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2009.03.30

お龍(鞆)の新碑銘を掲示します

 3/29(日)記事のつづきです。新碑銘の全文を掲示しておきます。副碑原文には総ルビをふりましたが、こちらでは省いています。お許しください。

(表面)此付近 坂本龍馬妻 お龍 独身時代 寓居跡

(側面)此付近 京都府知事 中井弘 幕末期寓居跡

(裏面)二〇〇九年三月 特定非営利活動法人京都龍馬会建之

(副碑文)  

坂本龍馬の妻となるお龍()は、青蓮院宮に仕える医師楢崎将作・貞の長女でした。京都柳馬場三条下ル東側に住んでいましたが、文久2年(1862)620日、不幸がおきます。父の死去です。このため母・妹・弟をふくむ6人の遺族は困窮し、「京都の木屋町」もしくは「四条、うら通りの借家」に移住します。

こののち一家は離散し、お龍()は単身七条新地の扇岩なる店に入ります。母と妹君江は、洛東大仏南門前(現東山区本瓦町付近)の河原屋五兵衛(五郎兵衛)隠居所の土佐亡命志士の居所に住み込みで働きました。その縁で龍馬とお龍()は出会うことになります。木屋町の住居は、その直前まで住んでいた地として無視できません。

というのも、龍馬の書翰に記載されたお龍()の個性を知るエピソードに、妹光枝が悪い輩にだまされて大坂の遊郭に連れて行かれたが、彼女が単身乗り込み、ついに連れ戻すというものがあります。それが木屋町時代のことです。正確な位置は不明ですが、龍馬が「まことにおもしろき女」と愛したお龍()のゆかりの地として、ここ木屋町通に建碑するものです。

なお龍馬やその終焉地の主人近江屋新助とも交流のあった、滋賀県知事や京都府知事を歴任する中井弘も、中井弘蔵や田中幸助と名乗った幕末当時、木屋町の近江屋喜一郎の2階に寄宿していました。あわせて顕彰します。

                                   歴史地理研究者 中村武生

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