本『新選組を歩く』114-115ページ、2003年)

3.「三宅安兵衛遺志碑と西村芳次郎」(『京都民報』2004年4月11日付)

4.『中村武生の京都検定日めくりドリル500問』132・154ページ、京都新聞出版センター、2008年

5.『京都の江戸時代をあるく―秀吉の城から龍馬の寺田屋伝説まで』203ページ、文理閣、2008年

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