« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

2009.06.29

福島克彦氏『畿内・近国の戦国合戦』を恵贈された

 最近、以下の書籍を頂戴した。

 福島克彦氏『畿内・近国の戦国合戦』(戦争の日本史11、吉川弘文館、2009年7月、2500円+税)

 福島克彦さん(大山崎町歴史資料館学芸員)は、僕よりふたつ年上の1965年生まれの方で、都市史や城郭研究でこれまで深く学ばせていただいてきた。

 ある時期は、研究会などでよくお目にかかり、終了後、食事をしたり飲みにいったりして議論させていただいていた。

 あまりに白熱して、ケンカしていると勘違いされて周囲から怒られたこともあった(大阪市中央区の城郭談話会の懇親会でした)。

 最近は僕の活動が違う方向へむいているので、お目にかかる機会が少なくなったのが残念である。

 本書は福島さんの最初の単著である。戦国期の日本の中心は京都やその周辺であるから、「畿内・近国の戦国合戦」なんて本はよくあるものかと思っていた。

 が、拝見して、驚いた。むしろ戦国期は地方の時代で、畿内・近国中心で語られたことはほとんどなかったようだ。

 よく知ったできごとでも、福島さんの斬新な視点で語られ、新しい位置づけで浮き上がった内容も多い。

 たとえば本願寺8世の蓮如が、越前吉崎や山城山科など、寺や町を要害化したように理解されてきたが、その蓮如に「専守防衛」の意識があったというのは、語られているようで語られてなかったのではないかと思えた(本書200ページ)。

 お勧めいたします。とてもおもしろい本です。福島さん、ご恵贈、ありがとうございました。

|

2009.06.28

松花堂弁当誕生に関わる展示をみてきた

6/27(土)はれ

P9110485

 午前中、東寺の子院跡の現地見学会がある。行く。八条通に面した東寺北門から南へ下がった東側。室町時代の堀状の遺構が気になった。何を囲ったものだろう。

 午後から八幡市へ。いま松花堂美術館で「松花堂弁当の器」展をしている(6月28日(日)まで)。松花堂弁当といえば「吉兆」創業者湯木貞一ではない、八幡の郷土史家西村芳次郎(1868-1939)だ、と主張してきた中村武生なので、気になっていた。そのことが指摘されているかいなかである。

 ところが、どうやらそれどころではなく、西村芳次郎が松花堂昭乗の墓所(現、泰勝寺)を復興しようとした際の関係文書が貼り交ぜ屏風になって展示されていると知った。

 6/25(木)に行われた恒例の「三宅日記輪読会」での、メンバーK井裕さんからの情報である。

 翌日、いつものくずし字入門のあと駆けつけたら、びっくり。なんと1925年(昭和初年)前後の、21通もの西村芳次郎宛書翰群だった。竹田宮(宮の代行の家扶)や富岡鉄斎からのものが目立った。

 富岡鉄斎って、栂尾(とがのお)高山寺の「三宅安兵衛遺志」碑の揮毫者じゃないか。西村も三宅碑の大なる協力者だ。偶然かそうでないのか、なんて考える。

 とりわけ意義深かったのは、西村宛の益田孝(鈍翁)書翰2通。松花堂昭乗の墓所を復興にかかわるストレートど真ん中な文書だった。益田孝(鈍翁)は三井物産創業者にして、稀代の美術品コレクターとして知られる。

 しかもその2通だけ釈文が掲示されていた。必死で写す。時間がなかったので、釈文と原文の照合はもちろん、ほかの文書を読むひまがなかった。

 だから翌日である本日も来た、というわけ。

 2日目になると、前日気づけなかったことにも気づけてくる。やはり来てよかった。「三宅碑と西村芳次郎」論文は必ず今年出すつもりだった。

 京都大人文研の近代京都研究会(高木博志氏ほか班)でこの話を報告したのは、2005年秋だった。そのときにもほぼ完成しつつあったのに、さらに4年も放置した。この間の生活の変化が影響している。よかれあしかれ。

 が、偶然とはいえ、遅れたため今回の文書群を加味してまとめることができる。けがの功名とはこのことか。

 『池田屋事件』を真っ先に片づけなければならないので、そのあとだが。

 写真は西村芳次郎旧邸入り口現況(現、国史跡松花堂庭園内、八幡市女郎花)。

 ちなみに、西村芳次郎については、以下で大なり小なりふれた。ご参照ください。

1.「京都三宅安兵衛・清治郎父子建立碑とその分布」(『花園史学』22号、73ページ、2001年)

2.「鳥羽・伏見の戦い-史蹟を読み解く視点」(別冊歴史読本『新選組を歩く』114-115ページ、2003年)

3.「三宅安兵衛遺志碑と西村芳次郎」(『京都民報』2004年4月11日付)

4.『中村武生の京都検定日めくりドリル500問』132・154ページ、京都新聞出版センター、2008年

5.『京都の江戸時代をあるく―秀吉の城から龍馬の寺田屋伝説まで』203ページ、文理閣、2008年

|

2009.06.26

直江兼続の洛中宿舎、本国寺跡と現本圀寺を参拝する

6/25(木)はれ

 京都新聞文化センターに出講。

 「直江兼続のみた京都」の最終回で、巡検。今回は下京の本国寺跡をあるく。午後1時、阪急四条大宮駅改札集合。

 天正14年(1586)6月、初めて上洛した上杉景勝や直江兼続にあてがわれた宿舎が、本国寺(現本圀寺)である。

 その境内は、北は五条小路(現松原通)、東は堀川小路(現堀川通)、南は七条坊門小路(現正面通)、西は大宮大路(現大宮通)である。現西本願寺の北半分も、もと本国寺寺内(境内)だったという。

 とても広い。洛中屈指である。残念ながら1971年(昭和46)に東郊御陵(山科区)に移動している。その跡地をくまなく歩く。

何も残っていないように思われがちだが、意外なほど残っていた。痕跡があった。

 上杉本「洛中洛外図屏風」や『都名所図会』、森田恭二さんの復元案(「中世京都法華『寺内』の存在―六条本国寺を中心として」『ヒストリア』96号、1982年)を片手に、あああそこに本堂が、祖師堂が、五重塔が、と跡地を示してあるく。

 どこに景勝や兼続がいたのでしょうねと想像しながら。

 二時間あるいた。そのあとは、現在地にも参拝しようということになった。

 暑い日だったようで、もうとてもしんどいと3分の1が下京でリタイヤ。

 有志で地下鉄に乗り、現山科区御陵の本圀寺へ参拝する。

 これまたおもしろかった。下京から移築したもの、新築したものはどれか、なんて想像し、議論しながらとても狭くなった境内を歩きまわった。

Dcf_0013

 やはり加藤清正廟が一番興味をひいた(写真)。神社なのである。神仏混淆の時代の産物である。新規のものではない。

 『都名所図会』に描かれる墓石と近似したものが残っていた。それが清正の側室の墓とわかる。

 終わってみれば、御陵駅で5時。暑い中、4時間も。ありがとうございました。また聞き上手のみなさんに助けられました。

 次回からは「直江兼続のみた洛中洛外―伏見を中心に」と題して、舞台を伏見に移します。伏見城と武家地をまなび、濃密に歩きます。よろしければおこしください。主催は京都新聞文化センターです。

|

2009.06.24

三宅碑とストイックな龍馬伝を楽しむ

6/21(日)午前中雨

 午前11時、嵯峨野学藝倶楽部の京都歴史講座に出講。

 三宅碑からみた洛中洛外の旧蹟を論じている。今回は城陽市・宇治田原町・井手町の約30碑を対象とした。

 さぼりまくっている三宅碑をひと月に2度思いだす日のひとつ。もうひとつは三宅日記を読む会の日。

 はやくまとめないといけないとまた思った。わかっているのだが、すべきことが百万ほどあって、どうもならない。

 次回は7月19日(日)です。時間は同じ。場所もおなじ。嵐山電鉄「帷子の辻」駅から徒歩5分の三壺庵(さんこあん)です。

 夕方3時50分から、京都駅前のキャンパスプラザ京都(5階第3・4演習室)で、「基礎からまなぶ坂本龍馬」に出講。

 誕生から文久3年(1863)正月までの龍馬を、かなりストイックに、使える史料を厳選し、ぜい肉のほとんどない龍馬伝を論じてみた。

 たとえば文久2年(1862)3月、土佐亡命ののち、大坂に出現するまでの滞在地の既往の説は完全否定せざるをえないとのべた。とても使えない史料で立論されていたから。

 前回より人数ふえていた。でも、まだ会場満杯にはまだまだゆとりがある。みなさん、きてください。つぎは7月19日(日)午後3時50分から。会場は同じです。

|

2009.06.20

石清水八幡宮の寺院建物はどこにいったか

6/19(金)はれ

 くずし字入門に出講。

 元禄期の洛中洛外の寺社の建造物の由来を記した史料を読んでいる。

 今回は石清水八幡宮。残念なのは、そこで記された建物がまったく残っていないこと。

 維新の廃仏毀釈で石清水八幡宮の寺院建物は全壊した。

 八角堂や松花堂、泉坊書院のように、他所に移動して残っているものもあるのだろうが、その悉皆調査はなされていない。

 同じく現存神社の神宮寺で廃絶した例でいえば、大和の石上神宮の内山永久寺(現天理市)。

 こちらは東京国立博物館によって、散在した建造物などの報告書が出ている。

 石清水もその調査がなされることを願っている。

 なお本年の大河ドラマにからめていえば、天正14年(1586)の初上洛の際、上杉景勝は一旦大坂へ移り再び上洛する。

 その途上の6月18日、石清水にも立ち寄り、塔頭の滝本坊に入った。今週の放映分にあたるが、さてその描写はあるか。

【追記】石清水の神仏分離については、鷲尾順敬「石清水神社神仏分離調査報告」『明治維新神仏分離史料』上に詳しい。

 よみやすいものでは、臼井史朗「石清水の入札事件」『神仏分離の動乱』46-62ページ(思文閣出版、2004年)が手頃である。

|

2009.06.16

土方歳三箱館戦争跡をあるいた

6/14(日)くもりのちはれ一時雨

Dcf_1674

 函館2日目。明治維新史学会が催してくれた巡検に参加した。箱館戦争古戦場をバスで移動した。おおざっぱなコースは以下。

 函館市内→館城跡(国史蹟松前氏城跡のうち。厚沢部町)→開陽丸青少年センター→(昼食)→檜山護国神社(新政府軍墓地)→旧檜山爾志郡役所(以上江差町)→福山城跡(国史蹟松前氏城跡のうち)→国史跡松前藩主松前家墓所(以上松前町)→函館市内

 二股口古戦場を通った。土方歳三の知られた旧蹟である。山中には塹壕が現存するという。降りることはできなかったが、国道沿いに建つ碧血碑(函館市のものとは別)が見えて感激した。

 京都の新選組旧蹟を浴びるように生活している者として、よくぞこんな遠方までと涙が出そうになった。

 つづいて館城跡。こちらはバスが停車した。学芸員の方のご案内があった。館城は、松前が榎本武揚軍に落とされたあと、松前氏が政府を移した場所。

 南東隅の土塁の屈曲部が残っていてうれしかった。堀跡にもさきほど降った小雨がたまっていて水堀っぽくなっていた。こんなところに関心持つのは、中世都市史にかかわってきた僕ぐらい。

 江差・松前も感激。盛りだくさんすぎて触れる程度だったが、こんなツアーでもないと絶対これない。ありがたくってしょうがなかった。企画してくださった小泉雅弘先生以下、みなさまに御礼申します。

 写真は、江差の旧檜山爾志郡役所にある「土方歳三嘆きの松」。開陽丸座礁をみた土方が叩いたら曲がったそうだ。誰がいいだしたかもわかっているそうで(役場の人らしい)、こうして「史蹟はつくられる」を地で行く場所といえる。こわいことだ。

|

2009.06.14

函館五稜郭にきました

6/13(土)はれ

Dcf_1673

 明治維新史学会の大会が、北海道函館市で行われる。そのため函館にきた。

 写真は五稜郭内部からニの橋と半月堡をみたところ。明日は学会が用意してくれた松前・江差巡検である。楽しみだ。

|

2009.06.13

出現!!御土居堀の北西隅

Dcf_1664_2   近世京都の外郭、御土居堀の北西隅が姿をみせました。

 ずっと有明さんというお店がありました。京都市との話し合いの結果、売却されました。

 それにともない建物がすべて破却されました。

 建物がなくなったため、連続した土塁・堀として遠望できるようになりました。

まじかに寄るには許可がいりますが、ぜひ遠望してみてください。

|

拝受『中世の都市―史料の魅力、日本とヨーロッパ』

 昨日、東京大学史料編纂所の高橋慎一朗先生から、『中世の都市―史料の魅力、日本とヨーロッパ』(東京大学出版会、2009年5月、3200円+税)をご恵贈いただいた。

 高橋慎一朗先生とは、2002年の中世都市研究会(於鶴見大学)で報告者としてご一緒させていただいて以来のお付き合いである。

 京都におこしの際はお声をかけてくださり、飲みにいったこともある。学生時代は落語研究会に所属しておられたためか、「笑かそう」精神が旺盛な方である。

僕がけっこう使う小ネタのなかには、高橋慎一朗先生から頂戴したものもある。

 とてもスマートで魅力的な先生である。

 この高著、高橋慎一朗先生と千葉敏之先生の共編で、日本とヨーロッパの中世史について多くの方が執筆しておられるが、僕個人ではやはり高橋慎一朗先生の「中世の塀」がおもしろかった。

 洛中洛外図屏風にみられる「塀」を取り扱ったものである。中身はもちろんなのだが、「隣の空き地に囲いができたってね」「へー(塀)」という古典落語のネタを紹介されるところは、いかにも高橋先生である。

 いろんな意味で楽しい本を頂戴しました。ありがとうございました。

|

2009.06.10

豊臣秀頼の右大臣辞任をどうみるか

6/9(火)はれ

 基礎からまなぶ日本歴史に出講。まだ関ヶ原の戦後処理のはなし。石田三成、小西行長、安国寺恵瓊、宇喜多秀家、島津義弘のその後のはなしをした。まだつづく。

 東京の歴史作家、桐野作人さん上洛を知る。夜、いつもの龍馬でHさんをまじえて歓談。相変わらずいろいろ教えていただいた。

 最近気になっている、関ヶ原以後の豊臣秀頼(とよとみのひでより)の評価。

 慶長12(1607)111日、秀頼は右大臣を辞している(公卿補任)これをどう理解するか。

 笠谷和比古さんは『関ヶ原合戦と大坂の陣』(吉川弘文館、2007年11月)でそれにまったくふれず、豊臣・徳川二重公議体制論を展開されている。

 これに悩んでいたが、桐野さんから魅力的な見解をいただいた。ありがとうございます。基礎歴史講座の受講のみなさん、きっとそのうちご紹介するでしょう。

 今日は少し池田屋事件論も進んだ。とてもいい日だった。

|

2009.06.09

濃密な聚楽城大名屋敷跡めぐりをした

6/8(月)はれ

 NHK文化センターおおさか講座の京都巡検に出講した。

 また聚楽城と武家地あるき。濃密度が高くなってきた。

 今回ははじめて上杉景勝亭跡候補地3つとも訪ねた。もちろん直江兼続亭推定地も。

 コースはこんな感じ。

地下鉄二条城駅前→①直江兼続亭跡推定地→②上杉景勝亭跡推定地・その1→③毛利輝元亭跡推定地→④宇喜多秀家亭跡推定地→⑤聚楽城外郭南堀跡→⑥聚楽城本丸跡→⑦聚楽城北堀跡→⑧上杉景勝亭跡・その2(一条戻橋亭)→⑨黒田如水亭跡推定地→⑩千利休亭跡伝承地→⑪一条戻橋→⑫加藤清正亭跡推定地→⑬伊達政宗亭跡推定地→⑭上杉景勝亭跡推定地・その3→⑮前田利家亭跡→⑯石田三成処刑直前引き廻し推定ルート(一部)→地下鉄今出川駅

けっこう歩いた。苦情もなく無事すむ。聞き上手のみなさまに支えられました。

 終了後、木屋町三条でお茶をしていると、緊急連絡があり、京都北郊へかけつける。すごいものをみた。みせてもらった。

 何であろう。数日後、明かします。

|

2009.06.05

池田屋事件戦死者の法要に参加した

6/4(木)はれ

 午前中、締め切りすぎた原稿ひとつ、ようやくあげる。ひと安心。

 すぐに左京区岩倉にむかう。午後2時から、花園町の三縁寺で池田屋事件戦死者の法要がある。それに参加のため。

 毎年、6月4日午後2時から行われる。年々参加者がへっている。今年は6人。それと京都新聞の佐藤知幸記者が、取材のためきてくださった。

 子孫の参加もへった。でも今年は大高又次郎の子孫がおこしだった。1977年(昭和52)に40代後半で亡くなられた、檀家総代大高秀夫さんの妹さんの由。

 大高秀夫さんは、三縁寺が縄手三条から岩倉に移転する際、移動を求めた京阪電車とさまざまな折衝をされた方である。

 跡地に「維新史蹟池田屋事変三縁寺墓地跡」の標石を建てるよう、当時の京阪電車社長と話をつけられた。いまだ実現しないが、期待している。

 勝田良昭住職が今月でついに引退される。息子さんが引き継がれる。今回は、勝田良昭住職、最後の単独読経だった。

 いろいろ思うことがあった。なんとしても拙著『池田屋事件』は今秋に刊行させたいと、また思った。

|

2009.06.03

関ヶ原をあるいた

6/1(月)はれ

 恒例の月1回の基礎からまなぶ日本歴史の巡検があった。今回、はじめてパスを借り切って遠方へでかけた。関ヶ原古戦場である。

 ほんとうにおもしろかった。語るととてもながくなりそうなので、さける。大盛況だったと思う。バスツアーはまたしたいと思った。

 お手伝いくださったみなさん、参加のみなさん、ありがとうございました。

 当日の詳細は、ご参加くださったTさんのブログをご覧ください。→http://d.hatena.ne.jp/meuto/

|

2009.06.02

陸奥宗光の旧埋葬地で胸を痛める

5/31(日)はれ

Dcf_1621_3   

 締め切りすぎた原稿にたちむかうつもりだったのに、おもいがけない御誘いがあって、そちらへ行った。

 大阪龍馬会のO谷さんが、私的な巡検を催されることを、名古屋のF橋さんからうかがった。

 そのコースに大阪・夕陽丘の陸奥宗光の原えい地(最初の埋葬地)が入っていたので、参加したくなった。陸奥宗光にはそれほど関心がない。陸奥宗光の原えい地近くに、小松帯刀の原えい地もあったと聞いている。以前からそこへ行ってみたかった。去年の大河をまだ引きずっている。

 まだ人数にゆとりがあったので、無理言ってメンバーに入れていただいた。

 詳しいことは書くゆとりがないが、小松帯刀よりも、その陸奥の原えい地の現状に驚いた。改葬されたあとに、多数の石造物が放置されている。先妻の墓碑さえそのままだった。少々胸をいためた。

 いろいろ事情があったのだろうが、当時なんとかならなかったのだろうかという思いだ。現在その地はお寺になっていることが救いではあったが、その場所は墓地でもないので気になった。守ってくださっている現住職さんにはありがたいと思った。

 ほかにも貴重な経験を多数した。時間がなくてこれ以上書けないが、O谷さん、ご参加のみなさま、ありがとうございました。たいへん学ばせていただきました。

|

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »