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2008.07.24

「京都に史蹟をつくりました」

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 昨日午前11時から、京都市上京区堀川一条東入ル南側で新標石(石碑)の除幕式を行いました。
 すでに昨日の京都新聞夕刊、読売新聞(京都版)本日の朝刊、京都民報ウェブ版に掲載されています。

 各紙、参加人数が異なりますが、100部刷った当日資料が約30部しかあまっていませんので、70名以上おこしだったはずです。

 東京の歴史作家、桐野作人さんが来賓としておこしになりました。
 当標石の表に記した小松帯刀寓居参考地は、桐野作人さんのおびただしい薩摩島津家史料知識がなければとてもかないませんでした。

 僕はその成果を近世絵図などによってフォローしたにすぎません。

 が、両側面に、古代・中世の由緒も刻めたことはなによりうれしい。
 京都の史蹟標石が、ある一時代や一テーマによってなされてよいとは思えません。
 1100年のミヤコ(首都)です。
 すくなくとも古代・中世・近世の3時代のネタを刻む必要があるとつねづね思っていました。
 それがかないました。

 もうひとつこだわりをいえば、副碑の解説文全部に振り仮名をうったことです。
 小学生にも読めるように。

 僕がこの世界にはまったのは六年生のときでした。
 単身カメラをもって上洛し、標石をみつけては写真を撮りだしたのは中学1年生のときでした。
 
 標石や解説板の文章や漢字の難解さに悩まされました。
 とりわけ道標の「丁(町)」という単位は泣かされました。

 「これより一丁」とあっても、それが何キロメートル先なのか、想像もつかず訪ねるのをあきらめたこともありました(120メートルだったと知ったのはだいぶあとのこと)。

 こういう子どもにも、挫折せず歴史をまなびつづけてほしいという願いをこめております。

 僕ひとりの力ではとうていない。
 本当にみなさんのお力に助けられて実現しました。
 心より御礼申し上げます。

 終了後、懇親会を開きましたが、有料にもかかわらず30名以上の方がおこしくださいました。
 店内は一時パニックになったぐらいでした。

 京都女子大や同志社大の僕の受講生も駆けつけてくれました。

 まだまだ建碑事業はつづきます。
 今後ともよろしく御願いいたします。

 以下が、碑銘と副碑解説文です。

(表)此向かい 近衛堀川屋敷跡
小松帯刀寓居参考地

(左側面)藤原道綱母子 一条邸跡
源頼光

(右側面)此付近応仁の乱洛中最初合戦地

(裏面)二〇〇八年七月 京都歴史地理同考会建之
                         宮本某 寄贈


【解説】(ここでは適宜行間をあけ、一部ルビを省略しました)

 当地は平安京の左京北辺二坊五町(きたのべにぼうごちょう)にあたる。

「蜻蛉(かげろう)日記」の著者藤原道綱(ふじわらの・みちつな)母が住まいし、のち武将源頼光(みなもとの・よりみつ)や道綱が引き継いだ平安時代の一条邸跡とされる。

 付近一帯は、応仁の乱の洛中(らくちゅう)での最初の合戦地でもある。
 
 応仁(おうにん)元年(1467)5月26日、東軍細川勝元方(ほそかわ・かつもとがた)の京極持清(きょうごく・もちきよ)は、この前を通って一条戻橋(いちじょうもどりばし)から西軍へ攻め入り、一条大宮で戦った。

 そのため、当時この北方にあった革堂(こうどう)(行願寺(ぎょうがんじ)・百万遍(ひゃくまんべん)(知恩寺(ちおんじ)・誓願寺(せいがんじ)などが焼亡した。

 以後洛中の寺社、貴族・武家邸がまたたくまに被災し、古代・中世都市平安京は壊滅する。

 江戸時代には、筑前福岡(ちくぜんふくおか)黒田家(くろだけ)邸となった。同家御用達(ごようたし)商人だった古高俊太郎(ふるたか・しゅんたろう)(桝屋喜右衛門(ますや・きうえもん)も出入りしたと推定される。

 元治(げんじ)元年(1864)6月5日、古高の政治活動をキャッチした新選組(しんせんぐみ)は彼を逮捕、池田屋事件の導火線となった。

 なお当地の向かいは、五摂家(ごせっけ)筆頭の近衛家(このえけ)の堀川邸で、内部に「御花畑(おはなばたけ)」があった。薩摩島津家(さつましまづけ)の家老小松帯刀(こまつ・たてわき)は「御花畑」のある近衛邸を寓居(ぐうきょ)としたとされるため、当邸は有力候補地といえる。

 慶応(けいおう)2年(1866)1月、小松寓居には長州毛利家(ちょうしゅうもうりけ)の桂小五郎(かつら・こごろう)(木戸孝允(きど・たかよし)が入り、その地で薩長同盟(さっちょうどうめい)が締結(ていけつ)された可能性がある。

 当地付近は千年におよぶ、たえまない重要な歴史の舞台地であった。
                                               歴史地理研究者 中村武生

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