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2008.05.01

松田聖子と中森明菜、を読んで

4/30(水)はれ

 午前中、京都女子大学に出講。
 法住寺殿跡をあるく巡検、その2(B班)。

 A班とすこし違うルートをとった。
 これはこれでおもしろい。

 最後はいつもどおり後白河天皇陵。
 「大阪皇陵巡拝会」の標石のはなしができず、残念。

 夕方、佛教大学に出講。
 が、講師室まっくら。
 休講だった。

 今日は平日なのだが、連休中ということで一斉休講らしい(なぜか補講期間中)。
 へー。
 年暦表の見落としである。だから僕がわるいのである。

 実害がほとんどない大学でよかった。歩いて帰る。

 夕方から夜にかけて、しなければいけない用事がゴマンとあるが、コーヒー店で新書1冊、一気に読み上げる。

 タイトルは、中川右介氏『松田聖子と中森明菜』(幻冬舎新書)。 

 学術書ではないが、実におもしろかった。
 自分史を考える上できわめて興味ぶかかった。考えること大であった。

 著者の意図とは別と思うが、すでに自分たちが歴史のなかにいるのだと感じさせられた。

 明日からのガソリン暫定税率の復活の騒動。身近でも感じた。
 どのガソリンスタンドでも車がいっぱいだった。
 この日のこと、車を運転する方々、みなさんわりとながく記憶していると思う。

 暫定税率の復活、まもなく歴史年表に載る。
 載ったとき、ああ、あの日のことか。
 そのとき自分がなにしてたか覚えていれば、歴史のなかの自分が感じられる。
 
 一般的に歴史のなかの自分って意識しにくい。
 今回のことは政治と生活がとくに密着していてわかりやすいと思った。

 そんな日にこの「松田聖子と中森明菜」論を読んだので、よけいに感慨深かった。

 本に出てくるできごと、大半知っていた。
 なぜなら僕の青春時代そのものだから。

 で、その松田聖子と中森明菜はすでに歌謡史はおろか、日本文化史の一員といってよい存在である。
 自分の青春が歴史に位置付けられていることを感じて興味深かった。

 僕がふだん専門としている歴史地理や史蹟論って、「現代」の研究だと思っている。
 現代からの歴史学の描き方、自分の歴史叙述のあり方を考えてしまった。

 とりわけTBS「ザ・ベストテン」、「オリコン」などのデータ、松田聖子・中森明菜関係のタレント本の一節をつぎつぎと引用される叙述法は、僕らの手法とまったく同じだったので、よけいに親近感を覚えた。

 ただその典拠を僕は全く所有していないので、内容の吟味ができないのが残念。

 『夢で逢えたら』とか『聖子20歳』とか『本気だよ』とか、知っているけれど読んだことがない。
 「ザ・ベストテン」の毎週の順位をメモしていないし、「オリコン」もほとんど購入していない。

 僕は同時代の方々がいう「聖子派か、明菜派か」という議論にはまったく乗れない1人だった。
 どちらのファンでもなく、いまから振り返れば、その横にいる3番目以降のタレントへの関心がつよかった。

 が、時間が過ぎ、自分が支持したタレントのほとんどがリタイヤするか、当時のスタイルを変えてしまった。
 支持したものとして、残念でならない。
 
 そんななか、この両人、とりわけ松田聖子の歩み方は、同時代人のひとりとして、憧憬に値する。
 ディナーショーで「赤いスイートピー」を聴くまで死ねないとさえ思っている。

 それゆえに本書を手に取ったわけだが、くどいがおそらく著者のねらいとは別のところで感銘をうけた。

 気持ちのよい読後感だった。

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