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2008.07.31

夏休みだ

7/29(水)はれ

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 京都女子大学のテストの日。
 登録者180余名。

 いろいろハプニングがあるが、無事終了。

 昼、いつものMさんから卒論報告会。
 京都の大名屋敷解体の研究。

 いかに消失し、跡地は何に利用されたか。
 いつもながら興味ぶかくうかがう。

 午後、某所に移って、採点としめきりすぎた原稿に立ち向かう。
 気分がダークになってきた。

 夕方、木屋町三条下ルの有名居酒屋で、京都女子大学「人文地理学」受講者の春学期の慰労会。
 25名も参加される。

 サプライズゲストが多かった。
 坂本龍馬やお龍がとなりの店から登場。

 室内どよめく。
 いっせいに写メール。

 友人H氏も参加。
 大変な質問攻めにあっていた。

 盛会でおわる。
 もうすこしお値段安くできたらよかった。
 努力不足。
 次回はもっと努力いたしましょう。

 そのあとはお礼をいいに、「龍馬」へ。
 しばらく滞在。

 本日から念願の夏休みだ。 

 が、まだそこにひたれない。
 残された仕事が多数ある。

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2008.07.30

京都歴史地理同考会、設立総会

7/29(火)朝雨、午後はれ

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 基礎からまなぶ日本歴史、ついに織田信長に入る。
さあ、さあ。

 午後2時から、京都歴史地理同考会の設立総会行われる。
 30名以上の会員さん、出席。
 無事、終了。

 いま議事録をつくってくださっている。
 そのあと京都府へ提出する予定。
 
 夕方、E原さん、K藤さんに連れられ、寺町三条の三嶋亭に行く。
 だれでも知っている京都の有名すき焼き店である。

 はじめてである。
 なるほど内部はこうなっていたか。
 感激である。

 腹いっぱいいただいた。
 忘れがたい日となった。

 夜はいつもの木屋町三条「龍馬」へ。
 E原さん、K藤さんご同行。
 またごちそうになってしまった。

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2008.07.29

ひさしぶりの大雨

7月27日(日)はれ(つづき)

 学術とかかわりのない某所で(あ、でもネタは「考古学」か)、K都大学J文科学研究所のT木H志先生のご家族とばったり。

 「史蹟」が学問の対象となることを僕に教えてくれた先生です。
 それがどんなにステキな発見だったか。
 いまでも尊敬しております。

 うれしいやら、恥ずかしいやら、でした。


7月28日(月)はれのち大雨

 大谷大学の春学期試験の日。
 ほとんどの人が意欲的に受けてくれた。

 終了後、某所でさっそく採点。
 意識が高いうちにするとスピードがあがる。
 さほど時間をとらずに終了。
 いつもこうありたいものだ。

 滞在中、ゴロゴロ雷鳴がきこえる。
 これはあぶないと思って、長居せずさっさと帰る。

 するとまもなく降りだした。
 しかも尋常でない量。

 外出していないときの雨は雷鳴もあわせて気持ちいい。
 在宅しながらしなければいけない原稿に立ち向かいつつ、気になっていた調べもの、まとめものもする。

 まあ池田屋事件なのだが。
 大高又次郎の同時代史料の整理中。

 神戸市灘区の河川では鉄砲水で犠牲者が出た。
 河川はほんとうにこわい。
 僕は河川では遊ばないよう心がけている。ほんとうにこわいもの。

 それでも遊ぶなら、天気が悪くなったときづいたら、スピーディに避難しないといけない。
 今回のことはまったく典型だ。

 川であそぶことの危機意識をもっともってほしかった。
 残念でならない。

 ご冥福をお祈り申し上げます。

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2008.07.28

おそうじおわる。山科本願寺・寺内町跡。

7/27(日)はれ
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 午前9時、山科中央公園の土塁に集合。

 土塁が各地で土くずれをおこしている。
 設置された柵もそれにより倒落している(写真)。

 これはひどい。
 なんとかならないのか。

 ごみも多い。たばこの吸殻、飲み物の缶・ペットボトル、花火のもえかすなどなど。

 そんなところ続々、参加者到来。
 すごい20人以上もおこしだ。

 山科本願寺・寺内町を考える市民の会からは、前田哲哉事務局長、洛東高校の島田雄介教諭、川端泰幸博士。

 いつもの中村武生ゼミのみなさんはもちろん、京都女子大学のNさん、試験中なのに今回も駆けつけてくれた。
 山科在住のI北さんは、小学生のおこさんお2人もお連れくださった。

 山科在住者がこれを大事に思っていることを示したかったといってくださる。

 K都R馬会のT吉さんこと、N川さんも乙訓郡からおこし。ブログをみてきてくれた由。
 すばらしい。ありがたい。

 みんなでやったから、あっという間に終わった。

 最後は前田事務局長のお気遣いで、飲み物をいただく。
 ありがとうございました。

 そうじのため、たんねんに土塁を歩いた。
 そのおかげで、北側の方が、南側より傾斜が急だとか、いままで気づけなかった微妙な土塁の差異にきづけたと、島田教諭のひとこと。

 今後もつづけたいと思います。
 またどうかよろしく御願いします。

 終了後は、希望者10名ちかくを他の部分の土塁・堀へご案内する。
 半年ぶりにきたところ、やはり変化がおきている。
 ちょくちょくこなきゃ。

 山科本願寺・寺内町を考える市民の会は、あらたな顔で再出発です。

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2008.07.27

ブックオフでいい気持ち

 先日、『83年のあゆみ さよなら京都市電』(京都市交通局、1978年初版)をブックオフ某店でみつけた。
 2,000円だった。定価6,300円である。

 これは安い。
 直感して買った。

 帰宅し日本の古本屋サイトで調べたら、現今4,000円~18,000円で値がついている。
 うれしいなあ。

 そういえば、やはり先日、おなじくブックオフ某店で(ただし上記店とは別)、日本歴史学会編『明治維新人名辞典』(吉川弘文館、1979年初版)を、3,000円でみつけた。定価12,600円である。

 これだからブックオフ通いはやめられん。
 他の書店は迷惑だと思うが。

※なお上記『明治維新人名辞典』は当然購入しましたが、すでに所有していたこともあり、その後、木屋町三条の酒場「龍馬」に寄贈しました。

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2008.07.26

山科、おそうじに参加してください

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 ぼくが大事に思っている旧蹟に、「山科本願寺・寺内町」がある。

 山科中央公園に残る土塁と堀の部分(写真)が、2001年に国史蹟になったが、その啓発がほとんど進められていない。
 文化財になったことを示す標石も解説板もない。
 
 遠い昔につくられて、うすよごれ、文字の判読ができなくなったものがあるだけだ。
 土塁も認識されずにゴミあくた状態だ。
 残念である。

 で、「山科本願寺・寺内町を考える市民の会」で、明日午前中、おそうじをすることにした。
 つきましては人手がほしいので、みなさん参加してください。
 ゴミ袋ひとつでも持参してください。
 わずかな時間でもいいですので。

 よろしく御願いします。

【記】
 日時:7月27日(日)午前9時から11時ぐらい
 場所:山科中央公園
(京都市山科区西野阿芸沢町。山科郵便局の東となり。JR・京阪・地下鉄の各「山科」駅から南へ徒歩約15分)。
 持ち物:おそうじに必要なもの
 主催:山科本願寺・寺内町を考える市民の会(会長山本正明)

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2008.07.24

「京都に史蹟をつくりました」

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 昨日午前11時から、京都市上京区堀川一条東入ル南側で新標石(石碑)の除幕式を行いました。
 すでに昨日の京都新聞夕刊、読売新聞(京都版)本日の朝刊、京都民報ウェブ版に掲載されています。

 各紙、参加人数が異なりますが、100部刷った当日資料が約30部しかあまっていませんので、70名以上おこしだったはずです。

 東京の歴史作家、桐野作人さんが来賓としておこしになりました。
 当標石の表に記した小松帯刀寓居参考地は、桐野作人さんのおびただしい薩摩島津家史料知識がなければとてもかないませんでした。

 僕はその成果を近世絵図などによってフォローしたにすぎません。

 が、両側面に、古代・中世の由緒も刻めたことはなによりうれしい。
 京都の史蹟標石が、ある一時代や一テーマによってなされてよいとは思えません。
 1100年のミヤコ(首都)です。
 すくなくとも古代・中世・近世の3時代のネタを刻む必要があるとつねづね思っていました。
 それがかないました。

 もうひとつこだわりをいえば、副碑の解説文全部に振り仮名をうったことです。
 小学生にも読めるように。

 僕がこの世界にはまったのは六年生のときでした。
 単身カメラをもって上洛し、標石をみつけては写真を撮りだしたのは中学1年生のときでした。
 
 標石や解説板の文章や漢字の難解さに悩まされました。
 とりわけ道標の「丁(町)」という単位は泣かされました。

 「これより一丁」とあっても、それが何キロメートル先なのか、想像もつかず訪ねるのをあきらめたこともありました(120メートルだったと知ったのはだいぶあとのこと)。

 こういう子どもにも、挫折せず歴史をまなびつづけてほしいという願いをこめております。

 僕ひとりの力ではとうていない。
 本当にみなさんのお力に助けられて実現しました。
 心より御礼申し上げます。

 終了後、懇親会を開きましたが、有料にもかかわらず30名以上の方がおこしくださいました。
 店内は一時パニックになったぐらいでした。

 京都女子大や同志社大の僕の受講生も駆けつけてくれました。

 まだまだ建碑事業はつづきます。
 今後ともよろしく御願いいたします。

 以下が、碑銘と副碑解説文です。

(表)此向かい 近衛堀川屋敷跡
小松帯刀寓居参考地

(左側面)藤原道綱母子 一条邸跡
源頼光

(右側面)此付近応仁の乱洛中最初合戦地

(裏面)二〇〇八年七月 京都歴史地理同考会建之
                         宮本某 寄贈


【解説】(ここでは適宜行間をあけ、一部ルビを省略しました)

 当地は平安京の左京北辺二坊五町(きたのべにぼうごちょう)にあたる。

「蜻蛉(かげろう)日記」の著者藤原道綱(ふじわらの・みちつな)母が住まいし、のち武将源頼光(みなもとの・よりみつ)や道綱が引き継いだ平安時代の一条邸跡とされる。

 付近一帯は、応仁の乱の洛中(らくちゅう)での最初の合戦地でもある。
 
 応仁(おうにん)元年(1467)5月26日、東軍細川勝元方(ほそかわ・かつもとがた)の京極持清(きょうごく・もちきよ)は、この前を通って一条戻橋(いちじょうもどりばし)から西軍へ攻め入り、一条大宮で戦った。

 そのため、当時この北方にあった革堂(こうどう)(行願寺(ぎょうがんじ)・百万遍(ひゃくまんべん)(知恩寺(ちおんじ)・誓願寺(せいがんじ)などが焼亡した。

 以後洛中の寺社、貴族・武家邸がまたたくまに被災し、古代・中世都市平安京は壊滅する。

 江戸時代には、筑前福岡(ちくぜんふくおか)黒田家(くろだけ)邸となった。同家御用達(ごようたし)商人だった古高俊太郎(ふるたか・しゅんたろう)(桝屋喜右衛門(ますや・きうえもん)も出入りしたと推定される。

 元治(げんじ)元年(1864)6月5日、古高の政治活動をキャッチした新選組(しんせんぐみ)は彼を逮捕、池田屋事件の導火線となった。

 なお当地の向かいは、五摂家(ごせっけ)筆頭の近衛家(このえけ)の堀川邸で、内部に「御花畑(おはなばたけ)」があった。薩摩島津家(さつましまづけ)の家老小松帯刀(こまつ・たてわき)は「御花畑」のある近衛邸を寓居(ぐうきょ)としたとされるため、当邸は有力候補地といえる。

 慶応(けいおう)2年(1866)1月、小松寓居には長州毛利家(ちょうしゅうもうりけ)の桂小五郎(かつら・こごろう)(木戸孝允(きど・たかよし)が入り、その地で薩長同盟(さっちょうどうめい)が締結(ていけつ)された可能性がある。

 当地付近は千年におよぶ、たえまない重要な歴史の舞台地であった。
                                               歴史地理研究者 中村武生

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2008.07.23

京都府庁で記者発表

7月22日(火)はれ
 午後3時半、京都府庁1号館の記者室で記者発表をした。

 例の建碑除幕式が明日午前11時であること、
 建碑団体として「京都歴史地理同考会」をたちあげたこと、をのべた。

 3社の記者がこられた。
 京都新聞、読売新聞など。
 載るかなあ。  

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2008.07.21

嵯峨野で三宅碑を論ずる

7/20(日)はれ
 嵯峨野学芸倶楽部に出講。
 今回からしばらく、三宅清治郎建立碑を特集する。

 冒頭でなぜ僕が建碑や史蹟論を専攻するか、をながなが話す。
 こんなにながいスパンで研究意図をおはなししたのは初めてではないか。

 テープおこしをすれば、某書籍の序章になるのではないか、と思えた。

 いつものごとく、受講のみなさんと帷子ノ辻駅前のスマートで昼食・茶話会。
 1時間半ほど歓談。

 地下鉄東西線で旧U郡へ。
 I村の新居、完成まじか。
 はじめて内部へ入れていただく。

 夜、また「篤姫」見忘れた!

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2008.07.20

御土居堀の北西隅そばにマンション建設、続報

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 「洛中惣構(らくちゅう・そうがまえ)」こと、御土居堀の北西隅(国史蹟指定地)の至近でレオパレス建設工事がつづいている。

 北西隅を下がったところ(南部分)。
 ながくうっそうとしていたので、山林のなかがどうなっているかよくわからなかった。
 が、いまとなりの工事の影響で、すこし木が伐採されて中がみえている。

 そこに崩れかけてはいるが、土塁の破片が生きていることがわかる(写真)。

 が、この地は民有地のままである。
 森田清さん地所(北西隅の東側)とはちがい、買い上げを進めているときかない。

 ここにまもなくレオパレスが建つ。
 また公道から土塁部分がみえなくなる。

 破壊が進んでもきづけない。
 きづけないから一般も研究者も関心をもつことが少なく、開発許可がおりても後の祭り。

 この問題。なんとかならないものか。
 学術誌に小論を発表したり、拙著『御土居堀ものがたり』(京都新聞文化センター、2005年)を世に送っただけではどうにもならないようだ。

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木屋町御池と大谷大学で史蹟論

7月19日(土)
 朝から暑い。
 京都民報社主催で、木屋町御池界隈の幕末史蹟をあるくイベントに従事。
 いつもながら、建碑により史蹟は認識されるという視点(史蹟論)での解説。

 すると主人公は幕末志士などではなく、建碑主体者たる近代の人間。
 たとえば京都市教育会(寺井萬次郎)だったり、新三浦(白井凌三)だったり、京都高知県人会(川本直水)だったり、三宅清治郎だったり。

 マニアな内容である。
 それでもついてくださる方々。ありがたし。

 暑さと重さにへろへろになりながら、すこし休憩。 

 午後は2時から、大谷大学で生涯学習講座。
 「なれなかった天皇陵」というおはなし。

 山田邦和博士から教えていただいた、北区紫野の「衣掛塚(きぬかけつか)」という、近世の地誌にも書かれた旧蹟が主人公。

 これ実は近世後期の文化年間、天皇陵候補だった。
 が、見捨てられて、しかし破壊もされず現存しているという奇跡。

 これを、そもそも天皇陵は根拠なく治定(じじょう)されるものだという、考古学などの成果をふまえて、「史蹟はつくられる」というあいかわらずの中村史蹟論にもってゆく。

 ついでに最近立ち上げた、市民団体「京都歴史地理同考会」(理事長中村武生)の建碑事業を紹介。
 「内緒」だといって、第1号碑除幕直前写真をお見せする。

 建碑による史蹟論の研究者が、みずから主体的に、しかも組織的な建碑を行おうとしている。
 他の団体の建碑事業にも監修として参加もしている。

 この功罪は後世問われるにちがいない。

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2008.07.19

ついに建碑なる!

7/18(金)
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 ついに建碑なりました(写真)。

 建立者は、市民団体「京都歴史地理同考会」(理事長中村武生)。

 たまたま上洛中の幕末史家、M田A広さんも駆けつけてくださる。
 そういえばM田さんは、K談社から、S津H光論の刊行のご予定。
 本碑にふさましいゲストがこられたものだ。

 同志社大学の男子学生3人も訪問してくれる。
 講義でいいつづけてたものなあ。

 同志社大学今出川キャンパスは、薩摩島津二本松屋敷跡に建っている。
 そうかぁ、これも縁だなあ。
 二本松邸から小松邸へ移動か。
 薩長同盟そのものやんか。

 あとから京都龍馬会の赤尾理事長、おりょうさんもきてくださる。

 除幕式はまもなくです。
 御たのしみに。

 そうそう。
 拙稿「鑑定を受けた坂本龍馬の妻「お龍の若き日の写真」(上)」が、『京都民報』(本年7月20日号、京都民報社)に載りました(ご購読は京都民報社のサイトへどうぞ)。

 3週連続の短期連載です。
 よろしくご愛読ください。

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2008.07.18

野茂英雄投手の引退をきいて

 野茂英雄投手の引退をきいた。

 その日がくることをおそれていた。
 が、当然くるだろうとも思っていた。

 今日その日がきた。
 思いがふかい。

 はじめてその名をきいたのは、ドラフトで近鉄が獲得したことを報じる、車のラジオだった。
 ある用事で大阪府交野市の住宅街にいたときだ。

 メジャーでノーヒットノーランを2度もされた。
 偶然ではできないことをしっている。しかも2度も。
 すごい投手だ。

 われわれの希望の星だった。

 長い間、ありがとうございました。
 われわれはずっと、ファンでいつづけます。

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2008.07.15

篤姫紀行!だわ

7/14(月)はれ一時大雨
 この数日、いろいろあった。
 仕事もしっかり頑張った。そのぶんブログが滞った。失礼しました。

 12日(土)は、大谷大学の生涯学習講座で烏丸北大路付近を巡検。
 あつい中、60人ぐらいご参加。
 「がまん大会だ」といった人があったが、よくもどなたも倒れることなく。

 鞍馬口に「是より洛中」標石がほしいですね、賛同されませんか、といったら、終了後、4人の方から寄付の申し出があった。けっこう感激。
 ありがとうございます。

 すぐには無理ですが、かならず実現にむけて進みます。

 建設準備中の某碑もまもなく除幕式です。
 たいへんなことになろうとしていますが、それままた後日。

 13日(日)は、木屋町二条の広誠院で長州屋敷と幕末史のおはなしをする(京都民報主催)。
 こちらは23人のご参加。

 名古屋方面や山口県周南市からおこしの方がおられ、恐縮。
 しかも周南市の方は、ぼくの知らない史料多数ご存じで、いっぱいいろいろ教えていただく。ありがたかったです。
 来月、現物拝見に山口市へいこうとその場で決めた。

 京都民報主催の講座は、来週7月18日(土)もあります。こんどは巡検です。
 くわしくは過去のブログをごらんください。

 本日は大谷大学(こちらは通学、学部生)でまた巡検。
 堀川や小川の旧河道をあるく。

 地形に痕跡が露骨に残っている。
 そこに建つ家は将来洪水がきたら、やられる可能性が高い。
 明日生きるために地理の教養はとても大事なことを伝える。

 午後から銀行いったり、寺町姉小路の高級感あふれるところにいったり、錦小路の薩摩屋敷跡で興味深い電話がかかってきたり、京都有数の企業の食堂に入って「家族に代わって」お礼行ったり、あさって閉店するなじみの店へ最後の来客になりにいったり、某ルームでやはりあさって最終締め切りの原稿を打ったりする。

 最後につかれはてて、いつもの木屋町三条「龍馬」に行き、「本日のええはなし」を伝える。
 終電で帰宅。

 家かえって、また仕事。
 多数のメールがきているのだ。そのお返事も。

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2008.07.12

無縁仏になった松浦亀太郎

7/11(金)はれ
19850328

 同志社大学へ出講。
 8月18日政変から禁門の変まで。

 はしょった池田屋事件から禁門の変の経過が1番おもしろかった、もっとしてほしかったというご感想、続出。
 なるほどなあ、これが専門のすごみなのだろう。

 得意なところは、みじかくても濃度が濃いのだろう。

 終了後の喫茶で、松浦亀太郎(松洞)研究中のNさんから、定信院の墓所の近況をいろいろうかがう。
 松浦亀太郎は画家で、吉田松陰の弟子のひとりとして、江戸送りになる松陰の肖像画を数幅描いた人です。

 いわゆる「尊攘志士」で画家といえば、同じく長州出身の森寛斎が知られます。
 が、森が長命であったことで研究も多いのにくらべて、亀太郎は実に少ない。
 だからNさんの研究に期待している。
 いろんな可能性を秘めた人物ではないか、と思えている。

 その亀太郎の埋葬地は、洛東霊明社か、同じく洛東定信院である。
 僕がはじめて定信院を墓参したのは1985年3月28日で、そのころは台石もあり、独立した墓碑だった(写真)。僕は17歳(高校2年生)。

 が、1993年洛北へ移転し、「無縁仏」とかで、台石は取り去られ、一ヵ所に集合させられている。
 
 自分のせいのように思う。
 もっと墓参し、「大事な人だから」とお寺の方を啓発していたらよかったのだ。
 1987年には「過去帳」を拝見し、亀太郎の記載部分を筆写させていただいたこともあったのだ。
(このとき大学1年生)
 
 池田屋事件受難者、吉岡正助(庄祐)の墓碑のことを思い出す(寺町蛸薬師の誠心院)。

 ある写真集には台石のある独立した墓碑が掲載されている。
 が、僕がはじめて墓参したときには、すでに松浦亀太郎の場合と同じく、台石がなくなり、一ヵ所に集合させられていた。

 この人が池田屋事件を語る上で大事なことはわかっているのに、どうして研究者は保護してくれなかったのだ、と悔しくなげいたものだった。

 いま自分にかかってきた。
 後世の人は、1980年代に松浦亀太郎の墓参をしていた研究者がなぜ保護できなかったか、というにちがいない。
 移転計画を聞いたとき、あぶないと気づき、山口県萩市などの有志に働きかけるべきだったのだ。

 申し訳ないことをしました。

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2008.07.11

御土居堀、北西隅が露出

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 近世京都の外郭の土塁と堀、「御土居堀」の北西隅に、二階建てのレオバレスが建ちます。
 その工事にともない、これまでみえなかった土塁が露出しています。

 まもなくまた見えなくなります。
 ぜひ見に行ってください。

 写真は東側から撮ったもの。

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2008.07.10

【講座】幕末史における長州毛利屋敷

 以下の講演会・現地見学会、まだ参加人数に余裕があるそうです。
 主催者から告知依頼をうけたので、掲示いたします。
 どうぞよろしくご参加ください。


幕末史における長州毛利屋敷
  広誠院の特別公開と木屋町幕末史蹟めぐり

 池田屋事件から禁門の変へと歴史が動いた京の熱い7月。
 当時の舞台となった木屋町通りに残る長州屋敷庭園跡の「広誠院」で、幕末史研究者であり、歴史を地理学的に歩いて探求している中村武生さんに講演いただくとともに、現地を歩いて学ぶ木屋町ウオッチングを行います。

【講演会】
と き:2008年7月13日(日)
    午後1時から3時
ところ:広誠院(京都市指定文化財。京都市中京区木屋町通二条下ル西側)
参加料:3500円  定員:40名(要申込み)

【現地見学会】
と き:2008年7月19日(土)
    午前9時から12時
ところ:市営地下鉄京都市役所駅
    改札口集合後、 木屋町通り二条・四条間あたりを史蹟散策
参加料:3000円  定員:20名(要申込み)

 いずれも講師:中村武生(歴史地理研究者/同志社大学嘱託講師)

 お電話でのお問合わせ・お申込みは、
 京都民報社・文化講演会係(荒川)TEL075・256・0901

 メールからもお申し込みできます。
http://www.kyoto-minpo.net/kouenkai/bakumatu.html

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2008.07.09

池田屋事件の日でした

7/8(火)はれ
 本日は池田屋事件の日でした。
 元治元年6月5日は、1864年7月8日です。
 
 もう144年かあ(在世してたみたいに)。
 たまたまいつもの木屋町三条「龍馬」に行った。

 偶然、「ある」決着がついていた。それを知った。
 それが池田屋事件の当夜だった。
 縁である。

 今年は例年とはちがい、野老山吾吉郎(ところやま・ごきちろう)の冥福を祈ってみた。

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「新選組屋敷とたのしみ・事件」

 拙稿「新選組屋敷とたのしみ・事件」(連載企画/歴史の舞台を訪ねて・その2)が掲載された、『京都散策』夏号が刊行されました。

 JR西日本管内の駅改札付近においてありますので(京都駅とか山科駅とか)、
 どうぞご覧ください(無料です)。

 「田中善八日記」の所在不明を記した最初の文章なのでは。
 みつかったらいいなあ。

 田中善八は(葛野郡)不動堂村の庄屋です。

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2008.07.08

風邪から復帰

7/7(月)はれ
 救援部隊が持参した薬を定期的に飲んだためだろう。
 復調してきた。

 朝1番、大谷大学。
 堀川と小川の旧河道をさがしてもらう。

 地図を読めない子が意外に多い。
 そもそも方位がわからんらしい。
 そこから指導すべきだったか。

 終了後、ブランチをしながら、某原稿に立ち向かう。
 またT京R馬会のM川M理子氏をわずらわせた。 
 いつもなんでも助けてくださる。ありがたくってしかたがない。

 K都国立博物館のM川T一先生にお電話。
 某写真の掲載についてお問い合わせする。

 ひきつづきK都府立総合資料館に行く。
 あいにくM田M智子氏不在。

 みたかったもの、すべて岡崎の府立図書館に移管されていた。
 府立資料館(鴨川沿い北山通東入ル)と図書館がまったく別地区にある、困るなあ。
 しかも今日は府立図書館休み。
 なんにもせず、出る。

 F島氏を拝顔し忘れた。

 旧K野郡H塩小路村に行き、某所(ぎりぎり下京かなあ)で学習する。
 某原稿、すすむ。

 午後6時半、きなこの会。
 応仁の乱のはなしをする。
 
 きたる11月2日(日)午前中、篤姫ゆかりの地と推定される、東福寺即宗院で講義・拝観イベントの予定がある。その件で、きなこの会メンバーT島さんと打ち合わせ。

 夜は夜で家で用事。
 健康が1番だ。

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2008.07.07

風邪にたおれる

7/6(日)はれ
 風邪で寝込みました。

 せねばならぬ仕事がありましたが、じっとしていました。
 救援部隊がおこしくださいました。
 ありがとうございました。

 市販の薬でしたが、飲みまして、効いてまいりました。
 ビタミンを取れと、果物も運ばれました。
 素直に食べました。

 夜、楽になったので、大河「篤姫」をみました。
 すてきな夫婦になってきたところで、家定死ぬのですね。
 気の毒なことです。

 もちろんフィクションだらけで、史実考証上のコメントはいたしません。

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2008.07.06

池田屋以後の近藤勇を考えた

7/5(土)はれ
 気候が不快になってきた。

 昨日以来、のどの調子がよくない。
 名古屋市、栄中日文化センターに出講。

 「新選組の手紙をよむ」。
 池田屋事件以後の近藤勇のありようを考える。

 終了後、のどの痛みがきつくなった。
 受講者とのいつもの喫茶をしたのち、急いで帰洛する。

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2008.07.05

『吉田松陰を描いた男―松浦亀太郎の生涯と作品』でどうだ

7/4(金)はれ
 朝、ようやく講談社メールマガジンに「池田屋事件」(第16回)の原稿をおくる。
 今回ほどみなさんにありがたと思ったことはない。
 感謝しております。

 同志社大学に出講。
 やっと8月18日政変まできた。

 長州「尊攘派」の「王政復古」論は、けっして倒幕をともなうのではない、というややこしい話をする。
 もっと整理して語るべきだった。
 ようわからんかったというご意見、続出。反省。

 いつもの受講者との喫茶あり。
 「若さ」をいただいている。ありがたい。

 松浦亀太郎(松洞)の研究を卒論にしようという、Nさんのお仕事に舌をまく。
 細かい。

 これは活字にしたほうがよいな。
 出版も可能ではないか。

 『吉田松陰を描いた男―松浦亀太郎の生涯と作品』という書名でどうだ。
 どちらか立候補されませんか。

 午後からキャンパスプラザで「くずし字入門」。
 まだ板倉周防21か条を読んでいる。
 うまい文章じゃないなあ。とても理解しにくい。

 Y石材店にむかう。
 碑銘のゲラを提出するため。

 建碑までもうまもなくだ。

 旧U郡I村に建設中の家屋をみにいき写真を撮る。
 だいたい週1回ぐらいのペースで定点観測をしている。

 洛中にまいもどって、近衛小路の某ショップに衣装をみにいく。
 
 そのあと友人H氏をともなって、いつもの木屋町三条「龍馬」へ。
 K都国立博物館のM川T一さん、H野市立S選組のふるさと歴史館のF井K夫さんと密談をする。
 といっても、からあげとチーズケーキのはなしが多かったが。

 すこしのどの調子がよくない。
 今夜はウーロン茶に徹する。

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2008.07.04

近江屋新助と菊屋峯吉を墓参する

7/3(木)はれ

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 蒸し暑い日。

 昼から珍しく、御土居堀を考える講座を実施。
 多数のご来場者あり。

 午後3時、京都龍馬会メンバーとの墓参を約束していた。
 金戒光明寺の近江屋(井口)新助(写真)、知恩寺の菊屋峯吉(鹿野(かの)安兵衛)。

 実はいずれもはじめて。
 多忙きわまりない状態だが、いい機会なのでうかがう。
 知らなかったことをいくつか知れた。

 夜、いつもの木屋町三条「龍馬」でしめきりすぎてしゃれにならない原稿を打つ。
 ありがたい。深夜、ほぼ完成する。

 自宅にもどり最後の推敲をしながら、力つきる。

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2008.07.03

たいへんな状態。しめきりの山。

7/2(水)
 いろんな仕事、ひきうけすぎた。
 大変な状態。しめきりの山。

 やむをえない。
 担当の方々には御迷惑をおかけすることになるが、どうかお許しください。

 ひきうけたことは後悔していない。
 そうでないと、コトはなせないのである。

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2008.07.01

長井雅楽と島津久光の再学習

6/29(日)あめ
 めずらしく大雨がふっていた。

 同志社大学の講義で、文久2年(1862)の長井雅楽および島津久光論を展開中。
 自身の理解に不足があることがわかり、再学習をいたす。

 高橋秀直の論集にくわえ、芳即正さん『島津久光と明治維新』を読習。
 中原邦平『忠正公勤王事蹟』も点検。もちろん『長井雅楽詳伝』も。こちらは史料として活用。
(故人の敬称略)

 拙宅の蔵書は充実してきたなあ、と思ったものでした。

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