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2009.04.30

有栖川宮邸・二条陣屋・慶喜若州屋敷をふらふらと

4/29(水)はれ

 祝日なのだが、京都女子大学に出講。

 文部科学省の指導で、定まった時間数分、必ず講義をしないといけないらしい。だから休日出勤なのだ。休講にすると補講が義務付けられる。学生が迷惑なのではないか。強制はいかんと思う。現場の裁量に任せるべきだと思う。

 本日、名簿が届いていた。登録者は220名をこえていた。たいへん。また歴史地理について、地理学と歴史学のそれぞれの視点の違いを論じた。それをミヤコの惣構(御土居堀)をつかって。まだつづく。

 終了後、上京区へ出た。平安女学院が旧有栖川宮邸の建物を公開している。本日まで。だから無理をした。昨日も京都御苑にきたのだから可能ではあったが、行かなかったから。

 入り口の解説板によると、禁裏御所の建礼門前にあった有栖川宮邸内の建物で、1891年(明治24)3月、現在地に移転されてきたという。

 有栖川宮邸はもと猿が辻そばにあった。それが慶応年間に、建礼門前の御花畑に移った。その時代の建物ということだから、旧邸の建物を解体移築していないかぎり、幕末以後の建物だろう。

 しかもその建礼門前の有栖川宮邸は、維新後、京都裁判所の仮庁舎などに使用されていたということだから、あるいはその時期に新築された可能性もあるのではないか。

 そうすると必ずしも幕末や有栖川宮邸の建物かどうかもうたがわしくなってくる。

 けれどそんな由緒のある建物はほかにはないので、拝観できて幸せだった。500円の入場料は高いとはまったく思わなかった。

 もしかしたら、王政復古直後の、品川弥二郎と有栖川宮諸大夫粟津駿河守義風の議論の場所だったかも知れない、なんて思った(村田峰次郎『品川子爵伝』266~276ページ、1910年)。想像は自由だから。

 そのあと総務のK畑さんの周旋で、国重文小川家住宅(二条陣屋)の参観に出かけた。同屋敷は、近々に解体修理に入られる。3年は参観不能の由。だからうかがった。

 実は参観初めて。近世の大名屋敷にこだわっているのに入ったことがないのは恥であった。ようやく恥をそそいだ。

 すごい屋敷だった。忍者屋敷みたいとかよくいうけれど、そんな問題ではなかった。実にぜいたくな建物群だった。

 退出後、K畑さんに誘われて近くの来迎寺へ。新門辰五郎の家来の供養塔がある。幕末期、このそばに一橋慶喜が住んだ若狭小浜屋敷があった。そのため家来の新門辰五郎一家がちかくの寺に分宿した。来迎寺もそのひとつ。

 徳川記念財団の藤田英昭さんが、若狭小浜屋敷をふかく調べておられる。藤田さんから教えてもらっていたのに、今回はじめて墓参した。

 夜は誘われて、祇園会館に音楽を聴きに行った。仮装をしていったのだが、評判がよかった。今後はこれを私服にしよう。

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2009.04.29

禁裏御所の朔平門の裏側を初めてみた

4/28(火)はれ

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 「基礎から学ぶ日本歴史」の座講。本日は家康の初歩的なはなし。全然進まなかった。やっと江戸に入ったところ。まだ豊臣期。

 終了後、有志と喫茶。現在公開中の禁裏御所(現京都御所)のはなしになった。過去に数十回と行っている。今回行くつもりはない。なかった。

 ところが今回、初めて(禁裏御所側から)朔平門(禁裏御所の北門)のそばまでちかづけると聞き、あわてた。そんなそばまで行ったことはない。これは行くべきだ。そのうち行こう。でも明日まで。じゃあ明日行こう。明日は祝日だ。たくさん人が来る。しんどい。しょうがない。今いこう。急に思い立った。総務のK畑さんとG守さんが同行された。

 感激した。朔平門を裏側から初めてみた(写真)。すなわち皇后宮地区に初めて入った。猿が辻の内側も見えないけど、ほぼ確認できた。なぜ猿が辻の内側がみたいかというと、孝明天皇がここを通って、その穴門を出て和宮を見送ったから。その位置を確認したいから。でもふだん入れない。地図でもわかりにくい。それが認識できた。

 すばらしい。これは値打ちあった。あやしげなところばかり気にしてみたものだから、番している皇宮警察の方が緊張されていたし、わけわからんまま一般見学者も我々のそばにやってきていた。申し訳ない。何が珍しいか、いわなかったからね。

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2009.04.28

伏見指月城跡から向島城跡まで歩く

4/27(月)はれ

 「基礎からまなぶ日本歴史」の月イチ巡検があった。本講で秀吉が亡くなり、家康が台頭しようとしているので、家康ゆかりの向島城跡をあるいた。

 JR桃山駅に集合。陽が出ているがすこし寒い。向島城とセットで建設された初代伏見城こと指月城跡推定地へむかう。伏見区泰長老の団地や宮内庁大光明寺陵になっている。森がうっそうとして、いまはとても観月できそうもない。

 観月橋(旧豊後橋)をわたって、向島城へ。

 本丸や二の丸の地名が存在することは知っていたが、中心部に本体と思われる地割が方形状に生きていたことに驚いた。受講者はこの感激にきづかれたか。

 お昼すぎ、近鉄向島駅で解散。終了後、有志と昼食へ。パスタがなかなかこないとか、注文したパンがいま到着したとか、苦情炸裂だった。

 みなさんとお別れしたのち、ひとりでもう一度、指月城跡推定地を歩きにきた。気になるところがあったため。

 そのまま徒歩で伏見山を歩きつづけた。途中、旧街道をあるき、拙宅もよりの駅に通じていることを恥ずかしながら初めて知って感激。だから「札の辻」とか道標が建っていたのかと気づいたり(写真)、久世郡木幡へまっすぐ通じてることも知ってさらに感激した。

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 感激中、NHK朝ドラ「だんだん」の脚本補助をした近しい親戚から電話あり。NHKの別のドラマの単独脚本を担当することになったと聞いて驚いた。えらい出世やないですか。こちらは敗北してきたぞ。

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2009.04.27

碑銘公開/一条戻橋上杉景勝屋敷跡

()聚楽城 武家地 上杉景勝屋敷跡

()此付近 応仁の乱ゆかりの地 細川勝久屋敷跡

()二〇〇九年四月吉日 特定非営利活動法人京都歴史地理同考会建之

弾正町 寄贈者 村田眞一

 当地は平安京一条大路のすぐ北にあたる。つまり平安遷都当初は都市域ではなかった。

 が、西隣地(一条大宮上ル西側一帯)に平安中期の能書家、藤原行成が世尊寺を創建したと推定されており、京外ではあるが当地も早くから開発されたと思われる。

室町時代には、備中国(現岡山県)に勢力をもつ細川勝久の屋敷が営まれた。

応仁の乱では一族の細川勝元に属したため、応仁元年(1467)5月、当地も洛中での最初の合戦にまきこまれた。

応仁の乱から約120年後、天下統一を進める豊臣秀吉は、京都に本拠を定めた。

征夷大将軍ではなく、関白として、天皇のそばでの政権維持を考えたためである。

そのため洛中に本格的な城郭を建設した。

現在の一条大宮の西南一帯に位置した聚楽城である。

注目すべきは、全国の大名が、秀吉の命により聚楽城のそばに大名屋敷を営んだことである。

すなわち京都は単なる豊臣家の中心地ではなく、「武家国家の首都」になったのである。

当地にはその際、北国の大名、上杉(弾正少弼)景勝の屋敷がつくられた。

重臣直江兼続も出入りしたことは間違いなかろう。

当地が上杉屋敷跡であることは、信用できる同時代史料により、一条戻橋ちかくに存在したこと、そのすぐ西側に大宮通が通っていたと分かるほか、少なくとも江戸初期から当町の地名が、上杉弾正少弼に通ずる「弾正町」であるため確実と考える。

歴史地理史学者 中村武生

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一条戻橋の上杉景勝屋敷跡標石の除幕式があった

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 昨日、上京区黒門通一条上ルで石碑除幕式を行った。写真はそれです。

 NHK大河ドラマ「天地人」ゆかりの史蹟があらたに生まれた。

 雨だったからか、取材が少なかった。読売新聞社だけだった。

 山田邦和博士(同志社女子大学)が自転車で通られたのが、劇的だった。急きょ、ご挨拶もしてもらった。最高のプレゼントみたいだった。

 大宮今出川の「ねぎ太郎」での懇親会のあと、いつもの龍馬(木屋町六角)で宮川禎一さん(京都国立博物館)の誕生パーティがあると聞き、参加した。こちらも楽しいお酒だった。

 今朝の読売新聞に載っていた。写真がなかったのが残念だった。記事はこちら↓

http://osaka.yomiuri.co.jp/kyoto/news/20090427kn01.htm?from=sub

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2009.04.25

【除幕式】聚楽城武家地上杉景勝屋敷跡ご案内

 明日、次の紀念標石(石碑)の除幕式を行います。よろしければおこしください。

()聚楽城 武家地 上杉景勝屋敷跡

()此付近 応仁の乱ゆかりの地 細川勝久屋敷跡

()二〇〇九年四月吉日 特定非営利活動法人京都歴史地理同考会建之

弾正町 寄贈者 村田眞一

                        記

日 時: 2009年4月26日(日)午前11

場 所: 京都市上京区黒門通一条上ル(西側)弾正町(村田織物株式会社前)

行き方: JR京都駅から市バス9番「堀川通・西賀茂車庫ゆき」乗車、約20分で「一条戻り橋」下車。徒歩2分。

主 催:  特定非営利活動法人京都歴史地理同考会

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あさって上杉景勝京屋敷跡碑除幕式です

4/24(金)はれ

 あさって「聚楽城 武家地 上杉景勝屋敷跡」標石の除幕式である。だから京都府庁に記者発表資料をもっていった。話題になっていただければよいが。

 昼からくずし字入門。本日は京都の「扶持人儒者」の居所を読んだ。つまり大名家に仕えていた儒学者の一覧である。

 全体的に意外と人数の少ないこと、大名屋敷のそばに住んでいないこと(これは武家家臣と異なる)、尾張徳川家に仕えた人が四人もいるのに、同時期(元禄・宝永期)に尾張徳川の京屋敷がみあたらないことなどが話題になった。※

 夜、ひさしぶりに木屋町六角下ルの龍馬へ。オーナー赤尾さんの誕生日だったから。意外な宴会に遭遇。珍しく飲んだ。

※後日譚。以上のはなしは、京都府立総合資料館蔵「都の記」(いわゆる「京都覚書」の一種)による。同時期の絵図である、元禄4年(1691)9月刊行の「京大絵図」にも記載がない。

 が、帰宅して、元禄4(1691)~10年「京羽二重」巻5の「諸大名御屋敷所付」(新修京都叢書2、P178)をみると、尾張中納言屋敷はちゃんと記載されていた。錦小路室町西入ルである。ちなみにつづく宝永版にも(同書P268)。

 なお幕末の元治元年(1864)の絵図(西四辻版)にも、同じ場所に「尾州」の表記がある。

 単なる書洩らしと考えるほかない。

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2009.04.23

京都女子大学、本年も楽しい

4/22(水)はれ

 京都女子大学に出講。受講者が多い。プリント130枚刷って行ったら足りなかった。追加で70枚刷ったら余った。そんな数だ。

 前回ウケたミヤコの惣構(そうがまえ=御土居堀)のはなしのつづき。

 毎年言っていることだが、京都女子大の受講者は本当に反応がいい。文章書かせると、思いを言葉にするのもうまい。だいたい年度による変化があるものなのだが、当学はそれがなかった。すごい。

 午後から、京都駅前のよみうり文化センター京都校に初出講。1月にプレ講座をしたのだが、そのとき受講の方が1人しかこられなかった。こんなこともあるのだ。驚いた。

 今日も早めに帰って、また家で用事。最近とっても優等生。

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2009.04.21

拝受した玉稿・高著のご紹介

 昨日までに拝受いたしました玉稿・高著を掲示いたします(到着順)。ありがとうございます。勉強させていただきました(いただいております)。

1.久住真也氏『幕末の将軍』講談社選書メチエ、2009年2月

  ※将軍家茂をこんなにまとまって論じたものは例がないのではないか。慶喜に対しても興味深い視点でアプローチしておられる。とてもおもしろかった。

2.河内将芳氏「中世本能寺の寺地と立地について―成立と本能寺の変まで―」抜き刷り(『立命館文学』609号、2008年12月)

  ※昨年の平安京・京都研究集会での報告内容をまとめられたもの。本能寺の変の研究は多いが、本能寺そのものの研究は稀少であった。河内さんは文献史学の研究者だが、歴史地理史学的視点からのアプローチで興味ぶかい。

3.桐野作人氏『さつま人国誌/幕末・明治編』南日本新聞社、2009年3月

 ※歴史作家にして歴史研究者桐野さんの著作。よみやすく裏付けのしっかりした内容。昨年、京都堀川一条に「小松帯刀寓居跡参考地」の建碑をしたが、桐野さんの見解を大きく参考にさせていただいた。にもかかわらず、この本ではその説に消極的になっておられる。「どういうことやねん」ではなく、そういうご姿勢だから信頼できる。新説に忠実で感情にながされておられない。

4.皆川真理子氏『土佐史談』240号、2009年3月

 ※皆川さんの論文「史料から白峯駿馬と近藤長次郎を探る―関東例会を終えて―」が掲載されている。皆川さんは世界で一番現代の坂本龍馬情報に詳しい人。龍馬の隣人ふたりに関する実証的な論文。龍馬を考える上でこういうお仕事はありがたい。

5.太田達氏・濱崎加奈子氏より、太田達氏・平竹耕三氏編著『京の花街―ひと・わざ・まち』日本評論社、2009年4月

 ※研究者五人による京都の六花街の概説書。実証的である。太田達氏・濱崎加奈子氏が主宰される花街文化研究会には僕も参加させていただいている。その成果の一部が生かされている。

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2009.04.20

【講座】基礎からまなぶ近江の歴史

【講座】基礎からまなぶ近江の歴史

 上記の講座を開始しました。

 「近江(滋賀県)の歴史」と銘打っていますが、日本史のなかで語ろうとしていますので、JR京都駅前で行っている「基礎からまなぶ!日本歴史」の姉妹編といってもよいものです。

 「基礎からまなぶ!日本歴史」の最初のころを受講しておられない方に最適です。レベルは、高等学校日本史教科書ていどです。

 本日(4/20)、第1回でした。

 人類以前、琵琶湖の誕生のおはなしをしました。次回は、人類誕生以後。旧石器時代です。明石人、岩宿遺跡などのはなしとともに、石山貝塚などにふれることでしょう。もちろん「ねつ造問題」も。

 ―記― 

【講座】基礎からまなぶ近江の歴史(2009年)

講師:中村武生(歴史地理史学者、京都女子大学非常勤講師)

 ②5月25日(月)午後1時30分~3時

 ③6月15日(月)午後1時30分~3時

 ④7月27日(月)午後1時30分~3時

 ⑤8月17日(月)午後1時30分~3時

 ⑥9月28日(月)午後1時30分~3時

 ⑦10月19日(月)午後1時30分~3時

 ⑧11月16日(月)午後1時30分~3時

 ⑨12月21日(月)午後1時30分~3時

参加費:1,000円

会場:原則として、大津市市民活動センター大会議室(「明日都(あすと)浜大津」1階。滋賀県大津市浜大津4丁目1-1 地図はこちらhttp://www.otsu-npovol.jp/index.php

 行き方:京阪電車京津線「浜大津」駅下車、すぐ

※ただし時々、巡検(現地見学会)をいたします。その時々の会場は主催者にお問い合わせください。

 まずは文化元年(1804)の「龍骨」出土地に行く予定(実はゾウの骨。大津市伊香立南庄町)。

主催:龍馬カンパニー

京都市中京区木屋町六角下ル材木町184 都会館1階 「龍馬」
TEL/FAX 075-211-3666 詳細はこちら→http://kyoto-ryoma.jp/blog/index.php

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新たに見つかった「御土居」片にふれた

4/17()はれ

 くずし字入門に出講。儒者の京都居住地の位置を読む。

 なんで儒者だけで、蘭学者はいないのか。まだ洋書輸入の禁がとかれていないから。

 で、新井白石や青木昆陽、前野良沢といった蘭学者の系譜をしゃべった。

 新井白石のはなしをしたのに、その師の木下順庵はとりあげなかった。関係ないと思ったし。

 ところが、本文中に登場しながら無関心に通り過ぎた「木下平之丞」。

 実はこれが木下順庵だった。きづかなかった。恥ずかしいことだ。

 終了後、千本七条にむかう。

 いま職業安定所(ハローワーク)分室の建物建て替えにさきだって、京都市埋蔵文化財研究所による発掘調査が行われている。 

 そこで洛中惣構の土塁(いわゆる「御土居」)の基底部が検出されていると、同研究所の丸川義広さんから先日ご連絡をいただいた。

 担当の小檜山一良さんも既知なので、うかがいやすい。で、お訪ねした。

 実際の幅は約20メートルだが、そのま半分、約10メートル分が断続的に検出されていた。

 高さはわずか数センチメートルしか残っていなかったが(写真。指でさししめされた部分)、それでも「御土居」の残存部である。

 「よくぞ生きていたなあ」というところ。触れてきた。

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 直下の弥生時代の地層はたたきしめた感じがあるのに、土塁はそうでもなかった。とてももろかった。

 洛中北辺の土塁とは差異があるように思えた。地域性があるのだろう。

 翌日、一般公開があると聞いたが、いけなさそうだったので、本日うかがった。ありがたかった。

 小桧山さん、ありがとうございました。

 

 あと、拙著『御土居堀ものがたり』(京都新聞出版センター、2005年)に掲載した土塁・堀跡の推定位置にずれがないかも気になったところであった(181ページ、図4)。

 ちゃんとハローワークの部分に土塁を示すスクリーントーンをはっていた。見事に一致していた。ほっとした。

 伺えなかったが、この遺構はこのあとたぶん消失すると思います。泣いてやってください。

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2009.04.17

名古屋で直江兼続・上杉景勝とあそんだ

4/16(木)はれ

 第3木曜日なので、名古屋に行く。栄中日文化センターに出講。「日本の城と合戦」「もっと知りたい京都学講座」新年度。

 直江兼続と上杉景勝三昧だった。京都学講座も。僕が勉強になった。

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2009.04.16

江戸時代毛利・島津屋敷跡、豊臣期石田屋敷跡などをあるく

4/13(月)はれ

 NHK文化センター大阪教室に初出講した。梅田の第4ビルが会場。中・高生のとき、よく前を通ったじゃないか。いや入ったこともあったぞ。縁深い。

 拙著『京都の江戸時代をあるく』の内容紹介みたいな講座である。皮膚科の山田先生のご自宅で見つかった道標や「たらたら坂」のおはなしをした。

 さすがに会場が大阪だから、知っている受講者はいないと思っていたら、ちゃんと2人知った人がいて驚いた。「M田・O田さん」である。わかる人だけわかる話。

 次回は巡検。が、上記のネタとは関係なく、聚楽城跡をあるく予定。

 帰途、昨日同様、大坂城下町とその付近をあるく。江戸時代の毛利家や島津家の蔵屋敷跡に初めて入った。ものすごく感じ入った。

 幕末期、元治元年(1864)6月11日付、池田屋事件を報じる桂小五郎の手紙。卒論以来、死ぬほど読んだ。その宛先が大坂屋敷の留守居役宍戸九郎兵衛らである。

 前年の文久3年(1863)9月27日、天誅組破陣により大和を脱出した中山忠光らは大坂毛利屋敷に逃げ込み、すかさず乗船させられ、周防三田尻へむかう。何度イメージしたか。

 その場所に立ったわけである。初めてである。どういうことか。碑まで立っていた。知らなかった。恥ずかしいことである。

 至近の薩摩上屋敷跡にも立つ。篤姫が入ったかも知れない。昨年は篤姫東上ルートにこだわった。到着地の江戸芝屋敷跡にもたった。年末ぎりぎりには出発地の薩摩鶴丸城跡にも入った。

 なのに大坂蔵屋敷跡には今日までこなかった。なんと大坂は僕にとって遠いところよ。反省しきり。今回のよみうり文化センター大阪講座は、その距離をちぢめる実によい機会となった。

 さらに大坂城跡京橋口へむかい、「備前島」にたつ。豊臣期の備前宰相こと宇喜多秀家亭跡がここにあったから地名となったとされる。

 「備前島」には石田三成亭もあった。慶長4年(1599)、近江佐和山に引退したあと空家になっていたこの亭に、徳川家康が入っている。

 「備前島」は現在の「片町」である。厳密な位置の特定は困難だが、「この付近」と認識して歩いた。思いがふかい。

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2009.04.14

大坂城下町惣構跡をあるいた

4/12(日)はれ

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 よみうり文化センター天満校に出講。大阪・天満である。

 カルチャースクールはこれまで、名古屋と京都だけだったが、ついに大阪に進出することになった。しかも一度にふたつも。上記よみうりとNHK文化センターである。

 NHK文化センターは大阪市内で講義するが、タイトルは「京都の江戸時代を歩く」である。巡検も京都市内である。

 が、よみうり天満は、古地図を片手に大阪をあるくものである。初である。

 その第1回は大坂城下町の武家地(大名屋敷)跡をあるく、2回目は大坂城下町の惣構(そうがまえ。外堀)跡をあるく、3回目は幕末志士の大坂をあるく、である。それぞれに巡検が1回ついてくる。

 で、教室講義が終わったのち、ひとりで下見にいった。

 有名な「空堀商店街」にいった。惣構(そうがまえ)の南端にあたる。商店街の道路の南側に東西につづくくぼ地がある(写真)。

 それが堀跡らしい(高田徹氏「太閤秀吉の大坂城」歴史群像シリーズ、城と城下町2『大坂・大阪―変遷を古地図・古写真で追う』、学研、2008年5月、10-11頁)。

 北側にもくぼ地があることを考えると、道路が土塁の基底部だろう。よくぞこんなものが残っている。石碑も解説板もなにもない。ここもか。

 東のJR環状線玉造駅にむかって歩いて行った。途中「真田山」にぶつかった。真田信繁(いわゆる幸村)の出丸の遺構である。大坂冬の陣図屏風でおなじみの場所。NHKドラマ「真田太平記」の草刈正雄さんの雄姿がうかんでしかたがなかった。いかん。

 これまでどれだけ話題にしてきたか。なのに今日初めて歩いた。ここは北海道や沖縄ではない。大阪市内である。なんという怠慢。

 明日はNHK文化センター大阪校に出講である。また大阪市内にくる。明日も終わってから城下町跡を歩こう。

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2009.04.12

NHK「歴史秘話ヒストリア」の撮影があった

4/10(金)はれ

 本日も京都新聞朝刊(市民版)に「中村武生さんとあるく洛中洛外」が載っていた。今回のお題は平安宮内裏跡。

 内裏跡に建っている小学校は、もと「出水小学校」だった。それが最近改名されて「二条城北小学校」となった。なんたることか。「山田君のとなりの君」っていわれているような名前だ。古代天皇の「家」跡を指し示す名前が、近世二条城の北側って。

 「内裏小学校」にでもすべきなのに。ネーミングした人の歴史知識が問われる、と取材中に語ったのだが採用されなかった。当然か。

次回は4/17(金)。「室町殿跡」の予定です。

 新聞はJR車内で読んだ。朝9時にまちあわせのため、京都駅にむかう。

 NHK「歴史秘話ヒストリア」の撮影のため。木屋町三条下ルの高瀬川沿いで池田屋事件の話をした。

 ようやく調子にのってきたころ、撮影は終わった。ぼーっとした顔でうつっているかもしれん。朝早かったからなあ。前日2時間しか寝ていなかったし。

 5月13日(水)放映です。ネタは「新撰組」です。

 午後から「くずし字入門」に出講。元禄期の儒学者・医者の居所を記した部分を読んだ。「荒子(あらしこ)」ってなんだかとか、「山脇道立」って山脇東洋の先祖かとか質問があった。(養父です)

 午後3時からFM録音。いつもの三条ラジオカフェ。「龍馬の時間」では津軽三味線弾きの寂空(じゃっく)のコンビ「世空(よぞら)」がゲスト。ずっとロック調の三味線を弾いてくれた。いま上り調子のバンドマンです。

詳しくはこちら→http://ym08.web.fc2.com/about.html

 「中村武生の京都歴史探偵」(毎週木曜日、午前10時30分から3分間)はあいわらずの話。京都女子大学の学生さんはすばらしい、とか話した。

 赤尾博章さんとおりょうさんに連れられて、河原町のコーヒー店「インパルス」へ。少し滞在して、「潜伏地」で1時間休憩して、龍馬に寄って、ウーロン茶を飲んで、すぐ帰る。

 帰ったら、「聚楽城 武家地 直江兼続屋敷跡推定地」碑のゲラが来ていた。はやいなあ。

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2009.04.09

方広寺旧境内と豊国社跡でたまたま花見

4/8(水)はれ

 新学期がはじまった。京都女子大学の初出講日だった。人が多かった。何人だろう。あまり多いと巡検ができない。困る。

 そののち「基礎からまなぶ日本歴史」の巡検を行う。偶然、東山大仏(方広寺旧境内)跡と豊国社跡めぐり。今日は灌仏会(かんぶつえ)である。なんというタイミング。

 せっまい範囲なのだが、ていねいに歩くから時間がかかる。昼に入ってしまった。桜がきれいだった。

 黒門一条上ル弾正町に建設予定の「聚楽城 上杉景勝屋敷跡」標石の最終ゲラを受け取った。除幕式まで、もうまもなくである。

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2009.04.08

24回目の岡田有希子さんの祥月命日でした

 4月8日です。毎年のことですが、今日は岡田有希子(本名佐藤佳代)さんの祥月命日です。24回忌です。

 その時間には、東山大仏旧境内をあるいておりました。もう15年も墓参をしておりませんが、忘れておりません。御存命なら41歳です。

 ご冥福を御祈りもうしあげます。

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2009.04.07

醍醐の花見を体感してみた

4/5(日)はれ

 家庭の事情があり、醍醐寺へ参拝した。

 桜の季節におまいりするのは初めて。人が多いのがいやだから。

 『義演准后日記』1巻を持参した。義演は豊臣期の三宝院のトップ。秀吉の花見を誘致した人物。いまの醍醐寺があるのは義演の尽力のたまものといってよい。

 慶長3年3年15日(1598年4月20日)が花見の日。その条を現地で読んでみた。「筆舌に尽くし難い」と記した義演の感動表記。知っていたけれど、同じ季節にきて、よりよくわかった気がした。

 やっぱりその場所に同じときにきて、原史料を読む。大事なことだと思った。

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2009.04.04

洛中の大名屋敷跡をあるいた

4/3(金)はれ

 くずし字入門の巡検を行う。教室を取り忘れたから。

 ここまで読んできた、元禄期の洛中洛外の大名屋敷跡をあるくことにした。全部で71邸宅ある。全部まわるのは無理。さあ、どれだけまわれるでしょう。

 地下鉄東西線「京都市役所前」駅に集合。その真上が長州毛利邸跡(現京都ホテルオークラ)だから。

 ここで時間をつぶしまくる。ネタがありすぎるから。建設年代はわかってるし、前身屋敷の位置もしっているし、鎮守のことも、寺院のことも、絵図の存在も・・・。うわあ。

 四至をめぐって、南下する。加賀前田邸跡(標石あり)、対馬宗屋敷跡、京極備中守邸跡(彦根井伊邸跡(標石あり))、土佐山内邸跡(標石あり)、四条通で西行。

 佐竹邸跡、肥前鍋島邸跡(標石あり)、片桐又七邸跡、神明社(これだけ現存)、浅野内匠頭邸跡、松平周防守邸跡。で、薩摩島津家室町邸跡で終了。

 のべ14か所。2割弱ていどかな。まあまああるいた。疲れた。こんなマニアな巡検ないなあ。途中、たくさんの花見客をみる。こちらも花見団に思われただろう。でもちがったのだ。

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2009.04.03

中村武生さんと歩く洛中洛外、連載開始

 今朝の『京都新聞』朝刊(京都市民版=19面)から「中村武生さんと歩く洛中洛外」という連載が始まった(毎週金曜日)。

 京都市内の「区」ごとに、佐藤知幸記者の筆を借りて洛中洛外を案内するというもの。

 今月は上京区。第1回はNHK大河ドラマ「天地人」にからめて、「直江兼続の見た京」。直江兼続やその主君、上杉景勝の聚楽城の屋敷跡を追ってみた。

 黒門通一条上ルの「弾正町」、堀川通椹木町西入ル「長尾町」、葭屋町通丸太町上ル「直家町」などをその遺称地として紹介した。

 今月末から来月初頭に、上記旧蹟を示す標石が2基現地に建立される。記事に記載はないが、その予告編みたいな内容になった。

 1年継続(全50回)予定です。みなさま、ごひいきに。

※【ご注意】京都市内地域版です。たとえば京田辺市などで配られる「城南版」には掲載されていません。

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2009.04.02

NHK番組で池田屋を話すよう依頼があった

4/1(水)はれ夜雨

 新年度である。が、疲労がたまっているのとエイプリルフールだったので、自宅に籠もっていた。

 NHK「歴史秘話ヒストリア」担当のT木さんから電話あり。6月放映予定の新撰組特集に出演することになった。ただしスタジオではない。ロケである。路上で池田屋事件のはなしをせよといわれた。快諾した。

 電話を切ってから、エイプリルフールだったことを思い出した。虚構かも知れない。

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2009.04.01

大坂天満八軒家旧蹟であそぶ

3/31(火)はれ

 年度末である。かわらず「基礎からまなぶ日本歴史」に出講。

 とうとう豊臣秀吉が亡くなった。次回からは関ヶ原合戦前夜である。せっかくだから近々に東山大仏跡と豊国社跡の巡検をすることにした。

 「基礎からまなぶ日本歴史」受講の方にはお知らせした。次回はまだまにあいますので、次回またお知らせいたます。

 終了後、突然N古屋のF橋A子さん(龍馬・お龍夫妻研究者)がこられて驚いた。これから大阪市内に向かうとうかがったので便乗させてもらうことにした。

 寺田屋伊助が提携していた商店に、大坂天満八軒家の堺屋重兵衞がある(『登船独案内』増補、藤屋九兵衞、天保8年(1837)。吉田酔痴編『伏見史話』121ページ、1979年)。

 寺田屋伊助の船が伏見南浜を出たあと、大坂天満八軒家に到着し、堺屋重兵衞の店が世話をするということだ。

 天保8年(1837)は慶応年間から約30年も前なのでストレートど真ん中ではないが、もし契約がつづいていたなら、坂本龍馬もこのなかにいたことになる。

 はずかしながらこんな大事なことを最近まで知らなかった。先週末、京都でたまたまお目にかかった旧知の皆川真理子さん(東京龍馬会)からまなんだのだ。

 大坂天満は幼少のころより縁のふかいところだが、そういう視点で歩いたことがなかったので、あるいてみたくなった。そんなときのF橋さんの来訪である。まさに「渡りに船」であった。

 さきに生国魂神社(大阪市天王寺区生玉町)に参拝。境内に堺屋重兵衞や新撰組ゆかりの京屋忠兵衞の銘のある燈篭が現存すると聞いたから。

 拝殿の北側に2基あった。「寛保三癸亥六月吉日」の銘のある「願主八軒家旅籠中」の「御神燈」である。

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 寛保3年(1743)は慶応年間より約120年も前である。この「堺屋重兵衞」が寺田屋伊助と提携していた堺屋重兵衞の先祖であるかどうか注意すべきであるが、願主が八軒家旅籠中とある以上、可能性は高いと思われる。けっこう感激した。

 そのあと天満にうつり、八軒家船着き跡の標石や当時の段差を楽しむ(京阪電車「天満橋」駅南側一帯)。

 たまたま大川(淀川)に近寄ると、「桜ノ宮(大川)お花見遊覧船」が実施されているのを知った。乗ったことがなかったので、乗せてもらった。ほかにお客はなく、完全に貸し切り状態だった。

 龍馬や新撰組、中山忠光の往来を想像して楽しかった(寒かったことと、船頭さんたちの過剰サービスに要注意)。

 旧大阪砲兵工廠の舟入をみることができたのは、望外の幸せだった。

 降船ののちは京阪電車で京都へもどり、いつもの木屋町六角下ル「龍馬」で夕食をとる。「龍馬」はこちら→http://kyoto-ryoma.jp/blog/index.php 

 K都K立博物館のM川T一先生とT田敏Kさんがおられた。

 滞在中、突然三条ラジオカフェから来月分の収録がなされていないとご連絡があり、急きょ店主A尾H章さんとかけつけ、収録する。

 濃密で、いろいろい思うことが多い日だった。

 明日から、新年度。またどうぞよろしくお願いいたします。

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