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2009.04.16

江戸時代毛利・島津屋敷跡、豊臣期石田屋敷跡などをあるく

4/13(月)はれ

 NHK文化センター大阪教室に初出講した。梅田の第4ビルが会場。中・高生のとき、よく前を通ったじゃないか。いや入ったこともあったぞ。縁深い。

 拙著『京都の江戸時代をあるく』の内容紹介みたいな講座である。皮膚科の山田先生のご自宅で見つかった道標や「たらたら坂」のおはなしをした。

 さすがに会場が大阪だから、知っている受講者はいないと思っていたら、ちゃんと2人知った人がいて驚いた。「M田・O田さん」である。わかる人だけわかる話。

 次回は巡検。が、上記のネタとは関係なく、聚楽城跡をあるく予定。

 帰途、昨日同様、大坂城下町とその付近をあるく。江戸時代の毛利家や島津家の蔵屋敷跡に初めて入った。ものすごく感じ入った。

 幕末期、元治元年(1864)6月11日付、池田屋事件を報じる桂小五郎の手紙。卒論以来、死ぬほど読んだ。その宛先が大坂屋敷の留守居役宍戸九郎兵衛らである。

 前年の文久3年(1863)9月27日、天誅組破陣により大和を脱出した中山忠光らは大坂毛利屋敷に逃げ込み、すかさず乗船させられ、周防三田尻へむかう。何度イメージしたか。

 その場所に立ったわけである。初めてである。どういうことか。碑まで立っていた。知らなかった。恥ずかしいことである。

 至近の薩摩上屋敷跡にも立つ。篤姫が入ったかも知れない。昨年は篤姫東上ルートにこだわった。到着地の江戸芝屋敷跡にもたった。年末ぎりぎりには出発地の薩摩鶴丸城跡にも入った。

 なのに大坂蔵屋敷跡には今日までこなかった。なんと大坂は僕にとって遠いところよ。反省しきり。今回のよみうり文化センター大阪講座は、その距離をちぢめる実によい機会となった。

 さらに大坂城跡京橋口へむかい、「備前島」にたつ。豊臣期の備前宰相こと宇喜多秀家亭跡がここにあったから地名となったとされる。

 「備前島」には石田三成亭もあった。慶長4年(1599)、近江佐和山に引退したあと空家になっていたこの亭に、徳川家康が入っている。

 「備前島」は現在の「片町」である。厳密な位置の特定は困難だが、「この付近」と認識して歩いた。思いがふかい。

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