「篤姫」の龍馬とお龍に思うこと
先週と今週の「篤姫」をみて思ったことはいっぱいあるのだが、それを書き込むととてもエネルギーがいるというのと、そんなヒマがあるかと思われたくない。
だから龍馬とお龍のことのみを書く。
お龍とお近(小松帯刀の鹿児島妻)の二人だけのシーンで、お龍はお近に「あの井伊大老の大獄で、私の父は重いお咎(とが)めを受けました」といった。その背景映像は、捕り手に縄で縛られて連行される男性だった(開始から24分ごろ)。
が、これは事実ではないだろう。
お龍の父は楢崎将作といい、青蓮院宮に仕える内・外科医であった。
楢崎将作が安政の大獄に連座したといわれてきた間接的な史料根拠は、ふたつある(と思う)。
ひとつめ。
「先年、雷(頼)三木(樹)三郎、梅田源二(次)郎、梁川星巌、春日(潜庵)などの、名のきこ(聞)へし諸生太夫が朝廷の御為に世のなん(難)お(を)かふむ(被)りしものありけり。その頃其同志にてありし楢崎某と申医師、夫(それ)も近頃病死なりけるに・・・」(慶応元年(1865)9月9日付、乙女・おやべ宛、龍馬書簡)
ここで龍馬は姉などにお龍の父として楢崎の紹介をする。そして安政の大獄に連座した者を列挙し、その者と同志だとはいっている。これが根拠だと思う。
が、ちゃんと読めば、一緒に連座したとはしるさない。
それどころか近頃病死したという。刑死でも獄死でもない。
菩提寺西林寺の過去帳から亡くなったのが文久2年(1862)6月20日とわかるから、大獄から3年もたっている。
もうひとつ。
慶応2年(1866)12月4日付、乙女宛龍馬書簡。また姉にお龍の紹介をした部分で、
「京師柳馬場三条下ル所、楢崎将作、死後五年トナル、此所にすミしが、国家のなん(難)とともニほろび、あと(跡)な(無)くなりしなり」とある部分である。
が、「国家の難とともに滅び、家は無くなった」とあるが、安政の大獄への楢崎の連座だとは記していない。
なんといっても、お龍には明治になってからの回想録がある。質問者にこたえて、龍馬のこと、父母のこと、さまざまを物語っている。
が、そこにも父が安政の大獄に連座したとは述べていない。
「私の父は楢崎将作(注記略す)と云ふのです。青蓮院宮様の侍医でしたが、(略)あの梁川星巌や其妻の紅蘭も同門でした。又、頼三樹(三郎)さんとや池内大角(学)(注記略す)などゝも親密で、私が幼少(ちいさ)い時分には能(よ)う往来(いき)きして居ました(「千里駒後日譚」4回)。
ここでもやはり安政の大獄メンバーと交流があったことをふれるのみで、父も犠牲者だったとはいわない。
ほかでも父を失ったあとの生活難をふれた部分があるが、国事殉難者のようにはふれない。
そんなわけで、たぶん事実ではない。
ながくなりすぎた。ほかにも書きたいことがあったのに、あきらめだ。
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