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2008.11.06

誤りだらけの龍馬番組、日本史サスペンス劇場

11月5日(水)はれ

 日本テレビ系「日本史サスペンス劇場」をみた。坂本龍馬と「三人の妻・恋人」を取り上げたものだった。

 とにかくひどい番組だった。社会への影響を考えたとき、学術・教育上、犯罪ではないかとさえ思った。

 井桜直美さん所蔵のお龍写真の取扱には立腹した。お龍が晩年まで写真を撮らなかったと本人がいっている、とタレントがいっていた。

 では見せてもらおう。なんという記録にそれが載っているか。そんな事実はない。

 それにもかかわらず、科学警察研究所の成果は紹介した。前半と後半が矛盾するではないか。矛盾しないというなら、科学警察研究所の成果は文献を無視した誤りだといっていることになる。

 これについて歴史家はどう評価するのだともっていき、番組にご出演の研究者にコメントをもとめたが、その方は高名な方なれど古代史の研究者である。お尋ねする相手がちがうだろう。

 拙著『京都の江戸時代をあるく』(文理閣、2008年10月)に詳細に同写真の真偽をめぐる研究史をまとめておいた。真偽についてもはっきり肯定しておいた。どうかご覧ください。

 検証した結果、「こうだ」みたいな番組づくりは、無批判に事実を羅列する番組より悪質である。最近の成果紹介のふりをして、実はけっこう古いネタを視聴者に提供している。

 「食品偽装」が問題となり、ついで最近は寺田屋問題に端を発し、「観光偽装」まで取りざたされる。が、結局は、消費者・観光客がだまされないようにかしこくならないと被害はいくらでもおこる。

 テレビ番組もそうだ。視聴者がかしこくならないといけない。どうか内容を問う姿勢をもち、内容に問題があるものをつくり公開する番組は見ないようにしてもらいたい。

 視聴率がかせげないなら、本気で番組づくりもするだろう。予算や時間もたっぷりつかわないと歴史番組はつくれないという風潮にかわるかも知れない。

 約10年前、同時にNHKと民放の歴史番組制作にかかわったことがある。民放が1番組をつくるのに約10日ほどかけるのに対し、NHKは数か月もかけていた。予算はなんと10倍もちがった。これは話にならないと思ったものだった。

 とにかくひどかった。大河ドラマが事実に即して描かれないとか、「そのとき歴史がうごいた」のつくり方があらいとか、そんなレベルではない。

 寺田屋の龍馬遭難を、お龍は伏見薩摩屋敷へ通報した。そこまではいい。問題はお龍到着の直後に三吉慎蔵が到着したことだ(三吉は「長州藩士」ではない。長府毛利家の家臣である。いわば「長府藩士」だ)。

 龍馬はお龍をなぜ命の恩人だとしたか。 

(「今年正月廿三日夜のなんにあいし時も、此龍女がおれバこそ、龍馬の命ハたすかりたり」・・慶応2年(1866)12月4日付乙女宛龍馬書翰)

 裸(もしくは下着)のままの注進をしてくれたからではなかろう。

 お龍の通報以前に、龍馬は外の異変に気づいていた。

「最早寝んと致し候処に、ふしぎなる哉(原文割注:此時二階居申候)人の足音のしのびしのびに二階下をあるくと思ひしに、六尺棒の音からからと聞ゆ、おり柄兼而お聞に入し婦人(原文注:名ハ龍今妻也)、勝手より馳セ来リ云様、御用心被成べし不謀敵のおそひ来りしなり。鎗持たる人数ハ梯の段を登りしなりと」(慶応2年(1866)12月4日付御一同様(兄など)宛龍馬書翰)

 彼女の通報により薩摩側が龍馬救出の準備ができたからと思われる

(「此夜、彼龍女も同時に戦場を引取り、直様(すぐさま)(薩摩)屋敷に此よしを告げしめ」(同上)。

 お龍の通報により薩摩屋敷は事件を知る。が、龍馬の所在地がわからない。だから準備をして、逃げてきたらすぐ対処できるようにしていたと思われる。

 そこへ三吉があらわれて、薩摩屋敷の人間を龍馬の所在地に案内した。だからすぐに動けたし、正しくその位置にたどりつけたと思われる。

(「つひに三吉ハ先ヅ(薩摩)屋敷に行べしとて立出しが、屋敷の人と共にむかひに参り、私も帰りたり」(同上))。

 お龍と三吉の到着が同時ならそれができないだろう。薩摩屋敷に事件を理解させ、救出の準備をさせるのに5分や10分でできるとはとても思えない。夜中だし、大名屋敷はひとつの役所である。

 その間に、龍馬は隠れていた「材木納屋」で、寒さの中、凍死していたかも知れない。

 ちなみに晩年のお龍がその経緯を回想している。事実に近いと思われる。

「漸(や)ッとの事で薩摩屋敷へ着き、大山(彦八)さんに逢って、龍馬等は来ませんかと云ふと、イヤまだ来ないが、其の風体は全体どうしたものだと云ふ。私は気が気でなく、龍馬が来ねば大変ですと引き返さうとすると、まァ事情を云って見よと抱き留めるので、斯様々々と話しますと吃驚し、探しに行かうと云ってる処へ、三好(三吉)さんがブルブル震へ(も)どって来て、板屋の中で一夜明したが、敵が路を塞で居って二人一処には落られぬから、私一人来ましたと云ふ。それを聞ひて安心と、早速、大山、吉井の二人が小舟に薩摩の旗を樹てゝ迎へに行って呉れました」(「千里駒後日譚」第2回、1899年(明治32)11月5日)。

 ところで番組内で、ずっと「おりょう」と呼ばれていた。が、それもちがう。

 寺田屋遭難の慶応二年のある時期以後、龍馬は彼女を「鞆(とも)」と改名させている。

(「父母の付たる名龍、私が又鞆トあらたむ」・・慶応2年(1866)12月4日付乙女宛龍馬書翰)

 慶応3年(1867)5月28日付、「鞆殿」宛の龍馬書翰も現存する(井口家文書)。

 龍馬の死後は、西村松兵衛と再婚し、さらに「ツル」と名乗った。戸籍も「西村ツル」である。

 再婚相手、西村松兵衛にさえ「おりょう」と呼ばせていたのには閉口した。

 とにかく放映中、ずっと「それはちがう」ばかりだった。つっこみし放題の番組だった。いっしょにみていた人はさぞうるさかったことだろう。

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