東京にいっておりました
わけあって東京に行っておりました。
昨夜は某幕末史研究会に出席。町田明広氏の寺田屋事件に関する実に興味深い報告に接した。
身内の研究会で参加者少なく、町田さんに申し訳ないぐらいだった。
本日は午前中S社のYさんと、某出版物の今後についてご相談。お目にかかってお話ししてよかった。展望がみえた。
早く帰城(山城国に帰る)して次の仕事を進めるべきなのだが、せっかく東下(関東へ下る)したのだ。1~2の史蹟はまわっておきたい。ただでさえ東京の史蹟巡りは不足しているのだから。
まずは篤姫の墓参に、上野寛永寺へ。もちろん初めてではないが、今年はさんざんにお世話になったので、お礼も兼ねて。
扉がしまっているので塔の前にはたてないが、遠望して合掌する。
ついで小石川後楽園に。こちらははじめて。水戸徳川邸跡。すばらしい庭園だった。いっぱい京都の名勝が模してあった。舟入も残っていて、とても気に入りました。
ここが藤田東湖終焉の地と知っていた。徳川家光がよくきたとか、吉宗が模そうとしたができなかった橋があるとか、全然しらなかった。
僕にとって小石川後楽園は、安政大地震によって、藤田東湖が母ともに圧死したところという思い入れがつよかった。
だから今日はじめて記念碑をみれた。気になっていたことをこなしたみたいなうれしさがあった。
が、はっときづいたのだが、今日10月2日はその祥月命日ではないか。安政大地震の日。
もちろん安政2年10月2日は旧暦で、現暦に換算すると1855年11月11日で、実際は別の日なのだが、やっぱり数字の一致はめずらしく、驚いた。機縁だ。
つづいて伝通院へむかった。
恥ずかしいが、こちらも初めて。いろいろ思い入れのあるところ。家康母の菩提寺だし、清河八郎の墓所だ。
そしてなにより新選組となる連中が集合し、ここから京都へむかった場所。門前にそのとき集まった塔頭跡だという解説板と、当時のものかわからないが門前の標柱が残されていた(写真)。けっこう感激。
が、実は一番思い入れ深かったのは、沢宜嘉の墓所だったこと。また恥ずべきことだが、知らなかった。
七卿のひとりで、但馬生野の乱の首領である。こんなところにおられたのか。「生野の変」は先日も名古屋・栄中日文化センターでとりあげた。
大和天誅組の乱と但馬生野の乱へは思い入れがふかい。これを書くまで死ねないと思っている一つだ。ゆかりの地はけっこう歩いた自覚がある。
なのに、沢の墓所がこことは知らなかった。清河八郎の墓参とは異質な思い。立ち去りがたかった。二度とこないかもしれないから(そう思ったところは、必ず二度来る)。
ちかくに徳川慶喜最後の住居跡がある。帰りが遅くなるが、足を延ばした。終焉地でもある。それを示した表示板があった。
その地は最近、私立大学が入手したらしい。埋蔵文化財調査中だった。慶喜邸の実態を明らかにするのだろうか。
午後9時、家に帰り着いた。もよりの駅にお迎えがあった。楽して帰れた。ありがとうございました。
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