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2008.12.27

篤姫は「おかつ」ではなかった

12/26(金)はれ

 昨日の除幕式、京都新聞、朝日新聞、南日本新聞に掲載されていた。

 篤姫ゆかりの地として報じられていた。

 で、同じ日、大河ドラマ「篤姫」の総集編第1話が放映された。

 篤姫は当初「おかつ」と呼ばれていた。それで、忘れていた。思い出した。大事な発見があったのだった。

 「おかつ」は「お一」と書く。

 どうして「一」と書いて、「かつ」と読むのだろう。何らかの根拠があるのだろうか。

 ためしに昨年から本年にかけて刊行された、信用に足る種々の篤姫伝をめくってみた。

 たとえば寺尾美保氏『天璋院篤姫』(高城書房、97ページ)だが、「一子」に「かつ」のルビを打っている。が、根拠は示さ;れていない。

 鹿児島県在の歴史研究者による著作だから、何らかの根拠がおありだと思うが、実は疑う余地があることにきづいた。

 過日、「篤姫の道中日記」として話題になった、仙波市左衛門日記である。

 去る11月15日、神田神保町で実物を閲覧する機会を得た。そこに意外な記載があった。

 嘉永6年(1853)3月29日条に、江戸表から同月12日付の至急の飛脚が鹿児島に届き、「篤姫様」を「御前様」の養女とするという記事がある。

 その末尾に、

「右ハ今和泉御嫡女様ニ而、おいち様と申」

とあったのである。

 「おかつ」ではなく、はっきりひらがなで「おいち」とある。

 単なる誤りかとも思ったが、仙波市左衛門の日記の別の部分に、「篤姫」に「アツ」のルビがあった。

 仙波は漢字の読みに無関心ではない人のように感じた。

 いうまでもなく、仙波は島津家の広敷(大奥)役人である。もっとも正確な情報を得られる立場にある。

 正しくは「おいち」ではないか。そういう可能性はないだろうか。

 そのことを、いつもの桐野作人さんにお尋ねをしてみたところ、一笑にふされるかと思っていたら、

「いち」だと思います、というお返事をいただいた。

 というのは、桐野さんも気になったことがあった由。以下の史料の存在を教えていただいた。

 それは斉彬の側用人だった竪山利武の公用控(日記)の一部「島津安芸家大凡」の記載である(『鹿児島県史料 斉彬公史料』4、562ページ)。

 そこに篤姫の実家、今和泉島津家の歴代当主が列挙されている。

 その10代当主忠剛(すなわち篤姫の父)の部分に、子として「嫡女 お市」とあるのである。

 これが篤姫であることはいうまでもない。

 「市」を「かつ」と読むとは考えられない。

 「一」と「市」の共通の読みは、当然「いち」だろう。

 これにより、篤姫の初名「一」の読みは、従来信じられていた「かつ」ではなく、「いち」である可能性がきわめて高くなった。

 歴史上の人物名の読みがいかに根拠希薄かは、最近とみに指摘されている。

 織田信長が「おた・のぶなが」と読まれた可能性があること、豊臣秀吉が「とよとみのひでよし」と読むべきことはけっこう知られてきた。

 坂本龍馬も「りゅうま」ではなく、「りょうま」と読まれていたであろうことは、木戸孝允などが「良馬」と書いてくれているためわかることだ。

 近藤勇を「いさむ」ではなく、「いさみ」と読む根拠はけっこう希薄らしい。

 歴史研究は日々進んでいる。就学児童だったころ学校で習われたことも、誤りとして改めたものも多数ある。

 いつも常識をうたがい暮らしてください。

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