鞆ノ浦で三条実美をあつく論ず
2/9(土)小雨
鞆に滞在中。
午前10時から、国重要文化財「太田家住宅」(県史蹟「鞆七卿落遺跡」)で、三条実美のおはなしをする。
お招きくださったのは、太田家住宅を守る会代表の大井幹雄さん。
建物のなか、ひな人形がたくさん。
参加者募集いっぱいの35名以上。
もちろん地元の方が多いのだが、すくなくとも京都からお2人おこしだった(中村ゼミの常連さん)。
よくぞここまでおいでくださいました。
鞆ノ浦は三条実美ら七卿がすくなくとも2回滞在している。
1度は文久3年(1863)8月の政変の直後、京都から周防三田尻へむかう途中。
2度目は翌元治元年(1864)7月、長州の上洛戦の際、後続部隊に所属し京都へむかう途中。
が、京都にたっする前に「禁門の変」がおきて、先発隊が壊滅。
ゆえに鞆付近でユーターンする。
このいずれにも休憩所として使用されたのが旧中村吉兵衛邸。
(1度目の出典は、東久世通禧・田中有美『七卿回天史絵巻(旧書名「三条実美公履歴」)』71ページ、マツノ書店、1994年)
(2度目の出典は、『尾崎三良自叙略伝』上、67ページ、中公文庫、1980年)
それが、国重文太田家住宅(県史蹟鞆七卿落遺跡)として現存。
そこを会場とされた。
七卿が座ったであろう部屋で、「三条が、東久世通禧が」と述べる光栄。
忘れがたい日となった。
これまでほとんど関心をもたれていなかった三条実美について、近年実証的研究が進んだ。
笹部昌利「幕末期公家の政治意識形成とその転回―三条実美を素材に」(『佛教大学総合研究所紀要』8号、2001年)
仙波ひとみ「『国事御用掛』考」(『日本史研究』520、2005年)
同 「幕末朝廷における近臣―その政治的活躍のメカニズム」(家近良樹編『もうひとつの明治維新』有志舎、2006年)
などだ。
今回大きく依存、勉強させていただいた。
が、大物三条を語るには、なんといっても時間がたりなかった。
今回はほとんど七卿落までで終わってしまった。
流浪中の重要性については、また機会をあらためたいと思っている。
山陽新聞と中国新聞の記者がおこしだったので、明日の朝刊に載るのではないか。
終了後も熱心な参加者と懇談。
大井幹雄さんのご好意で、普段非公開の朝宗亭も立ち入らせていただいた。
終了後、「龍馬の宿」へ。
NPO法人鞆まちづくり工房の松居秀子さんを尋ねる。
本日の講演もおこしいただいていた。
喫茶しながら、鞆港の埋め立て架橋計画問題の現状をうかがう。
まことにあぶない状態。
今回白紙の反対署名用紙をたくさんあずかってきた。
各所でご署名をお願いすると思いますが、どうかご協力をお願いいたします。
もう一泊して、いろいろしたかったが、締め切りすぎて矢のような催促をうけているものが少なくない。
帰洛をいそぐ。
バスや電車のなかでひたすらグーグー寝る。
京都についてびっくり。
北大路通の歩道に雪が積もっていた。
日中に大量の降雪があったらしい。
そのすごさが想像できた。
そういえば、新幹線のなかで電車到着おくれが知らせていた。
ぴんときていなかった。
在京してなくてよかった。
おそらく動きがとりにくかっただろう。
| 固定リンク