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2009.05.31

清河八郎を再評価し京都龍馬会の総会に出席した

5/30(土)はれ

 栄中日文化センターの日なので、名古屋へ行く。

 土曜日は幕末講座です。いまは「幕末志士の手紙を読む」を開講しています。今回は、清河八郎の、文久2年(1862)9月21日、父宛書翰を中心に読みました。

 獄死した妻蓮の供養について記したものです。清河八郎の人間性を知れる有名な書翰といってよい(『清河八郎遺著』435-436ページ)。

 その他、母同伴の旅行日記『西遊草』の尾張・伊勢の部分を読んだり、浪士組結成にいたる浪士取り立て問題を論じたりした。

 新選組ファンを中心に清河八郎を好まない方が多いですが、大きな誤解ですといいたく取り上げた。けっこう熱が入った。30分もオーバーした。

 受講者と若干の茶話会をして、京都へ戻る。

 本日は京都龍馬会の総会。いつのまにか、同会の監事をさせられている。そのため出席せねばならぬ。30分も遅れて行ったが、議論白熱し、その後2時間ちかくもつづいた。

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」をまえにして、京都龍馬会はさらなる飛躍があることと思えた。

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2009.05.28

山田邦和博士『京都都市史の研究』に感激した

 敬愛してやまない山田邦和博士が、最近論文集をだされた。『京都都市史の研究』(吉川弘文館、9,500円+税)である。

 吉川弘文館の広告で知った。いやもちろん、ご本人からまもなくだというのはうかがっていた。

 明日、僕の研究はどちらをむくべきか。それを知る大事な道標としてさっそく購入しようと河原町の書店に行ったが、みあたらなかった。書店にならぶのは、もう少しあとかと思った。

 5月26日、おそくに家に帰ると、佐川急便の荷物の不在通知がポストに入っていた。吉川弘文館から。

 何か注文したっけ、していない。どなたか奇特な人が本を送ってくれたのか。当然見知らぬ人が送ってくれるわけないから、よく知った人だろう。

 吉川弘文館は、よく知られた日本史専門出版社だ。どなたかはわからないが、また知人の誰かがひとつ成果をあげられたというわけだ。いかん、また先をこされた。

 なんて、わずか1秒ぐらい頭で考えたあと、はっとした。

 もしかして、山田博士からではないか。

 いや、それはないだろう。なんせ高価な論文集である。送料もあわせると1万円をこえる。100人に送れば100万円以上かかる。山田博士の交友範囲は広い。100人ですまないと思う。先生や先輩、直接の研究者仲間の方に送らなければならないはずだ。僕に送っている場合ではない。

 が、翌朝の再配達で届けられたものは、ほんとうに山田博士の高著だったのだ。

 感激して、いつくしむように拝見したことはいうまでもない。

 山田先生、ありがとうございました。拙書庫の、1998年ご刊行の高著『須恵器生産の研究』(学生社)の横を指定席とさせていただきました。

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2009.05.27

近江の40万年前のトウヨウゾウの出土地をあるいた

5/25(月)はれ

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 基礎からまなぶ近江の歴史に出講。

 第二回目。旧石器時代のはなしをする予定だった。

 が、新型インフルエンザの影響で、会場が休館になった。会場が使えない。でも予約をとっていないから、休みですと伝えられない。来られた方に伝えるほかない。なんて迷惑なこと。

 が、それを「けがの功名」にした。

 こられたかたには事情を説明し、巡検(現地見学会)をすることにした。

 で、40万年前に生息した「トウヨウゾウ」の下あごの化石が江戸時代にみつかった場所に行くことにした。

 場所は、大津市伊香立南庄町。堅田の西郊外。

 文化元年(1804)11月8日のこと。当時はゾウの骨とは思えず、龍の骨と思った。

 みつけた人は、膳所本多家から「龍(りょう)」の苗字のほか、さまざまな特権をえた。帯刀、税免除、代官任命などなど。

 当時発見地には祟りをおそれて、祠がつくられた。「伏龍祠」とよばれた。後世に再建されたものが存在する。

 堅田駅からバスで南庄の旧集落へむかった。一時間に1本しかない。うまいこと乗れた。

 めっちゃ楽しかった。バスはこの会の貸し切り状態だった。行きも帰りも。住民の方から、何しにこられた?こんなに人が来るなんて例がないからなどといわれた。

 来られなかった方、残念でしたね。本当に楽しかったです。

 当日の様子は、ブログ「龍馬と木屋町の日々」に多数の写真入りで詳報されています。↓

http://kyoto-ryoma.jp/blog/index.php

 なお南庄の「龍骨」については、松岡長一郎氏『近江の龍骨』(サンライズ印刷出版部、1997年)に詳しいです。

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2009.05.25

また旧友集まる

5/24(土)はれ

 20年来の友人との最後の集会があった。

 今度は計4人集まった。すごい会になった。調子に乗って、来ていない友人にも突然電話した。とても盛り上がった。

 もう二度とないだろう。こんな会。ありがたいことだった。

 会場はやっぱり、木屋町六角下ルの「龍馬」だった。

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2009.05.23

龍馬の埋葬地は霊明社です

5/22(金)雨のちくもり

 今朝の「中村武生さんとあるく洛中洛外」は、東山区編の最終回だった(『京都新聞』市民版金曜日連載中)。

 で、坂本龍馬の旧蹟地をとりあげた。

 龍馬の埋葬地は、現在京都霊山護国神社になっているが、その地は霊明社の旧境内だった。維新後に政府から上知(土地の没収)されたためである。

 霊明社が廃絶したのならやむをえないが、縮小しながら霊明神社として旧地に存在するのだから、それを無視することは事実認識としてはおかしい、という持論を展開したつもり。

 挿図写真も霊明神社に通ずる参道だった。ちなみに今年は霊明社創立200年目にあたる(文化6年=1809年)。

 みなさん、霊山護国神社の龍馬の墓参のあとは、南隣地の霊明神社へお参りください。

 午後から「くずし字入門」に出講。中井家などの大工棟梁の一覧を読んだ。大和法隆寺の西里出身の人が多いことがおもしろかった。

 今夜は京都女子大学の講師懇親会の予定だったが、急に中止になった。新型インフルエンザの影響である。

 学校も一週間休校になった。聞いたところでは、寮生もなるべく自宅へ帰るよう要請された由。えらい騒動だ。

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2009.05.22

名古屋から帰ってきたら京都で感染が確認されていた

5/21(木)はれ

 名古屋・栄中日文化センターへ出講。

 昨日、滋賀県で新型インフルエンザ発症が報じられた。その滋賀県と大阪府にはさまれた京都から来たといったら妙にウケた。京都府内でもおそらく感染している。確認が遅れているだけ。時間の問題でしょうとのべた。

 まず「日本の城と合戦」。また「直江兼続のみた京都」を論じた。最近、かなり濃くなってきた。まだ濃くなるはず。

 つづいて「京都学ことはじめ」は、「京都」の範囲を論じる。江戸時代京都の出入り口約30ヶ所に建てられていた「是より洛中」標石のはなし。

 「ここから京都です。馬から降りて暴走しないように制御しなさい」といっている標石だが、これは効果があったのかどうかという点をもっと問題にしたかった。最近、効果がなかったのではないかと思えてきた。関連史料も集まり出しているのに。残念。 

 マスクを名古屋で多めに買っておこうと思った。京都で品切れだから。もしかしたら高く売れるかもと思っていたのに(冗談です)、買い忘れた。

 京都に帰ってきたら、府内で感染者が確認されたときかされる。すごい、予想があたった。いやいや、多くの方が見込んでおられただろうけど。

 20年来の友人Y君(男)が北海道から上洛。二年ぶりの再会。

 深夜、もう1人の20年来の友人Hさん(女)も駆けつける。三人揃うのは何年振りか。最後の記憶がない。15年にちかいのではないか。

 会場は、いつもの木屋町六角下ル「龍馬」。劇的な日に使わせていただけた。ありがとうございました。終始楽しそうにしていたそうです。

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2009.05.18

乙訓の三宅碑から陵墓をへて龍馬論へ

5/17(日)あめ

 嵯峨野学藝倶楽部に出講。ひきつづき史蹟論である。乙訓郡の「三宅安兵衛の碑」のはなし。大山崎町に2つ。長岡京市に3つ見つかっている。ちょっとまじめに考察した。

 次回は久世郡の「三宅安兵衛の碑」になると思います。

 終了後、受講者と喫茶し、キャンパスプラザ京都に。

 陵墓シンポジウムが行われている。聞きたかった。とくに明治天皇陵こと伏見城跡のはなし。途中から入った。山田邦和博士の報告の直後。もう後藤真さんのおはなしになっていた。

 それでもすぐ出ないといけなかった。真ん前の部屋で龍馬講座の講師を任されていたから。

 それなのに、御客さん、少なすぎる。主催者が気の毒だった。受講者は楽しんでくださったようで。笑いがいっぱいだった。

 単に「基礎からの龍馬」にとどまらず、「歴史史料の見方」講座みたいになっている。

 どの坂本龍馬本がいい本かと尋ねられたのに、そのものを答えず、まったくわからない人がどうやってよい本をみぬいてゆくかを論じた。

 もちろんいじわるをしているわけではないから、最先端本も答えましたよ。

 けっう珍しいと思うな、こういう講座。ぜひ来てください。

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2009.05.15

「号外」収集しております

5月14日(木)はれ

 京都新聞文化センターに出講。「直江兼続のみた京都」の教室講義の最終回。

 3ヶ所確認できた、上杉景勝の京都屋敷跡のおはなし。

 加えて1ヶ所、直江兼続屋敷の推定地のことも。今回は力が入った。2ヶ所に建碑したばかりだしね。

 次回からは、巡検です。現地をあるきます。

 終了後、7月からの次回講座「「直江兼続のみた洛中洛外―伏見を中心に」の打ち合わせ。

 そのおはなし中、担当のY田係長に「号外収集」を心がけているといった。すると予期せず気づかい下さり、同文化センターの窓口に連れて行ってくださる。

 過去の号外が6点残っていた(たとえば「福田首相退陣」2008年9月1日付)。それをすべていただけた。ありがとうございます。ささやかなコレクションが少し充実しました。

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2009.05.14

出演シーンをみて

 昨日、午後10時からの「歴史秘話ヒストリア」をみた。

 いろいろしゃべったはずだが、何を語ったかあまり覚えていない。

 うかつなことを言っていないか心配だった。

 どの部分を使われるか、いやそもそもどういう内容の番組かもあまり聞いていなかったから。

 うかつなことは言ってないようだったので、ほっとしたが、あまりいいしゃべりでもなかった。「あー、えー、うー」を言っていなかったことが救いかな。

 なお気になったことをひとつ。

 古高俊太郎への拷問がなかったかのように聞き取れたかも知れないが、それはちがう。

 永倉新八の手記「浪士文久報告記事」に、「拷問ニカケ」たとあるので(木村幸比古氏『新撰組日記』70ページ、PHP新書)、拷問はあったと思う。少なくとも僕は否定する材料をもっていない。

 が、拷問があったとしても、それが6月5日(事件当日)のことなのかは分からない。

 かりに事件当日であったとしても、その日のうちに自身の詳細や、関係者の政治活動、計画の具体について余さず供述したわけではない。

 「浪士文久報告記事」はさきほどの部分につづき、「対(つい)ニ不残(のこらず)白状ニ及フ」と記すが、これは永倉の記憶違いだと思う。

 実際にまとまった供述の行われたのは、事件の数日後のことで、当日はたいしたことを供述しなかった、とロケでは語ったはずなのだが、そこは使われなかった。

 ようは「拷問ののちに」の部分ではなく、「自白情報をもとに(浪士の暴動)計画を防ぐため新選組が出動した」という部分が、従来の説のなかでもなりたちがたいといいたかったのである。

 関心のある方は、すでに拙稿「池田屋事件の基礎的考察―「御所向放火」をめぐって」(『奈良歴史研究』65号、2006年3月、1~11ページ)で詳述している。そちらをご覧ください。

 手に入りにくい論文かもしれませんが、京都府立総合資料館には入れました。

 一般向けのものは、今秋には刊行したいと願っている。講談社現代新書の予定である。毎日、そのことばかり考えている。期待せず、期待していてください。

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2009.05.13

今夜NHK歴史番組に出演します

 今夜のNHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」は、「新選組・京都青春録」です。

 中村武生も少し出演すると聞いています。午後10時からです。よろしければご覧ください。

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2009.05.12

京都新聞に載りました/直江兼続の聚楽屋敷跡道標

 去る5/9(土)の、直江兼続・上杉景勝の聚楽屋敷道標除幕式が、京都新聞市民版に載りました。↓以下です。ご覧ください。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009051200035&genre=K1&area=K1B

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2009.05.11

豊臣大坂大名屋敷跡をあるいた

5/10(日)はれ

 よみうり文化センター大阪教室の巡検で、大阪市中央区玉造に行く。

 豊臣期大坂城の大名屋敷跡をあるくもの。

 今回の事前学習できづいたこと。豊臣三都(京都・伏見・大坂)のなかで、もっとも大名屋敷研究が進んでいないのが大坂ではないか。

 逆にとても進んでいるのは伏見である(『豊臣秀吉と京都』所収の森島康雄氏、山田邦和氏論文と、『政権都市』所収の拙稿を参照)。 

こんなコースを行きました。

JR玉造駅→①前田利家・利長亭跡(付鍋島亭跡・島津亭跡)→②前波()勝秀(半入)亭跡→③宇喜多秀家亭跡→④細川忠興亭跡→⑤浅野幸長亭跡→⑥豊臣秀次亭跡→⑦佐竹義宣亭跡→⑧石田三成亭跡→⑨京橋口・豊臣期大坂城石垣→京阪天満橋駅

 ⑥と⑦のみ発掘調査の成果があり実証性が高い。

 

 あとは櫻井成廣氏『豊臣秀吉の居城―大阪城編』の成果に依存した。

 

 が、これはほとんど地名と後世の編さん史料(いわゆる二次史料)のみに依拠しているので、どこまで事実かよくわからない。この実証が今後の課題である。

 大坂あるきをしているのに、京都(聚楽城)や伏見の話題を多くした。

 

 そちらのほうが詳しいからだけれど、知らず知らず大名屋敷・豊臣三都比較論になっていて、個人的には充実していたような気がした。

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2009.05.10

主碑と副碑の銘を公開します

 昨日、除幕しました碑銘を公開します。かわいがってやってください。

 

(主碑銘)                                          

() 此南 聚楽城 武家地 直江兼続屋敷跡推定地

() 此北 聚楽城 武家地 上杉景勝屋敷跡推定地

() 平安京左京二条二坊八町 春宮坊 東宮町跡

()二〇〇九年五月 特定非営利活動法人京都歴史地理同考会 建之

寄贈者 山科区中在寺町 近藤光成

(副碑銘)

当地は平安京の表記では、左京二条二坊八町にあたる。

『拾芥抄』によれば、皇太子の事務を行う春宮坊の役人の住む町(東宮町)だった。

平安後期の承保4年(1077)9月、春宮権亮源師忠の母が住んでいたことが分かっている(『水左記』)

応仁の乱の戦禍によって首都京都は一旦壊滅したが、天下統一を進める豊臣秀吉(とよとみのひでよし)によって近世都市として甦った。

その中心は、居城聚楽城と武家地(大名屋敷地区)である。

当地付近もその範囲に含まれ、北国大名の上杉景勝、およびその重臣直江兼続の屋敷が営まれたと思われる。

直江兼続は、秀吉からみれば陪臣にあたるが、上杉景勝と同様に豊臣姓を賜るなど優遇された。

「上杉年譜」によれば、天正17年(1589)、上洛した出羽国(現山形県)の大名、大宝寺千勝丸(のち義勝)が直江兼続屋敷を旅館に使用したとあり、洛中に同屋敷は確実に存在した。

その位置は不明であるが、江戸中期の宝暦12(1762)刊行の『京町鑑』は、当地の南隣の「直家町」を直江屋敷跡と伝承する。

江戸初期に描かれた「京都図屏風」をみれば、当町はもと「なおい町」だった。

兼続屋敷跡の重要参考地といえる。

 上杉景勝屋敷は天正16(1588)に得た一条戻橋西入ルの地が知られるが、「輝元公上洛日記」によると、同じ頃、聚楽城の東南方向の毛利輝元屋敷の右側に宇喜多秀家屋敷があり、左側には上杉屋敷もあった。

 これは一条戻橋屋敷ではありえない。

現「浮田町」・「森中町」をそれぞれ宇喜多・毛利両屋敷の遺称地と推定できるため、その東隣地で当地北向かいの「長尾町」が、上杉屋敷跡(長尾は旧名字)に比定される。

すると先にふれた「直家町」(兼続屋敷推定地)と「長尾町」が近接することに気づかれる。

 景勝・兼続の深い関係を鑑みれば十分ありえることだろう。

歴史地理史学者 中村武生

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2009.05.09

直江兼続・上杉景勝の聚楽屋敷跡道標、除幕した

 石碑除幕式、無事終わった。よすぎる天気だった。多数のご参加ありがとうございました。

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直江兼続・上杉景勝の聚楽屋敷に道標を建てました

 このたび、直江兼続および上杉景勝の京都屋敷(聚楽屋敷)推定地に道標を建てました。去る4月26日に行いました上杉景勝の京都屋敷(聚楽屋敷)碑とは別です。

 つきましては、以下に除幕式を行います。よろしければお越しください。

              記

日 時: 2009年59日(土)午前11

場 所: 京都市上京区堀川通椹木町西入ル南側(講堂町)

主 催:  特定非営利活動法人京都歴史地理同考会(中村武生理事長)

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2009.05.08

関ヶ原に巡検する打ち合わせ

5/7(木)雨のちくもり

 やっと連休が終わった。

 基礎からまなぶ日本歴史に出講。いつもは火曜日だけれど、連休中はできなかったので、今週だけ木曜日。

 関ヶ原前夜の石田三成と徳川家康の対立を論じた。いわゆる五奉行が家康を糾弾した「内府ちがいの条々」を全部朗読した。意味がとりにくいところもあったが。

 終了後、6/1(月)の巡検の打ち合わせをした。京阪バスの方がこられた。初の遠征である。

 京都市役所前から貸し切りバスで関ヶ原古戦場へ行く。予価4,000円。格安のコースである(JRで京都駅・関ヶ原駅間往復するだけで2,900円かかるし)。ご希望の方はご連絡ください。

 そのあと喫茶店に入って「池田屋事件」を打つ。もうすこしなのだ。

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2009.05.07

連休につかれた

5/6(休・水)

 連休最終日、やっと終わる。連休につかれた。

 外に出ても人が多いので、ずっと在宅。仕事していました。

 そういうこと。

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2009.05.06

ラジオ収録だった

5/5(火)はれ夕方から小雨

 夕方からラジオ「龍馬の時間」と「中村武生の京都歴史探偵」の収録にいく。三条ラジオカフェである。仮装して行きたかったが、雨なのであきらめた。内容は以下↓

http://radiocafe.sakura.ne.jp/b_syoukai/ryoma08.php?id=ryoma08

http://radiocafe.sakura.ne.jp/b_syoukai/tantei.php?id=tantei

 連休のため、寺町すごい人。つかれた。

 「中村武生の京都歴史探偵」(毎週木曜日。午前10時30分から3分間)は、京都駅ビルでの講演(5/7)、大久保利通暗殺(5/14)、猿ヶ辻(5/21)、石田三成の潜伏洞窟の訪問(5/28)について話した。

 たった3分だし、ぶっつけ本番なのでまとまりも悪いが、「生」の臨場感は出ていると思う。

 「龍馬の時間」は、今回もゲストあり。歌手の関島秀樹さんと、Mさん(女)とMちゃん(男)。

 関島秀樹さんはさすがプロで、ひと味もふた味もちがった。無料で出ていただいていいのか。関島秀樹さんの詳細はこちら→http://www.natural.fm/

 終了後、先斗町のお好み焼き店「やすべえ」で夕食。夜は久しぶりに木屋町六角「龍馬」を訪れた。龍馬はこちら→http://r.gnavi.co.jp/c954300/

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2009.05.05

人をさけて在宅

5/4(祝・月)はれ

 昨夜の疲れがすこし残る。痛みもすこしある。明らかに普段使わない筋肉を使ったから。でも翌日でよかった。まだ健康である。

 外で原稿を打ちたかったが、多くの人が市街地にいることが予想されたので、在宅した。

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2009.05.04

19年目に悲願なる!石田三成潜伏の洞窟に入る

5/4(月)はれ

 慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原合戦に敗れた石田三成は、戦場より脱出したが、6日後の21日、田中吉政の兵によって近江国北部(江北)で逮捕された。

 その厳密な場所がどこなのか、信用できる史料からは分からない。が、古くより広く知られた説に伊香郡古橋村がある。

 いまの滋賀県伊香郡木之本町古橋だが、その己高山の中腹にある洞窟に、逮捕直前まで滞在していたという。

 事実でないかもしれない。が、どうしても見たかった。

 1990年3月に、安藤英男氏編『石田三成のすべて』(新人物往来社、1985年)280ページに掲載された案内図を片手に、当時所属していた佛教大学日本史学研究会のメンバーと行った。しかしたどり着けなかった。地元の人の案内がないと無理だとわかった。

 江北の歴史に精通している太田浩司氏(市立長浜城歴史博物館)と親しくなったのち、いつか案内してほしいと願った。

 本日、それがかなうことになった。

 19年目にして悲願達成である。めったに行けない場所である。なるべく仲間を誘いたかった。が、太田さんとの打ち合わせで、山中のある場所までトラックで行ったとして、それからさらに1時間ちかくかかるということだった。そのトラックも数台、太田さんが手配してくれることになった。当然、人数に限りがある。

 しかも現場ではロープを使用して上り下りする由、とても多数の人数を動員することは困難である。

 そこで涙をのんで、NPO法人京都歴史地理同考会の理事のみで行くことにした。

 午前9時にJR長浜駅で集合。到着したのは10時40分ごろだった。

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 すごいところだった。ロープだけではない。はしごまで用意くださった。これらがなかったら洞窟へ降りれなかった。いや這い上がれなかった。茫然自失だった。

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 ずっと2台のラジオが鳴っていた。クマがくるかも知れないから。

 洞窟内には多数のコウモリがいた。我々に驚いて、ずっと飛んでいた。気持ち悪いことこの上なかった。が、感激きわまりなかった。

 76歳の総務のK畑さんが洞窟の前で、長生きしてよかったというようなことをいっておられた。ひとごとではない。僕は僕で健康でよかった、健康だったから登山もでき洞窟へも上り下りできたと思った。

 そのあとも太田さんやご一行さんに賤ヶ嶽古戦場をさまざまご案内いただいた。

 柴田勝家本陣の内中尾城(玄蕃尾城)跡(国史跡)は圧巻だった。織田系山城の最高レベルの縄張りという、太田さんの評価はひたすら首肯だった。ものすごい土塁と堀だった。豊臣秀吉構築の土塁・堀となんら遜色はなかった。

 城山の下を通る旧道・峠(倉坂峠(刀根坂))も、山内一豊の知られたエピソードの地だったこと、近世には伊能忠敬が通った確実の地だったことを教えていただき、ひたすら感激だった。こんなぜいたくな巡検は、そうはない。

 午後5時40分、長浜駅をたった。みんなへとへとのはずなのだが、一行ずっとしゃべっていた。あっというまに京都。そのまま駅前で打ち上げ。また歓談。

 一生忘れられないであろう日となった。

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2009.05.03

京都駅ビル大空広場で直江兼続のみた洛中洛外を論じた

5/2(土)はれ

 京都駅ビルの大空広場で、「葉っぴいてらす/古都にぎわいステージ・春」というイベントがあった。

 そこで午後3時から30分、「京都の歴史ミニ講座」をした(参加費無料)。

 タイトルは「直江兼続のみた洛中洛外」。野外の講演は初めてではないか。

 たまたま来られた方が多い。わざわざそのために家から来たという人はとても少なかったはずだ。そういう方に興味をもってもらう講演というのは、なかなか難しい。

 そのためタイムリーなネタとして「本年の大河ドラマネタとJR京都駅」みたいな内容にした。笑いもあったし、あとから質問も得たので、少しは関心をもってもらえただろう。

 終了後は、わざわざ来られた総務のK畑さん、理事のM本さん、今宮のN島さん、うちの奥さんとお茶に行った。

 明日は近江へ稀有な巡検がある。京都駅前でその準備の買い物をした。雨具なのだが。

 昨日、近江巡検の事前学習会のため、来客があった。奥さんがお食事づくりに奮闘した。その慰労のためおうちの食事を遠慮し、ふたりで外食した。串八という知られたチェーン店。とても久しぶりで、おいしく頂いた。

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2009.05.01

第5木曜日はイレギュラー

4/30(木)はれ

 木曜日は毎週予定がちがう。名古屋中日文化センターに行ったり、京都新聞文化センターに行ったり。

 でも第5週はイレギュラーなので、決まった予定はない。本日はその第5週木曜日なので、出かけなくてよかった。

 奥さんも家にいたので、めずらしくファミリーレストランのランチに行った。

 明日、お客さんがあるので、奥さんはおうちの掃除をしてくれた。僕は家で仕事をしていた。雑務がありすぎる。困る。

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