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2009.04.27

碑銘公開/一条戻橋上杉景勝屋敷跡

()聚楽城 武家地 上杉景勝屋敷跡

()此付近 応仁の乱ゆかりの地 細川勝久屋敷跡

()二〇〇九年四月吉日 特定非営利活動法人京都歴史地理同考会建之

弾正町 寄贈者 村田眞一

 当地は平安京一条大路のすぐ北にあたる。つまり平安遷都当初は都市域ではなかった。

 が、西隣地(一条大宮上ル西側一帯)に平安中期の能書家、藤原行成が世尊寺を創建したと推定されており、京外ではあるが当地も早くから開発されたと思われる。

室町時代には、備中国(現岡山県)に勢力をもつ細川勝久の屋敷が営まれた。

応仁の乱では一族の細川勝元に属したため、応仁元年(1467)5月、当地も洛中での最初の合戦にまきこまれた。

応仁の乱から約120年後、天下統一を進める豊臣秀吉は、京都に本拠を定めた。

征夷大将軍ではなく、関白として、天皇のそばでの政権維持を考えたためである。

そのため洛中に本格的な城郭を建設した。

現在の一条大宮の西南一帯に位置した聚楽城である。

注目すべきは、全国の大名が、秀吉の命により聚楽城のそばに大名屋敷を営んだことである。

すなわち京都は単なる豊臣家の中心地ではなく、「武家国家の首都」になったのである。

当地にはその際、北国の大名、上杉(弾正少弼)景勝の屋敷がつくられた。

重臣直江兼続も出入りしたことは間違いなかろう。

当地が上杉屋敷跡であることは、信用できる同時代史料により、一条戻橋ちかくに存在したこと、そのすぐ西側に大宮通が通っていたと分かるほか、少なくとも江戸初期から当町の地名が、上杉弾正少弼に通ずる「弾正町」であるため確実と考える。

歴史地理史学者 中村武生

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