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2007.11.29

京都女子大学の受講者と巡検する

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 いま気づいたら、ブログランキング5位になっていました。
 いつもいつもありがとうございます。
 感謝いたします。

11/28(水)はれ
 京都女子大学へ出講。
 前回にひきつづき、巡検にゆく。

 馬町十三重石塔を考える会。

 今回は教室に集まって講義開始20分経過してから出発。
 それでも20人も集まらず。
 巡検人数としては都合はよい。

 前回解散した後白河天皇陵にふたたび行き、そこからはじめる。
 
 馬町十三重石塔が現存する京都国立博物館の敷地に入る。
 建物には入らない。
 庭の石塔だけみる。
 銘文を読んでみる。

 京都女子大学生は学生証をみせれば無料で入館できるのだ。
 この制度を利用した。

 入館料を払ったのは僕だけ。
 
 正面通りから伏見街道へ出る。
 伏見街道は古代・中世の法性寺大路に擬される。
 
 法性寺大路と汁谷越え(渋谷街道)の交点に、六波羅南門があったと山田邦和博士が推定されている。
(野口実さん「法住寺殿造営の前提としての六波羅」231ページ、高橋昌明編『院政期の内裏・大内裏と院御所』文理閣、2006年)。

 だからその南門跡、すなわち伏見街道と渋谷街道を交差点を右折(東行)して、馬町十三重石塔の旧所在地へむかう。

 街道に道標があり、その奥(北側)に旧地を示すさまざまなものがある。
 馬町十三重石塔はもちろんだが、今回はその「さまざまなもの」が重要でやってきた。

 馬町十三重石塔は佐藤嗣信・忠信の墓と伝承されてきた(都名所図会など)。
 それを現在までひきついできたのが、前記の道標など、近代の「佐藤」さんの顕彰事業だ。

 その佐藤は、ただしくは佐藤政養という。
 幕末には佐藤与之助といい、坂本龍馬とともに勝海舟の神戸海軍操練所を支えたひとりだ。
 
 龍馬は禁門の変のあと勝のもとをはなれたが、佐藤はずっと勝海舟のそばにいた。
 そのあたりのことは、松浦玲さんの『検証・龍馬伝説』(219~276ページ、論創社、2001)に詳しい。

 佐藤与之助政養は維新後、初代鉄道助となり、初期鉄道事業の功労者となる。

 与之助政養は実は東北の出身。
 佐藤嗣信・忠信の子孫と家伝されてきた。

 だから先祖の墓とされる馬町十三重石塔を京都でみつけ、整備した。
 こまかいことに、先祖の墓の修復ではなく、実父の碑を建てたのだ。

 与之助政養の子清治郎は、さらに与之助政養の碑も建てた。
 こうして馬町十三重石塔は、佐藤政養一族の由緒づくり(史蹟創出)の施設として機能をはじめたのだった。
 
 ただ残念なことに清治郎の子(与之助政養の孫)がそれを破棄した。
 すなわち馬町十三重石塔を他人に売却してしまったのだ。

 このあたりの経緯は『初代鉄道助佐藤政養』(81~91ページ、私家版、1965年)に詳しい。
 
 こんなはなしを現地でした。

 いま渋谷街道沿いにあたらしい家が建とうとしている。
 しばらくすると、渋谷街道からは佐藤与之助と父の碑が見えなくなってしまう。
 いまのうちに写真をお撮りすることをおススメします。

 うれしいことがあった。
 街道沿いには、前記与之助の子清治郎が建てた道標があった。
 建物建設の真横にある。
 じゃまだろう。

 こういうとき、多くの場合、抜き取られる。
 運がよければまたもとに戻してもらえる。

 が、そうでなければ、破棄される。

 こうして道標や石碑は消滅してゆくのだが、今回はちがった。
 そのまま建っている。
 それだけではない。

 ビニールカバーがなされ、工事で発生する汚れが石につかないよう措置がされていたのだ。

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 感動した。
 ステキな工務店にちがいない。
 
 このことを明日が楽しみな京都女子大学の受講生さんに伝えて解散とした。

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