5/4(月)はれ
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原合戦に敗れた石田三成は、戦場より脱出したが、6日後の21日、田中吉政の兵によって近江国北部(江北)で逮捕された。
その厳密な場所がどこなのか、信用できる史料からは分からない。が、古くより広く知られた説に伊香郡古橋村がある。
いまの滋賀県伊香郡木之本町古橋だが、その己高山の中腹にある洞窟に、逮捕直前まで滞在していたという。
事実でないかもしれない。が、どうしても見たかった。
1990年3月に、安藤英男氏編『石田三成のすべて』(新人物往来社、1985年)280ページに掲載された案内図を片手に、当時所属していた佛教大学日本史学研究会のメンバーと行った。しかしたどり着けなかった。地元の人の案内がないと無理だとわかった。
江北の歴史に精通している太田浩司氏(市立長浜城歴史博物館)と親しくなったのち、いつか案内してほしいと願った。
本日、それがかなうことになった。
19年目にして悲願達成である。めったに行けない場所である。なるべく仲間を誘いたかった。が、太田さんとの打ち合わせで、山中のある場所までトラックで行ったとして、それからさらに1時間ちかくかかるということだった。そのトラックも数台、太田さんが手配してくれることになった。当然、人数に限りがある。
しかも現場ではロープを使用して上り下りする由、とても多数の人数を動員することは困難である。
そこで涙をのんで、NPO法人京都歴史地理同考会の理事のみで行くことにした。
午前9時にJR長浜駅で集合。到着したのは10時40分ごろだった。
すごいところだった。ロープだけではない。はしごまで用意くださった。これらがなかったら洞窟へ降りれなかった。いや這い上がれなかった。茫然自失だった。
ずっと2台のラジオが鳴っていた。クマがくるかも知れないから。
洞窟内には多数のコウモリがいた。我々に驚いて、ずっと飛んでいた。気持ち悪いことこの上なかった。が、感激きわまりなかった。
76歳の総務のK畑さんが洞窟の前で、長生きしてよかったというようなことをいっておられた。ひとごとではない。僕は僕で健康でよかった、健康だったから登山もでき洞窟へも上り下りできたと思った。
そのあとも太田さんやご一行さんに賤ヶ嶽古戦場をさまざまご案内いただいた。
柴田勝家本陣の内中尾城(玄蕃尾城)跡(国史跡)は圧巻だった。織田系山城の最高レベルの縄張りという、太田さんの評価はひたすら首肯だった。ものすごい土塁と堀だった。豊臣秀吉構築の土塁・堀となんら遜色はなかった。
城山の下を通る旧道・峠(倉坂峠(刀根坂))も、山内一豊の知られたエピソードの地だったこと、近世には伊能忠敬が通った確実の地だったことを教えていただき、ひたすら感激だった。こんなぜいたくな巡検は、そうはない。
午後5時40分、長浜駅をたった。みんなへとへとのはずなのだが、一行ずっとしゃべっていた。あっというまに京都。そのまま駅前で打ち上げ。また歓談。
一生忘れられないであろう日となった。