今週の篤姫「薩摩分裂」感想
1/20(日)あめ
嵯峨野学芸倶楽部に出講。
雨なのに、なんと27人も受講。おそらくこれまでで最高。
ずっと赤字だった。
関係者のご苦労のかいがあったと思える。
嵯峨野のはなしをする。
終わってから有志の方々となじみのコーヒー店「スマート」で軽食し蚕の社に行く。
ふたつの道標をあじわう。
また雨。
今年は「はれ男」返上かもしれない。
帰りは出来たばかりの「太秦天神川」駅から地下鉄東西線に乗る。
夜、NHK大河ドラマ「篤姫」第3回をみる。
諸問題あることはわかるが、けっこう楽しんでいる。
ひとつだけ指摘しておく。
今回、島津斉興が隠居し、斉彬が島津家当主(いわゆる藩主)に就任した。
これは嘉永4年(1851)2月のことだ。
ドラマでは今回、斉彬は御国入りし(同年5月)、篤姫の父(忠剛)と語るなかで篤姫の存在を思いだしたシーンがあった。
次回、実際篤姫に会うらしい。
まだ篤姫の家定(家祥)夫人としての入輿は話題にならない様子。
が、事実はそうではない。
家定(家祥、まだ将軍候補者)の2番目の妻(二条氏)が亡くなったのが、嘉永3年(1850)2月。
この直後から3番目の妻さがしが始まる。
嘉永3年(1850)11月7日、斉彬から伊達宗城(ドラマでは森田順平氏)宛書簡に、
島津斉興の隠居がおくれたら、「例の西簾のこと」に大変差し支えるといっている。
「西簾」は「西ノ丸の簾中」の略。
すなわち「家定(家祥)の夫人」の隠語である。
(芳即正氏『島津斉彬』190ページ、吉川弘文館)
つまり昨日のドラマの段階では、すでに斉彬のなかで家定(家祥)の後妻問題は進んでいた。
篤姫の存在も充分しっていたであろう。
今回、近衛忠煕も初めて出てきたが、斉彬に金の無心をするたよりない公家として描かれていた。
が、この段階では近衛忠煕も家定(家祥)の再婚計画を知っており、島津家の姫がいるなら自分の養女として入輿させたいと自ら望んでいる
「薩州家女モ御座候ハヽ私養女ニイタシ御縁組願度存マシ候」
(芳即正氏が嘉永3年もしくは4年の春と推定の書簡部分、近衛忠煕⇒島津斉彬か。同氏「天璋院入輿は本来継嗣問題と無関係」『日本歴史』551号、97-98ページ、1994年4月号)
ドラマでこの話題が出るのは9話「お姫様教育」(仮題、3/2)らしい。
その段階で「内密に進めてきた」とサプライズとなる由。
いつから考えていたことにするのだろう。
家督相続以前からというつもりだろうか。
無理があるなあ。
篤姫の名前(当時はかつ)やその具体的な個性も知らなかったし、近衛忠煕とそのような話題をしなかったからね。
念のため、お伝えします。
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