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2009.02.09

直江兼続のみた伏見をあるく

2/8(日)はれ

 京都おこしやす大学に出講。「直江兼続のみた伏見をあるく」みたいな講座・巡検である。

 上越や会津若松・米沢など、北陸・東北地方を、直江兼続の「自宅」だと思っておられる方が多い。

 忘れてはならない。直江兼続や上杉景勝は豊臣大名なのだ。豊臣大名はみな、洛中の聚楽城や、紀伊郡の伏見城の城下町に強制的に住まわされていた。

 江戸時代の参勤交代みたいに、1年おきに領地と政権の拠点を行ききしていたわけではない。原則、聚楽もしくは伏見に、無期限の居住義務があった。

 すなわち直江兼続や上杉景勝の本邸は京都や伏見だったのだ。

 藤森神社の参集殿でまず語る。ちなみに、藤森神社も伏見大名屋敷地区跡である。

 で、午後から巡検へ。伏見街道から南下する。

 直江兼続や上杉景勝が構築を担当した、惣構(そうがまえ)の土塁・堀の跡をあるき、少しずつ町の中心部へ進む。

 直江兼続や上杉景勝の伏見屋敷はどこにあったか。伏見区に「景勝町」の地名があるため、ここに景勝や正妻が住んでいたと信じられている。

 そのように書いた観光ガイドブックやサイト・ブログをちょくちょくみる(たとえば『天地人直江兼続』メディアポーイ、2008年12月、116ページ)。

 恥ずかしながら、僕もJR西日本の冊子『京都散策』冬号にそのように書いた(JR西日本の各駅にいま無料でおいてあります。京都駅とか山科駅とか六地蔵駅とか)。

 が、おそらく違うだろう。ではどこか。

 結論はなかなか出せない。だからいまいえることを述べた。

 2/21(土)、3/15(日)にもありますから、よかったら来てください(景勝町には行きません)。

↓詳しくはこちらへ。

http://kyoto-okoshiyasu.jp/plan/plan_2/203041.html

注意【伏見は「京都」ではありません】伏見を「京都の伏見」と書くものを多くみるが、ちがいます。伏見は「京都」(平安京、平安城)ではありません。「京都」から約8キロメートル離れた別の集落です。ながく紀伊郡伏見町、あるいは紀伊郡堀内村などでした。京都市に含まれたのは、平安遷都より1,137年もたった、1931年(昭和6)4月1日以後です。まだ70年余しかたっていません。前近代の歴史をかたるとき、伏見を「京都」だと認識すると、さまざまな誤解をおこします)。

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