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2008.10.17

伊達政宗の屋敷跡だったのか、とショック

10/15(水)はれ

  京都女子大学に出講。今日は巡検。方広寺旧境内南門付近をあるく。坂本龍馬の寓居跡である。まだ石碑はない。解説板もない。そのうち建てよう。

 仲間のMさんがお車でお迎えに来てくださる。その足で文理閣へ拙著50冊を引き取りに行く。キャンパスプラザの中村ゼミで売るため。

 午後からキャンパスプラザ京都でくずし字入門。いろいろ思うことがある。京都の大名屋敷の解体を検討しているのだが、驚くことばかりだ。とにかく受講生の熱心さに頭がさがる。くずし字「米原」という字だと思ったら、ある方が「半原」じゃないかという。

 まあ、「米」と「半」はくずし字たいへん似ている。ありえることではある。が、何をいうのだ。「半原」はないやろ、「米原」やろと思った。

 が、史料の文字はそのあと「県」がつづく。だから「米原県」だと思っていた。

 が、その方は「半原」と読み、「半原藩って現在の愛知県に実在したんですよ。半原県はわからないですが、だから「半」の可能性はないかと思って」といわれた。

 その解説聞いて驚いた。なんの疑いもなく当然「米原」だと思ってた。もしかしたらそうかもしれない。

 先週そんなことがあったら帰宅して調べたら、たしかに「半原県」、実在したのだ。むしろ「米原県」なんてなかった。

 なんということか、恥ずかしいことだ。たよりない講師だ。みなさんに教えられて生きている。

 午後2時半から、つくったばかりの京都歴史地理同考会(特定非営利活動法人認証申請中)の研究報告会をした。

 同会幹事の郡邦辰さんの、「聚楽城・上杉景勝邸の位置の検討」研究に感銘を受けた。聚楽城の大名屋敷って、文献史料でこんなにわかるのだ、と恐れ入る。

 恥ずかしくってならなかったのは、先日建碑した堀川一条の松之下町は伊達政宗屋敷跡の可能性が高いと知ったこと。

 それなら銘文にくわえるべきだった。知らなかったもんなあ。年配の受講生からいろんなことを教えてもらっている。楽しくってならない。

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