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2008.11.28

龍馬の寺田屋脱出のあとを追跡した

Dcf_1469 11/27(木)はれ夜雨

 めっちゃめずらしく、出かける仕事がない日。

 なのに、一昨日だったか、空いていることがばれて伏見案内を頼まれた。

 午前中、洗濯して干す。最近、人任せになっていたから、反省して、した。

 そのあと理髪に。9月6日以来のこと。二か月以上ぶり。三宅清治郎には全然勝てない。

 午後から京都龍馬会のA尾さんとOりょうさんの依頼で伏見の幕末案内をいたす。

 御香宮神社に移築された、伏見街道に建っていた弘化4年(1847)丁未の道標を見にいったら、車石が個人から寄贈を受けて、新設されていた(写真)。おどろいた。

 みたら先月のことだった。車石の啓発団体のお仕事。すばらしい。どんどん啓発してください。お願いします。

 寺田屋跡で、三吉慎蔵の手記の寺田屋遭難部分を朗読する。龍馬の当該内容の手紙もいっしょに読んで、寺田屋脱出コースを検討する。

 3人寄れば文殊の知恵で、けっこう多く歩んだコースなのに、これまで気づけなかったことに気づけた。

 材木納屋伝承地で濠川におりて、血のついた着物がないので汚れた靴を洗ったり、草履をさがしたりした。

 まじめに三吉の逃亡ルートを検討して、伏見薩摩屋敷跡に到達。ここにたつと感慨ぶかいなあ。最近、来すぎている。こないだは篤姫のルートをと東福寺即宗院から歩いた。

 A尾さんとOりょうさんと丹波橋で別れ、帰る。

 夜、なべもの。しぬほど食べた。りんごも出てまた食べた。皮まで食べた。

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2008.11.27

方広寺で登山し松山屋敷の解体を読んで新碑銘文に悩んだ

11/26(水)はれ

 京都女子大学に出講。今日は巡検。大学周辺の「明治天皇聖蹟標石」をみてあるく。

 「明治天皇聖蹟」問題は、文化財と政治を考える上で大変興味深い。

 あいかわらず大仏地区のことなので、毎年恒例化している方広寺石塁北辺の遺構をあるく。ミニ登山である。住民は嫌がるが、公有地だろうし、許してください。教育のためなのです。

 午後から「くずし字入門」。あいかわらず京都の大名屋敷の解体を追いかけている。

 今回から西堀川御池下ルの備中松山屋敷。敷地は町人が使用したいと希望し、大名屋敷にあった稲荷社を三町に払い下げてほしいといっている。

 大名屋敷にあった稲荷社が、その後どうなったのかを知る好史料だと思う。今後もいろいろ使うと思う。

 ちょっとお茶をして、某所aにこもる。3時間かけて、来月下旬に建設予定の伏見区某所bの碑銘を検討する。完成した。

 夜は東京のある方と懇親予定だったが、体調を崩された由、御目にかかれなかった。碑銘を読んでいただきたかったのだが。残念。

 それはともかく、こちらは予定どおりいつもの「龍馬」で、マスコットガールを横においてすき焼きをいただいた。

 銘文をみていただきたかったので、総務部長のKさんも急きょ来られて、検討してもらう。建碑の除幕式は12月25日(木)の予定です。

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2008.11.26

秀吉の中国大返しと禁門の変を考えた

11/25(火)はれ

  基礎からまなぶ日本歴史に出講。

 やっと本能寺の変が終わって、中国大返し。

 どうして秀吉が信長の死を知ったか。光秀の毛利への使者がまちがって秀吉の陣に入ったから、ってとても有名なはなしなのに、信用できる史料にまったくないからフィクションです、といった。えらい受けた。

 終わってから、読売大阪文化センターの方と会う。四月から幕末講座をするのだそうだ(他人事みたい)。

 禁門の変の人物群像。久坂義助とか、真木和泉とか、西郷隆盛、松平容保、一橋慶喜、若山要助をとりあげるんだって。

 ちょっと「龍馬」によって帰宅。

 伏見区の某所に建碑予定。その解説文を明日までに書かなきゃ。

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2008.11.25

祝日なのに大学に出講する

11/23(祝・月)午後あめ 

 祝日である。 

 が、大谷大学の講義があった。

 文部科学省の意向で、祝日であれ、決められた講義数をこなすため、出講なのだそうだ。 何のための祝日だ。おかしいと思わんか。世の中には祝祭日だから、と行われる行事がある。それに参加できない。やっぱりおかしい。

 足りない講義分は、学期末の集中講義で補てんすべきだろう。それがいい。そうしよう。

 出席をとらんのに、こういう日に来る学生がいる。9時からの講義だぞ。おどろいてしまう(来るな、といっているわけではない。いろんな意味で感心しているのだ。誤解のないように)。   

 午後、某所の締切ぎりぎりの原稿にたちむかう。

 ばかなことだが、松原通の東つきあたりに清水寺があることにきづいた。

 今さらなのだろうが、おどろいた。本当におどろいた。すごいことだ。

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2008.11.24

【巡検】龍馬の刺客の帰り道を体感する

 めずらしい夜の巡検をいたします。ふるってご参加ください。

第17回「中村武生の寺子屋・龍馬」

【巡検】龍馬の斬られた同じ日の同じ時間に、刺客の帰り道を体感する―佐々木只三郎の撤退ルート

 出典:龍馬の刺客のひとり、渡辺篤の回想記録「渡辺家由緒暦代系図履歴書」(宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』4訂、910ページ、光風社出版、1988年)

 コース:近江屋跡(中京区河原町通蛸薬師下ル)→河原町通四条→千本通四条→千本通下立売→智恵光院通下立売上ル <健脚向き> 現地解散

講師:中村 武生
(歴史地理研究者、同志社大学嘱託講師)

実施日:2008年(平成20)12月10日(水)(龍馬の殺された慶応3年11月15日は、1867年12月10日にあたる)
集合時間:午後8時(午後10時ごろ終了予定。現地解散)

集合場所: 「龍馬」(京都龍馬会本部)・・・京都市中京区木屋町三条下ル材木町184都会館1階  TEL/FAX 075-211-3666
参加費 1,000円 ※限定20名(予約制。当日のキャンセルは、キャンセル料として参加費を実費頂戴します)

主催:京都龍馬会(所在地、上記)

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2008.11.22

松浦玲氏『坂本龍馬』に接して

 松浦玲さん『坂本龍馬』(岩波新書)が刊行された。

 松浦玲さんのお仕事は定評がある。もう今年77歳になられるが、なんという仕事ぶり。2003年の『新選組』(岩波新書)には舌を巻いた。新選組が学問の対象となることを明示した、劇的な書籍だった。

 龍馬論もすばらしい仕事がある。『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)だ。どれだけ学んだかしれない。

 今回は他人事ではない。僕も来年龍馬論を世に送らねばならない。松浦さん初の龍馬伝にさらにまなび、すこしはましなものを作りたい。

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2008.11.19

篤姫の道中日記ではなかった

 「篤姫の道中日記」を見ての感想。

  ようやく述べる気になった。

 

 実は「篤姫のみた洛中洛外」の記事はなかった。

 いやそれどころか、そもそも「篤姫の道中日記」ではなかった。

 「嘉永六癸丑年正月 浦乃藻屑」という簿冊が該当史料だが、たとえば篤姫が近衛家に参殿した同年(1853)10月2日条、東福寺に参詣したとされる10月4日条、宇治萬福寺に参詣した10月5日条、いずれもそれぞれの場所の記載がなかった。

  で、8月21日条をみた。この日、篤姫は鹿児島を出発する。

 すると、この日の記事、なんと記主仙波市左衛門は鹿児島で篤姫を見送っていた。

 そう、つまり仙波は篤姫に同行していない。

「篤姫の道中日記」ではなかった、というわけである。

 これを報じたある新聞夕刊を読み直す(本年9月27日付)。

 「篤姫が徳川十三代将軍家定の正室となるために薩摩から江戸に向かった道中や、薩摩藩の姫たちの動静を詳細に記述した藩士の日記」。

 「薩摩と江戸との間の道中日記には、篤姫が、生家の今和泉家から薩摩鶴丸城に入り、江戸に出立した時期や様子、神社など立ち寄り先、日々の天気まで詳細に記されていた」。

 たしかに書いてある。報道が誤っていたのである。ショックであった。

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2008.11.17

「幾松」の評価を再検討すべきと知る

11/16(日)

 京都龍馬会の創立15周年紀念イベントが京都ホテルオークラで行われた。晴れがましいことに、紀念講演をいたした。

 龍馬殺害論について。薩摩黒幕説がなりがたいことを申し上げる。時間オーバーしたが、誰も文句いわず聴いてくださる。

 それを記した拙著『京都の江戸時代をあるく』を文理閣の山田ちさ子さんが売りに来てくださった。20冊も売れた由、ありがとうこざいます。のぞまれてサインもたくさんした。

 終了後はパーティ。楽しかった。

 講演前、理事長赤尾博章さんのご紹介で、中京区木屋町御池上ルの「幾松」の若女将と専務からご挨拶をいただいた。分厚いお手紙も頂戴した。

 パーティ終了後、そのお手紙を拝見した。

 ながく僕はブログなどで、「幾松」の入り口に建てられた「桂小五郎幾松寓居趾」標石に史料根拠はない、幕末に桂小五郎や幾松が「幾松」の敷地や建物に居住した可能性はかなり低いと述べてきた。それに対する批判であった。

 週刊ポストの本年10月10号などで「幾松」は、「観光偽装」と断じられている。「幾松」はそれに具体的反論をしなかった。

 が、それに対して今回僕には批判をなさった。しかし驚いたことに、僕を信用してくださるようで、「幾松」側が収集した、正当性を示す資料をみせたい、その上で研究者として適切に判断せよという申し出だった。 

 その姿勢は驚くほどまっすぐで感銘を受けた。近年、こんなに真正面から、礼を失することなく抗議を受けた記憶がない。

 さっそく折り返しご連絡し、すぐにお目にかかることにした。

 赤尾理事長も同席されて、2時間ほど、「幾松」で若女将や専務のお話をうかがった。多数の調査資料も拝見した。週刊ポストの記事以後、若女将の義妹さんなども協力されての成果という。

 結論を申し上げると、調査成果は妥当と判断した。すなわち、「幾松」は「観光偽装」とはいいがたいということである。

 基本的な意見はかえるつもりはない。「桂小五郎幾松寓居趾」の可能性は低いといまも思っている。

 が、見落としがあった。桂小五郎が木戸孝允になったのち、すなわち明治以後はどうかという意識が欠落していた。

 開き直るつもりはない。これは恥ずかしいことだと思う。

 維新後、「桂小五郎幾松」が「木戸孝允と松子夫妻」になったのちの居住地だった可能性が高いと思えた。

 木戸孝允が竹屋町土手町の住居で亡くなったことは有名である。それに目をうばわれて、その他の住居のある可能性を想定していなかった。

 孝允の没後、木戸松子のついのすみか、すなわち終焉地がここである可能性がある。

 ちかい将来、どういう形になるかわからないが、その根拠は必ず公表したいと思う。若女将が資料提供を約束してくれている。

 くどいが、幕末に桂小五郎と幾松の住居だったことは今でも否定的である。だからよく紹介される、この場所でここの長持ちに桂小五郎が入り、幾松の機転で近藤勇の追捕から免れたというエピソードは信じていない。

 が、それを「観光偽装」というのはあたらないだろう。

 維新後の木戸孝允や妻松子の住居であったなら、ここまでの件は「誤解」の範囲として許されていいはずだ。

 明治以後の「事実」が、いつの頃か幕末期のはなしに転じ(これは「幾松」開業以前であることは確実)、それを信じた「幾松」が御客にわかりやすく伝えたいというリップサービスから、誤って事実でない可能性の高いことを述べてきたと理解している。

 少なくとも営利のため、まったくなかった話を「幾松」が創出したというのは事実無根だということははっきり申し上げておきたい。

 寺田屋や幾松を攻撃対象にしている個人などがあるようだが、どのような立場で発言しておられるのだろうか。

 世の中には、研究者が学術行為によって否定したにもかかわらず、いまだ「古くからの伝承ですから」といい、事実ではない由緒を語りつづけている寺社・旧蹟がそこらじゅうにある。

 たとえば二条城。徳川家康が征夷大将軍に宣下された場所と書かれた解説板がある。とんでもない。伏見城である。

 この誤解は、江戸初期の政治史における「首都」の重要性にかかわるので無視できない。

 高台寺もそうだ。北政所(高台院)のついのつみかということになっているが、おそらくちがう。現在の仙洞御所の地の邸宅の可能性が高い。

 北政所(高台院)の当時の政治的、地理的な位置をしることは、江戸初期の豊臣・徳川の政治史を考えるうえで重要である。

 2006年のNHK大河ドラマ「功名が辻」の主人公、山内一豊の妻見性院(ドラマでは千代)が、夫の死後、一周忌をまたず、わずか数カ月で高知を出て、上洛し、「桑原町」の屋敷に入った。

 なぜか、それは「桑原町」屋敷の位置をしればわかる。柳馬場丸太町である。

 北政所邸の至近なのだ。江戸初期、豊臣家の京都の拠点のそばで、政治的情報をキャッチしようとしたにちがいない。

 高台寺に住んでいたと思っていては、この大事なことに気づかずにいてしまう。それゆえ研究対象の地理的位置の解明はとても大事なことなのだ。

(拙著『京都の江戸時代をあるく―秀吉の城から龍馬の寺田屋伝説まで』文理閣、200810)

 だから二条城や高台寺が語る由緒を問題視している。

 寺田屋や幾松への批判が私的な怨恨によってなされてはならない。配慮はあるべきだが、学術行為だからこそ許される部分があると思っている。

 そうでなければ、生活権の侵害となるおそれがある。営業妨害や地域いじめの問題である。

 寺田屋や幾松への批判を「正義」だとされるなら、有力な寺社・旧蹟の由緒の誤解は見落としてはならないことになる。

 だからといってそれをすべきだとはいわない。

 かりにされるにしても、その場合も学術行為でなくてはならない。

 なんのために批判するのか、どういう研究目的なのかを明確にしない者は語る資格はない、とさえいえるだろう。

 そうでないと、ただのいじめ、暴力でしかない。心してほしい。

 もちろん「桂小五郎幾松寓居趾」標石の処置も含めて、今後の案内の仕方には、改めるべきところがあるとは思う。

 僕は、「石碑の与えた影響そのものが文化」だという立場であるので、その撤去はのぞみたくない。

 その意味では、「桂小五郎幾松寓居趾」標石は、単体ですでに広義の「文化財」だとさえいえる。

 その位置に置いたまま、そばに「木戸孝允・松子夫妻居所参考地」というような新碑をたて、経緯を記した解説板をおく、というのが理想的だろう。

 若女将と専務に、「幾松」へのこれまでの失礼を謝し、実証的な「幾松」の顕彰にご協力することを申し上げて辞去した。こちらの反省点は多いが、すがすがしい気持ちがつよかった。

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2008.11.16

「篤姫の道中日記」をみてきた

11/15(土)はれ

 神田神保町に行ってきた。「篤姫の道中日記」をみてきた。篤姫がみた洛中洛外とはどこだったのか、それを知りたくて、そのためだけに東京へ行ってきた。

 その感想、結果は。

 いまはいえません。

 知りたい方は中村武生の、いろんなイベントに来てください。そこで申し上げます。言わなければ聞いてください。答えます。

 京都に帰ってきて、京都龍馬会のイベントに参加した。そこでさっそく申し上げた。つよい反応があった。そうでしょ。僕も驚いたもの。

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2008.11.13

ふたつの大仏跡をあるいて龍馬本を話し合う

11/12(水)はれ

 京都女子大学に出講。ひそしぶりに巡検。ふたつの大仏殿跡にたつ。大きなミスがあったのだが、許してください。

 午後からキャンパスプラザ京都で、くずし字入門に出講。伊勢亀山屋敷の解体史料、もうすぐ終わる。あいかわらず受講者の独学がすごい。跡地の変遷について、いろんなところから刊本やら原史料やらさがしてこられる。しらんこと、たくさん教えていただいている。

 ついで2時すぎ、京都おこしやす大学の打ち合わせ。また冬や春、たくさん行事がある。篤姫やら新選組やら、直江兼続やら。お楽しみに。

 京都駅で考えごとをしていたら、テレビ東京系「日本ミステリー」から出演依頼の電話あり。信長に関してだったが、お断りした。

 午後4時すぎ、S社のU田さん上洛。来年秋刊行予定の「龍馬」本の打ち合わせにこられる。細かな計画がたてられた。懸案の「池田屋」につづいてだから、来年は大変だわ。

 夕食のあと、いつもの木屋町三条下ルの「龍馬」へお連れする。すでに京都龍馬会の幹部のみなさんがおられる。きたる11月16日(日)の15周年紀念講演の打ち合わせ中。お世話をおかけします。

 「龍馬殺害論」をおはなしします。どなたもおこしください。会場は河原町御池の京都ホテルオークラです。

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2008.11.11

明治維新史学会に行っていました

11/8(土)萩市はれ

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  朝8時30分新山口駅前発のバスで萩市にむかう。1時間半、山越え。途中、大田(おおだ)、絵堂、長登、明木など魅力的な場所を素通りして、萩市街へつく。

 10時すぎに会場の山口福祉文化大学についたが、関係者誰もおらず。10時30分にK本覚さんがこられたが、ほかには誰もこず。委員は10時30分集合と聞いていたが、あとから聞いたところ、11時に東萩駅出発に変更された由。なぜか連絡が届かなかった。が、それはそれで楽しかった。

(写真は会場入り口。人物は若い研究者友人、吉岡拓氏)

 午後から、井上勝生先生の紀念講演、田口由香さん、上田純子さんの報告をうかがい、夕方6時半発のバスで東萩駅をたつ。大急ぎで帰途につく。友人C野F哉氏お見送りくださる。

 明日も学会あるが、明日午前中、伏見区醍醐で講演があるので1日で辞去。せっかくの萩。残念。

 帰宅は午後11時ごろ。萩は遠いようで、近かった。

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2008.11.10

萩での明治維新史学会に参加するため苦労する

11/7(金)はれ

  明11/8(土)から、山口県萩市・山口福祉文化大学で明治維新史学会がある。それに参加するため、本日は強行だった。

 午前9時から、同志社大学(京都市上京区)。戦国期上京をあるくという巡検の最終回だった。雨天のせいか、参加者少なし。が、雨はまったく降らず。ありがたし。

 午後2時45分から天理大学(奈良県天理市)。こちらは大和天誅組のルートを地図上で追う講義。

 午後6時15分からは、京都新聞文化センター(京都市上京区)。こちらは「京都の世界遺産」。17の文化遺産のみどころ紹介なのだが、半分もできなかった。

 そのまま京都駅(京都市下京区)に出る。

 午後8時半発の新幹線で、新山口駅(旧小郡駅)へ。約2時間で到着。ここからバスで山越えして萩へ入りたいのだが、1時間半もかかる上、もうパスがない。

 で、あきらめて新山口駅前に宿泊。たいへんな日だった。

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2008.11.07

特定非営利活動法人の認可がおりた

 特定非営利活動法人(NPO法人)の申請を出していた、京都歴史地理同考会。

 本日、京都府の認可がおりた。

 おおー。よりによって、私的な10周年紀年の日に。一生忘れられなくなったぞ。

 これから積極的に活動ができる。

 まずはなんだ。建碑か、雑誌創刊か。

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拙著を井上章一さんが評論くださり感激

 一昨日の11月5日(水)、『日本経済新聞』夕刊の「エンジョイ読書」欄、「目利きが選ぶ今週の3冊」に、拙著『京都の江戸時代をあるく―秀吉の城から龍馬の寺田屋伝説まで』(文理閣、2008年10月刊行)が選ばれた。

 今朝、同志社大学で郡邦辰さんから教えていただいた。

 しかも評者が井上章一さん(風俗史家)と聞き、感激した。すぐさま、図書館で読んだ。なんと星四つ(「読みごたえたっぷり、お薦め」)を頂戴していた。

 以前、数度、近代京都研究会でご一緒したことがある。いつも予期せぬ視点でさまざまモノにアプローチされる方で、実に学ぶことが多い。大ファンである。ありがとうございました。

 本日は、『読売新聞』京都版朝刊(29面)に、大きく紹介記事が出た(おなじみ田岡記者担当)。「「寺田屋」真相に迫る・京の幕末、綿密調査」。しかも写真入り。今度はマシな写真。

 別のページに、昨日発表された、2010年の大河ドラマ「龍馬伝」の主役が福山雅治さんに決まったという記事が載っている。タイムリーだ。

 本日は私的な10周年紀念日でもある。よい日にいろいろいただいた。みなさまに感謝いたします。

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2008.11.06

拙著が日本図書館協会の選定図書になりました

 拙著『京都の江戸時代をあるく―秀吉の城から龍馬の寺田屋伝説まで』(文理閣、2008年10月刊行)が、このたび日本図書館協会の選定図書に選ばれました。

 名誉なことと思います。

 日本図書館協会選定図書とは、公共図書館が所蔵するに適している本ということです。年間 6 万点以上の新刊本のなかから平均 16 パーセントの書籍が選ばれているそうです。

 履歴書の「賞罰」項に、未だ「無し」と書く僕ですので、初の栄冠みたいなところがあります。すなおに喜びます。

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誤りだらけの龍馬番組、日本史サスペンス劇場

11月5日(水)はれ

 日本テレビ系「日本史サスペンス劇場」をみた。坂本龍馬と「三人の妻・恋人」を取り上げたものだった。

 とにかくひどい番組だった。社会への影響を考えたとき、学術・教育上、犯罪ではないかとさえ思った。

 井桜直美さん所蔵のお龍写真の取扱には立腹した。お龍が晩年まで写真を撮らなかったと本人がいっている、とタレントがいっていた。

 では見せてもらおう。なんという記録にそれが載っているか。そんな事実はない。

 それにもかかわらず、科学警察研究所の成果は紹介した。前半と後半が矛盾するではないか。矛盾しないというなら、科学警察研究所の成果は文献を無視した誤りだといっていることになる。

 これについて歴史家はどう評価するのだともっていき、番組にご出演の研究者にコメントをもとめたが、その方は高名な方なれど古代史の研究者である。お尋ねする相手がちがうだろう。

 拙著『京都の江戸時代をあるく』(文理閣、2008年10月)に詳細に同写真の真偽をめぐる研究史をまとめておいた。真偽についてもはっきり肯定しておいた。どうかご覧ください。

 検証した結果、「こうだ」みたいな番組づくりは、無批判に事実を羅列する番組より悪質である。最近の成果紹介のふりをして、実はけっこう古いネタを視聴者に提供している。

 「食品偽装」が問題となり、ついで最近は寺田屋問題に端を発し、「観光偽装」まで取りざたされる。が、結局は、消費者・観光客がだまされないようにかしこくならないと被害はいくらでもおこる。

 テレビ番組もそうだ。視聴者がかしこくならないといけない。どうか内容を問う姿勢をもち、内容に問題があるものをつくり公開する番組は見ないようにしてもらいたい。

 視聴率がかせげないなら、本気で番組づくりもするだろう。予算や時間もたっぷりつかわないと歴史番組はつくれないという風潮にかわるかも知れない。

 約10年前、同時にNHKと民放の歴史番組制作にかかわったことがある。民放が1番組をつくるのに約10日ほどかけるのに対し、NHKは数か月もかけていた。予算はなんと10倍もちがった。これは話にならないと思ったものだった。

 とにかくひどかった。大河ドラマが事実に即して描かれないとか、「そのとき歴史がうごいた」のつくり方があらいとか、そんなレベルではない。

 寺田屋の龍馬遭難を、お龍は伏見薩摩屋敷へ通報した。そこまではいい。問題はお龍到着の直後に三吉慎蔵が到着したことだ(三吉は「長州藩士」ではない。長府毛利家の家臣である。いわば「長府藩士」だ)。

 龍馬はお龍をなぜ命の恩人だとしたか。 

(「今年正月廿三日夜のなんにあいし時も、此龍女がおれバこそ、龍馬の命ハたすかりたり」・・慶応2年(1866)12月4日付乙女宛龍馬書翰)

 裸(もしくは下着)のままの注進をしてくれたからではなかろう。

 お龍の通報以前に、龍馬は外の異変に気づいていた。

「最早寝んと致し候処に、ふしぎなる哉(原文割注:此時二階居申候)人の足音のしのびしのびに二階下をあるくと思ひしに、六尺棒の音からからと聞ゆ、おり柄兼而お聞に入し婦人(原文注:名ハ龍今妻也)、勝手より馳セ来リ云様、御用心被成べし不謀敵のおそひ来りしなり。鎗持たる人数ハ梯の段を登りしなりと」(慶応2年(1866)12月4日付御一同様(兄など)宛龍馬書翰)

 彼女の通報により薩摩側が龍馬救出の準備ができたからと思われる

(「此夜、彼龍女も同時に戦場を引取り、直様(すぐさま)(薩摩)屋敷に此よしを告げしめ」(同上)。

 お龍の通報により薩摩屋敷は事件を知る。が、龍馬の所在地がわからない。だから準備をして、逃げてきたらすぐ対処できるようにしていたと思われる。

 そこへ三吉があらわれて、薩摩屋敷の人間を龍馬の所在地に案内した。だからすぐに動けたし、正しくその位置にたどりつけたと思われる。

(「つひに三吉ハ先ヅ(薩摩)屋敷に行べしとて立出しが、屋敷の人と共にむかひに参り、私も帰りたり」(同上))。

 お龍と三吉の到着が同時ならそれができないだろう。薩摩屋敷に事件を理解させ、救出の準備をさせるのに5分や10分でできるとはとても思えない。夜中だし、大名屋敷はひとつの役所である。

 その間に、龍馬は隠れていた「材木納屋」で、寒さの中、凍死していたかも知れない。

 ちなみに晩年のお龍がその経緯を回想している。事実に近いと思われる。

「漸(や)ッとの事で薩摩屋敷へ着き、大山(彦八)さんに逢って、龍馬等は来ませんかと云ふと、イヤまだ来ないが、其の風体は全体どうしたものだと云ふ。私は気が気でなく、龍馬が来ねば大変ですと引き返さうとすると、まァ事情を云って見よと抱き留めるので、斯様々々と話しますと吃驚し、探しに行かうと云ってる処へ、三好(三吉)さんがブルブル震へ(も)どって来て、板屋の中で一夜明したが、敵が路を塞で居って二人一処には落られぬから、私一人来ましたと云ふ。それを聞ひて安心と、早速、大山、吉井の二人が小舟に薩摩の旗を樹てゝ迎へに行って呉れました」(「千里駒後日譚」第2回、1899年(明治32)11月5日)。

 ところで番組内で、ずっと「おりょう」と呼ばれていた。が、それもちがう。

 寺田屋遭難の慶応二年のある時期以後、龍馬は彼女を「鞆(とも)」と改名させている。

(「父母の付たる名龍、私が又鞆トあらたむ」・・慶応2年(1866)12月4日付乙女宛龍馬書翰)

 慶応3年(1867)5月28日付、「鞆殿」宛の龍馬書翰も現存する(井口家文書)。

 龍馬の死後は、西村松兵衛と再婚し、さらに「ツル」と名乗った。戸籍も「西村ツル」である。

 再婚相手、西村松兵衛にさえ「おりょう」と呼ばせていたのには閉口した。

 とにかく放映中、ずっと「それはちがう」ばかりだった。つっこみし放題の番組だった。いっしょにみていた人はさぞうるさかったことだろう。

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2008.11.03

刺客はなぜ龍馬の居所を知れたか

11/2(日)つづき

 夜、「篤姫」をみる。失笑するシーン多数。詳しくは桐野作人さんのブログをご覧ください。中村武生はまったく同じ立場です。

 龍馬殺害の場面。刺客にピストルをはじかれるシーンは、三谷幸喜氏脚本の大河「新選組!」の模倣ではないか。

 「寺田屋事件」でも過去の大河「翔ぶが如く」と近似のシーンがあった。創作品として、なさけなく感じた。

 刺客は単身まっしぐらに龍馬のいる部屋に踏み込んでいった。どうしてその場所に龍馬らがいることがわかったのだ。ありえないだろう。

 玄関で龍馬の家臣藤吉に名刺(「名札」)を渡し、それを龍馬のもとへ持ってゆく藤吉の後を追ったのだ。だから龍馬の居所がわかったのだ。

 事件直後に報を受けた土佐山内家重臣寺村左膳の日記に、

(刺客は)「才谷(龍馬)ニ対面致度(いたしたし)とて名札差出候ニ付、下男之者(藤吉)受取、二階へ上り候処、右之三人あとより付したひ、二階へ上り、矢庭に抜刀ニ而才谷、石川(中岡慎太郎)両人へ切かけ候」

とある(横田達雄編『寺村左膳道成日記』3、50ページ。高知県立青山文庫後援会、1980年)。

 この史料は立場上、当該事件の過程についてもっとも信用できるもののひとつである。

 興味深いことに、翌日、山内家重臣福岡藤次から事件を聞いた越前松平家の重臣中根雪江の日記にも同様の記載がある。

 「夜中一人あって手紙を持来り、僕(藤吉)を呼出し、届呉候様申に付、僕二階へ上候後より、両人之刺客附上り、直様龍馬眉間へ切込候由」

(「丁卯日記」国書刊行会編『史籍雑纂』第4、227ページ、続群書類従完成会、1974年)。

 今回のドラマはナンセンスだが、龍馬殺害事件は、これら事件直後の身近な人間の記録によって論じなければならない。

 そばで見聞きしたとはいえ、田中光顕や谷干城の後世の回想録や、歴史家岩崎鏡川「坂本と中岡の死」などの研究成果は参考程度にとどめないとだめだ。うそが入る。

 藤吉の斬られる音を聞いて龍馬は「ほたえなっ!」と叫んだ、その声により刺客は龍馬の所在地を知ったという話も有名だが、おそらくフィクションだろう。

 刺客は藤吉の後を追い、彼が入った部屋を龍馬の居所と理解して侵入し、斬りつけたというのが素直な解釈といえる。

 ドラマでは刺客はまっしぐらに部屋に侵入した。部屋にも藤吉らしき人物はまったくいなかった。残念だった。

 いま近江龍馬会では、藤吉誕生伝承地の標石を滋賀県大津市に建設しようと努力しておられる。これが実現すると、龍馬遭難事件を描くおりにも、藤吉を無視しなくなるかもしれない。実現を期待している。

 なお細かな龍馬殺害事件については、龍馬研究会の機関誌『龍馬研究』所収「龍馬十景」に連載中です。

 また来年秋に出す予定の新潮新書の拙著『龍馬』に詳しく論じたいとも思っています。

 予定にすぎないが。

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篤姫を東福寺即宗院で論ずる

11/2(日)はれ

 午前中、JR東海のイベント。

 東福寺即宗院で「篤姫のみた洛中洛外と西郷隆盛」を論じた。

 東福寺は嘉永6年10月4日(1853年11月4日)、篤姫が参拝したとされるところ。即宗院はその最大候補地(詳しくは拙著『京都の江戸時代をあるく』文理閣、2008年10月刊)。

 そんな由緒地で、ほぼ同じ時期にお話をさせていただいたことに感激を覚えた。

 参加者31人。JR東海の常連さんが多く、見知った方多数だった。なんだか同窓会のようで。

 いつものようにパソコンをもちこんで、プロジェクターで映像を投影。実はいまだからいえるが、手続きのミスでプロジェクターが使用できないはずだった。

 それを担当田島さん(女性)に無理をいってセッティングしてもらった。

 結論、無理をいってよかった。今回は普段お見せしないようなこともした。それが好評だったようだ。田島さん(女性)ありがとうございました。

 現在、即宗院は秋の特別公開中(有料)で、どなたでも参拝できる。が、それでも立ち入れない場所がある。墓地だ。そこに今回は特別にいれてもらった。

 田中新兵衛や奈良原喜左衛門、有馬新七の父、中井弘の墓など、興味深い墓碑が多数。

 文久・元治・慶応年間に京都で客死した薩摩京屋敷の職員の墓碑がめだつ(はっきり記載されている)。

 西郷や大久保、小松帯刀ら有名人以外に、いかに多くの薩摩武士が幕末京都で活躍していたか知れる。管理などの都合でやむをえないとはいえ、この場所を公開していないのは本当に惜しまれる。

 昼は高倉塩小路下ルのお好み焼き店にスタッフのみなさんに連れて行ってもらう。こんな店あるんやなあと驚く。

 場所をかえてコーヒーをいただいたのち、車で拙宅までお送りくださった。ありがとうございます。

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2008.11.02

「篤姫」の最後を知る書物

11/1(土)はれ

 名古屋、栄中日文化センターへ出講。一昨日予告したように、伏見奉行所跡の成果を話した。話しすぎ。1時間半講座なのに、1時間もしゃべった。

 本日出席者が少なかったような気がした。もしかして、本当にさぼって伏見の現地説明会に行かれたか。それはすばらしいこと。

 JR京都駅の新幹線ゾーンの書店で、『NHK大河ドラマ・ストーリー篤姫』完結編という、珍しい書籍を見つけ、買う。

 「完結編」って、こんな本、過去のシリーズに出ていただろうか。

 おかげでこれからの「篤姫」がどうなるか、ほとんど知れた。大半があきれることだが、意義深い設定も知れた。慶応4年(明治元年)以後を2話もするという。

 10年前の大河「徳川慶喜」でも慶応4年以後は1話もなかった。長命の慶喜のながい晩年を描かないなんて、最後が実につまらない番組だと思った。

 今回はその点で意義深い。

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