無縁仏になった松浦亀太郎
同志社大学へ出講。
8月18日政変から禁門の変まで。
はしょった池田屋事件から禁門の変の経過が1番おもしろかった、もっとしてほしかったというご感想、続出。
なるほどなあ、これが専門のすごみなのだろう。
得意なところは、みじかくても濃度が濃いのだろう。
終了後の喫茶で、松浦亀太郎(松洞)研究中のNさんから、定信院の墓所の近況をいろいろうかがう。
松浦亀太郎は画家で、吉田松陰の弟子のひとりとして、江戸送りになる松陰の肖像画を数幅描いた人です。
いわゆる「尊攘志士」で画家といえば、同じく長州出身の森寛斎が知られます。
が、森が長命であったことで研究も多いのにくらべて、亀太郎は実に少ない。
だからNさんの研究に期待している。
いろんな可能性を秘めた人物ではないか、と思えている。
その亀太郎の埋葬地は、洛東霊明社か、同じく洛東定信院である。
僕がはじめて定信院を墓参したのは1985年3月28日で、そのころは台石もあり、独立した墓碑だった(写真)。僕は17歳(高校2年生)。
が、1993年洛北へ移転し、「無縁仏」とかで、台石は取り去られ、一ヵ所に集合させられている。
自分のせいのように思う。
もっと墓参し、「大事な人だから」とお寺の方を啓発していたらよかったのだ。
1987年には「過去帳」を拝見し、亀太郎の記載部分を筆写させていただいたこともあったのだ。
(このとき大学1年生)
池田屋事件受難者、吉岡正助(庄祐)の墓碑のことを思い出す(寺町蛸薬師の誠心院)。
ある写真集には台石のある独立した墓碑が掲載されている。
が、僕がはじめて墓参したときには、すでに松浦亀太郎の場合と同じく、台石がなくなり、一ヵ所に集合させられていた。
この人が池田屋事件を語る上で大事なことはわかっているのに、どうして研究者は保護してくれなかったのだ、と悔しくなげいたものだった。
いま自分にかかってきた。
後世の人は、1980年代に松浦亀太郎の墓参をしていた研究者がなぜ保護できなかったか、というにちがいない。
移転計画を聞いたとき、あぶないと気づき、山口県萩市などの有志に働きかけるべきだったのだ。
申し訳ないことをしました。
| 固定リンク


