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2009.03.19

秀吉の初の洛中城郭「妙顕寺城」跡をあるく

3/17(火)はれ

 午前10時、地下鉄「二条城前駅」改札に集合。ひさしぶりの「基礎からまなぶ日本歴史」の巡検である。

 豊臣(羽柴)秀吉の初の洛中城郭「妙顕寺城」跡をあるいた。写真と地図はこちら→http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/na005.html

 法華宗の名刹、妙顕寺の土地を摂取して利用したため、この名がある。

 その位置については、天正3年(1575)10月18日付の安堵状により、北は二条通、東は西洞院通、南は三条坊門(現御池通)、西は油小路の南北2町(東西1町)とわかる(妙顕寺文書)。

 現在その中心部が「古城町」「下古城町」となっていて、地名がその旧蹟地をしる貴重なデータになりうることを示してくれている。

 その地が閑院内裏跡とほぼ一致することを指摘する。

 閑院内裏は、内裏廃絶のあと使用された里内裏のなかでも、もっとも長期間使用されたものだろう。平安後期の後三条院から鎌倉中期の後深草院までの約150年にあたる。

 「妙顕寺城」跡が閑院内裏跡と一致するのは偶然ではないのではないか。というのも、このあと営む聚楽城も平安宮内裏跡である。

 古代の天皇の居所のうち、最重要のものがふたつとも秀吉の城郭に踏襲されている。

 ①当初の聚楽城の北限が一条通であったり(平安京・平安宮の北限と一致)、②ミヤコの惣構(城壁・環濠)の御土居堀の南限が九条通であったり(平安京の南限と一致)、③西限が朱雀大路にほぼ一致している。有職故実にたけたものが豊臣政権にいて、秀吉に勧めたのだろう。王朝時代の「場所の記憶」を意識しているのだろう。

 この四至をあるいたあと、中心部にある西福寺(小川通押小路西入ル北側)門前の城跡を示す石標をながめる。そこにこれまでなかった閑院内裏跡の解説板が建てられていたのは興味ぶかかった。

 なぜなら閑院内裏跡を示す石碑は、少しだけだが離れた別の場所に立っているから(小川通押小路の交差点北西角)。おなじところに立っていることの意義は大きい。わかりやすい。

 そのあと地下鉄で移動し、城建設により強制移動させられた、現在の妙顕寺を参拝する。このあたりは東の「寺町」・南の「本願寺寺内町」とともに洛中につくられた北の寺院街「寺之内」にあたる。

 妙顕寺の広い旧境内をあるいたあと、せっかくだから「寺之内」地区もいろいろみてあるく。

 悲田院跡を踏襲した大応寺のおかげで、隣接して現存する「後花園天皇火葬塚」(北区堀川通紫明下ル)が、たくさんある天皇火葬塚のなかで珍しく事実の可能性が高いことなどを述べる。すばらしい。

 お昼をとっくにすぎた午後1時になって解散。有志でお昼ご飯。御土居堀跡の隣地の中華料理店「鳳舞」に行く。

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