まだ鹿児島に滞在
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12/27(土)はれ
昨日、「御用」おさめだった。
すなわち本日、休み。本当に何もない。実にひさしぶりの休暇だった。
買っていながら読んでいなかった、史料をぼーっとよみつづけた。
たとえば『言経卿記』。
「ヒマ」はいるなあ。貴重な時間だった。
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高知大学の市村高男先生から、以下の高著を恵贈された。
市村高男氏『東国の戦国合戦』(戦争の日本史10、吉川弘文館、2009年1月刊行、2500円+税)
市村高男先生との出会いは、過去に記したことがある(拙著『御土居堀ものがたり』、京都新聞出版センター、2005年10月、289ページ。拙稿「京都の遺跡保存のいま」高知城跡の保存と整備を考える会編『高知城は県民の宝』、2007年6月、39ページ)。
1992年(平成4)3月、御土居堀跡の破壊問題に悩んでいたときに、東国の中世城郭小山城跡の保存に成功された方として知った。
市村先生から都市の城壁を「惣構(そうがまえ)」とよぶと教えていただいた。僕のその後に大きな影響を下さった。
いまも変わらずご教示を賜っている。本書で(自身が)遅れに遅れた惣構(そうがまえ)論のいまを学ばせていただこうと思う。
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12/26(金)はれ
昨日の除幕式、京都新聞、朝日新聞、南日本新聞に掲載されていた。
篤姫ゆかりの地として報じられていた。
で、同じ日、大河ドラマ「篤姫」の総集編第1話が放映された。
篤姫は当初「おかつ」と呼ばれていた。それで、忘れていた。思い出した。大事な発見があったのだった。
「おかつ」は「お一」と書く。
どうして「一」と書いて、「かつ」と読むのだろう。何らかの根拠があるのだろうか。
ためしに昨年から本年にかけて刊行された、信用に足る種々の篤姫伝をめくってみた。
たとえば寺尾美保氏『天璋院篤姫』(高城書房、97ページ)だが、「一子」に「かつ」のルビを打っている。が、根拠は示さ;れていない。
鹿児島県在の歴史研究者による著作だから、何らかの根拠がおありだと思うが、実は疑う余地があることにきづいた。
過日、「篤姫の道中日記」として話題になった、仙波市左衛門日記である。
去る11月15日、神田神保町で実物を閲覧する機会を得た。そこに意外な記載があった。
嘉永6年(1853)3月29日条に、江戸表から同月12日付の至急の飛脚が鹿児島に届き、「篤姫様」を「御前様」の養女とするという記事がある。
その末尾に、
「右ハ今和泉御嫡女様ニ而、おいち様と申」
とあったのである。
「おかつ」ではなく、はっきりひらがなで「おいち」とある。
単なる誤りかとも思ったが、仙波市左衛門の日記の別の部分に、「篤姫」に「アツ」のルビがあった。
仙波は漢字の読みに無関心ではない人のように感じた。
いうまでもなく、仙波は島津家の広敷(大奥)役人である。もっとも正確な情報を得られる立場にある。
正しくは「おいち」ではないか。そういう可能性はないだろうか。
そのことを、いつもの桐野作人さんにお尋ねをしてみたところ、一笑にふされるかと思っていたら、
「いち」だと思います、というお返事をいただいた。
というのは、桐野さんも気になったことがあった由。以下の史料の存在を教えていただいた。
それは斉彬の側用人だった竪山利武の公用控(日記)の一部「島津安芸家大凡」の記載である(『鹿児島県史料 斉彬公史料』4、562ページ)。
そこに篤姫の実家、今和泉島津家の歴代当主が列挙されている。
その10代当主忠剛(すなわち篤姫の父)の部分に、子として「嫡女 お市」とあるのである。
これが篤姫であることはいうまでもない。
「市」を「かつ」と読むとは考えられない。
「一」と「市」の共通の読みは、当然「いち」だろう。
これにより、篤姫の初名「一」の読みは、従来信じられていた「かつ」ではなく、「いち」である可能性がきわめて高くなった。
歴史上の人物名の読みがいかに根拠希薄かは、最近とみに指摘されている。
織田信長が「おた・のぶなが」と読まれた可能性があること、豊臣秀吉が「とよとみのひでよし」と読むべきことはけっこう知られてきた。
坂本龍馬も「りゅうま」ではなく、「りょうま」と読まれていたであろうことは、木戸孝允などが「良馬」と書いてくれているためわかることだ。
近藤勇を「いさむ」ではなく、「いさみ」と読む根拠はけっこう希薄らしい。
歴史研究は日々進んでいる。就学児童だったころ学校で習われたことも、誤りとして改めたものも多数ある。
いつも常識をうたがい暮らしてください。
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はやくも9時すぎに着いたので、僕が1番のりかと思ったら、とんでもない。3理事がすでにおそろい。
くもっているが雨はふっていない。調子良く、開始。
伏見区長が突然おこしくださる。挨拶もしてくださる。感激。
50人ぐらいかなあ、参列者。
京都新聞社、朝日新聞社、区民新聞などの記者が取材にこられていた。
桐野作人さんは、伏見薩摩屋敷についてのミニ講演会をしてくださる。
とても意義ぶかかった。伏見薩摩屋敷について、こんなに詳しい人が話してくださるなんて(もちろん無償)。
ついに悲願はなった。思いがふかい。
終了のころ、小雨がふりだす。
すこし離れた場所で、小宴をもよおす。桐野さん、名古屋へむかわれ、残念ながら不参加(栄中日文化センターに出講)。
僕も12時30分に退出し、京都新聞文化センターへむかう。「篤姫」講座の最終回に出講。感慨ぶかかった。1年間、篤姫講座をしたのは、ここだけであった。
夜、嵯峨野学藝倶楽部を主催する「伝統プロデュース連」の幹部忘年会。場所はいつもの木屋町三条下ル龍馬。
特別ゲストを招いた。上七軒・大文字の勝江さんである。
伝統プロデュース連は、花街文化研究会も運営し、上七軒を研究対象にしてきた。だからほとんどが勝江さんと面識がある。
おそくまで盛り上がる。今年、何回目の忘年会だろう。
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12/24(水)はれ
くずし字入門に出講。本日、本年最後。そんなときに、初参加の方こられる。ありがたし。あいかわらず、伏見土佐屋敷の解体の史料を読んでいる。
伏見区長や、伏見板橋小学校長、伏見中学校長に明日の案内状を届けにいく。伏見区東堺町に史蹟をひとつつくるから。そばの学校に知ってほしかった。区長さんとは面識がある。それゆえ、とくに。
帰宅。また寄贈あり。
高木博志さん「『史蹟名勝天然紀念物』昭和編・解題」(『史蹟名勝天然紀念物』昭和編・解題・総目次・索引、不二出版、2008年11月)
拙著の紹介があった(24ページ)。ありがとうございます。心より喜んでおります。
藤田英昭さんから。『京都所司代/松平定敬』特別展図録、桑名市博物館、2008年10月
新出の「文久日記」の解題や、「桑名藩/森弥一左衞門見聞雑記」などの釈文全文が載っている。ありがたし。恵贈をお約束くださっていた。楽しみにしていた。感謝申し上げます。
拙著のお礼に多くの方が貴重なものを送ってくださった。が、あまり掲示できていない。失礼をしております。
歴史作家、桐野作人さん、上洛。明日の除幕式に列席くださるため。ありがたし。夜、いつもの木屋町三条下ルの龍馬でお目にかかる。
まったく存じ上げなかった、過去の偉業を拝聴する。
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去る12月21日の読売新聞朝刊の社会面に、載りました。どうやら全国版らしい(京都地方版ではなくて)。さすが、篤姫効果。
嘉永6年(1853)年秋、篤姫が洛中洛外に滞在したおりの宿泊地で、慶応2年(1866)1月の坂本龍馬寺田屋遭難の際の避難地としてしられる、伏見薩摩屋敷跡への建碑が実現しました。
感動しております。
25日に除幕式があります。たいへんな人になると見込まれますので、できればお越しになるのはご遠慮ください。
といいつつ。
除幕式のご案内
日 時: 2008年12月25日(木)午前10時
場 所: 京都市伏見区東堺町472番地 松山酒造 入り口(東側)
行き方: 京阪電車・近鉄電車「丹波橋」駅を下車。西へ徒歩10分
主 催: 特定非営利活動法人京都歴史地理同考会(理事長中村武生)
【碑銘】
(表)江戸時代 薩摩島津伏見屋敷跡
(左)天璋院篤姫 洛中洛外滞在時の宿泊地
(右)坂本龍馬 寺田屋脱出後 避難之地
(裏)二〇〇八年一二月
特定非営利活動法人京都歴史地理同考会建之
寄付者河畑鎭
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12/14(日)はれ
NPO法人山科醍醐こどものひろば(朱まり子理事長)に参加。いつものように小学生に歴史ばなしをする(未就学児童もすこしいる)。
本日は「討ち入りの日」。山科では毎年恒例、義士まつりがある。「47士」のパレードがある。日曜日にあたることは珍しい。だからぜひ、と今年は「こどものひろば」で見に行くことになった。
写真は毘沙門堂から降りてこられたところ。
小学生に赤穂浪士の意義を伝えなければならない、困ることだらけ。いわば殺人事件である。それを評価しなければならない。
300年前のヒーローである、「夢をかなえた人たち」だった、だからウケタのです、とのべた。わかります、わかります、批判はおありと存じます。
岩屋寺では、近世の大石邸跡碑の前で、「拾遺都名所図会」を広げ、250年前の観光地として紹介。和本の「原本」を持って行った。インパクトを与えるため。
ほかにもいろいろしてみた。何か残ってくれだろうか。いつもながら反省しきり。
各地で知人に会った。毘沙門堂で基礎歴史のM宮さん、E原さん、
瑞光院で名古屋・朝日カルチャーセンターで受講されていたという方(つまり名古屋からおみえ)、
解散地のマツヤスーパー前では、なんといつものA尾さんとOりょうさんに。昨日も会ったはずだが。いやおとといも。
夜、「篤姫」最終回をみる。また突っ込みどころ、満載。
が、さみしい思い。どれだけ各地で「篤姫」のはなしをしたか。感謝でいっぱいである。いや、まだ終わらない。12月25日(木)がある。建碑除幕式である。みなさん、きてね。
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12/10(水)
日外アソシエーツという会社のYさんからメールがきた。同社はさまざまな人名辞典をつくっておられる。
近現代の無名人物を捜索するとき、これまでどれほど世話になったかわからない。
その社の方からの突然のメール。
当然、あたらしい人名辞典の一項目への執筆依頼か、僕が発掘した無名人物についての掲載許可願いかと思った。
が、そうではなく、
「歴史地理研究者 中村武生」の項目をたてたいとおっしゃる。
これは驚いた。
僕が人名辞典に載るということである。
えーっ。
が、名誉なことなので、甘えることにした。
掲載にお金はかからないという当たり前のことが付記されてあった。
そうか、某人名録は掲載にお金がいると聞いたことがある。そういうたぐいではないといっておられるのだろう。
なんだか気恥かしいが、まあ、そういうことだ。
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聞いたはなし。
京都市内の某図書館で、拙著『京都の江戸時代をあるく―秀吉の城から龍馬の寺田屋伝説まで』(文理閣)の貸出を求めると、5人待ちだったそうだ。
ありがたいなあ。
1冊、寄贈しようかと思ったものだ。しなかったけど。
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12/1(月)はれ
12月に入った。いやだ。まだ今年を終えたくない。
大谷大学に出講。また伏見城下町のはなし。伏見を愛してやまない。
いそいで帰って、K談社のメルマガの原稿にむかう。が、夜の仕事の時間がきてしまった。とどめがさせなかった。
JR東海のみなさんに京都の歴史ばなしをする「きなこの会」に出講。京都検定がちかいので、京都検定クイズを出しまくる。きっと1問以上出ると思われる。
今年は「オバマ」の年だから、若狭小浜(おばま)屋敷に住んでいた将軍は誰だ、なんて問題が出るぞとか、かなりおかしなこともいう。
おそい時間になったので、寄り道せずに帰宅。朝、カレーがつくってあることにきづいたので、出掛けに米をすこし多めに炊いておいた。
帰ってから温めていて驚いた。カレーじゃなくてビーフシチューだった。こんなに米いらんやん。
明日は焼き飯でもしないと、米が減らない。
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月末・月始は忙しくていかん。締め切りが多く、気がせいてしまう。これが更新滞りの原因です。
11/30(日)はれ
嵯峨野学芸倶楽部に出講。参加者は少ないのだが、いつもながら熱心な受講生に支えられている。
三宅碑の5回目。今回は嵯峨野や石川丈山らの三宅碑の意味を述べる。
忘れられた近代京都の文化人、小西大東のはなしをした。
小西大東を「発見」したのは、京都府立総合資料館の松田万智子さんである。松田さんには毎度お世話になっている。松田さんと知り合いでなければ、僕のここまでの学術成果はもっとうすいものになったはずだ。
その松田さんとの出会いも小西大東だった。小西が三宅清治郎と親しいことをしった松田さんが、三宅碑研究を進めていた僕に封書をくださったからだ。縁深いことである。
人の縁はどこからはじまるか、何に展開するかわからない。すばらしいことだし、おそろしいことでもある。
参加者のT田さんが僕の未発見の三宅碑を見つけ出そうと、熱中しておられる。いつも見つけてこられては、「それはすでに知っています」と僕はいってしまう。
そうなると、いったい中村武生は何を見つけているのか、知りたいはずだ。ウソをいっているかもしれない。
で、来年上半期には、三宅碑成果は一度まとめあげてしまおうと決意した。池田屋本も龍馬本もあるのだが、2001年からひきづっている三宅碑も、いいかげん手をはなさないといけない。実はこれも出版計画がある。が、N社長にまってもらっている現状だ。
夜は某原稿しめきりに立ち向かう。つかれはてるまで進めるが、とどめをさせず。
心の健康をとりもどそうと、いつもの木屋町三条下ル都会館1階の「龍馬」に立ち寄る。O社長がおられて歓談。
しばらくするとマスコットガールが彼氏をつれて訪問。予期せず好男子なり。
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