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2007.10.31

長州毛利家が東照宮を勧請していた

10/30(火)はれのちあめ
 基礎からまなぶ日本歴史に出講。

 鎌倉時代、「霜月騒動と永仁の徳政令」を論ずる。
 専門でもなんでもないが、聞き上手のみなさんに支えられる。

 あいかわらず前半は最近の「個人ニュース」紹介。
 いま東照宮にとても関心をもっている。

 長州毛利家が東照宮を勧請していたこと、まったくしらなかった。

 関ヶ原以来徳川を敵視し、元旦には徳川打倒を話題にしていたという有名なエピソードももつ毛利家。
 だから念願かなってついに倒幕に成功した。

 そんな毛利家が神君家康を神様として祀っていた。
 毛利家がずっと倒幕を考えていたなんてウソだ。
 むしろながく徳川を恐れていた。
 だから東照宮の勧請は充分ありえることである。

 が、そんな事実、恥ずかしくて人にいえない。
 だから維新後に抹殺した可能性がある。

 それをあばけたらとおもしろいのにと、ある先生からいわれたことがある。
 ほんとうだ、あばいてみたいものだと思っていた。

 いえいえすでに明らかにされていたのだ。
 
 高藤春俊さん『家康公と全国の東照宮』東京美術、1992年
 中野光浩さん「諸国東照宮の勧請と造営の政治史―長州藩と秋田藩の事例を中心に」(山本信吉ほか編『社寺造営の政治史』思文閣出版、2000年)

 はずかしいことだ。
 でも、やっぱりそうだったか、という思いもつよく、うれしさもある。

 なおだれでも知っていたこと、ということではなかった。
 歴史地名辞典の金字塔、平凡社の地名(『山口県の地名』)に東照宮の記載がなかった。

 だから知らなくてもしょうがないのかもしれないけれど、でもショックだった。

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2007.10.30

地理学的視点になっていたことにきづいた

10/29(月)はれ
 朝1番、大谷大学へ出講。

 ここでも幕末志士の居所論。
 なぜ志士は「そこ」に集まるのか、というはなしで、大仏(方広寺、妙法院)、河原町三条、今出川寺町界隈を例に薩・長・土をとりあつかう。

 これについては『京都民報』の連載でふれたし、近刊の『京都の江戸時代をあるく』(文理閣、来年3月刊行予定、価格1500円ていど)のなかに掲載される。

 このことを検討していた際、多くのご教示を下さった、歴史作家にして歴史研究者といってもよい桐野作人さんも南日本新聞の連載で、今出川の薩摩関係者の居所論を展開された。

 今回、両方を参考文献に講義したのだが、今回読み直していておもしろいことにきづいた。
 おなじものをみているのに、桐野さんと僕のアプローチの手法がちがうのだ。

 桐野さんは純然たる歴史からの関心なのだが、僕は地理学的関心である。

 歴史学からの歴史地理の大事さを説いてきたはずなのに、自分が地理学の立場から語っていたのだ。
 すなわち現代とは直接関係のない過去の検討ではなく、「現代の場所」への疑問から、過去にその意味をさがしにゆくというスタイルだ。
 
 自分のことなのに、おどろいた。

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2007.10.28

洛中から愛宕郡に戻りすぐ宇治郡へ

10/27(土)あめ夕方くもり
 本日は吉田松陰の祥月命日(安政6年(1859))。
 現在の暦では11月21日なんだけれど、どうしても10/27に反応してしまう。

 午前中、京都新聞文化センターへ。
 京都観光講座に出講のため。
 幕末の京都についてはなせということなので、志士の居所論を展開した。

 あまり夜眠れなかったので、終わってからへろへろになりながら帰宅。
 ほっとしたところで、O谷大学のK端Y幸さんから電話。

 あっ、すぐきづいた。
 忘れてた。午後から山科本願寺・寺内町を考える市民の会の講演の日だった。
 司会役だったが、いまからではまにあわない。
 司会をお願いする。

 着いたのは1時間強ののち。
 今回は前田哲哉本会事務局長のおはなし。
 途中から参加。

 山科寺内町跡に残る地名の検討をされていた。
 大半が根拠希薄であるが、宇治郡誌や山科町誌などの地誌にもまとまって論じられたことがほとんどないので、こういうお仕事はあるべきだと思った。

 みなさんとお別れしてからひとりで喫茶店に入り、手に入れたばかりのあるビジネス関係の新書を読む。
 読みやすかったのと、関心があるネタだったので、2時間半ほどで読了する。
 刺激になること多し。

 帰宅後は、来週の京都検定日めくりドリルに立ち向かう。
 日がかわるころ完成、担当Yさんにお送りする。

 ビールを飲まなくなってから、仕事が進むこと進むこと。
 いいことだ。

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2007.10.26

伏見城跡をあるき映画撮影に出会った

10/26(木)くもり
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 京都新聞文化センター「京都の江戸時代」に出講。
 今回は現地見学会。

 3ヶ月・6回講座の半分を現地見学会にあてる。
 はじめてのこと。
 まず教室でお話し、翌週その現場にたつ。
 ある意味、理想的な講座だ。

 今回は伏見城・城下町をあるいた。
 古図と現代の地図をもって、「ここは前田利家だ、山内一豊だ、伊達政宗だ」とさまざまな大名屋敷跡をご紹介してゆく。

 丸の内にちかづく。
 今回めずらしいところでは、最近三の丸跡から出土した石垣が桃山御陵ちかくに路傍展示してある。
 島津家のものと思われる「丸に十」刻印があった。

 途中、周知の郷土史家F林武さんとS母短期大学の先生方ご一行とばったり。
 F林武さんとは寺田屋調査をしていたときにも、駿河屋の前でばったりあったことがある。
 よほど縁があるにちがいない。
 
 石田三成屋敷跡推定地に隣接する治部池をのぞきこむ。
 せっかくだから(旧桃山城の)模擬天守がちかいので立ち寄ってみる。

 ちょうど淀殿をテーマにした、東映の正月映画の撮影をしていた(写真)。
 いま(旧桃山城の)模擬天守が、大坂城天守にみたててお化粧なおしされている。
 
 興味がないわけではないのでおそるおそる遠巻きにみていたが、よく考えたら公園での撮影だからちかづいていいのだった。邪魔にならない範囲では。
 で、けっこうちがづく。
 主役の元宝塚出身の俳優さんが車で動かれるのもみた。
 名前をきいても知らない人だったのが残念だった。

 4時までの予定だったのに、けっきょく城下町の外郭・惣構の土塁・堀跡まであるいたので、近鉄・京阪丹波橋駅についたとき5時をすぎていた。

 でもみなさんご熱心で、クレームもなく楽しそうにお付き合いくださる。
 今回もこれまで気づかなかったことにきづけたりして、僕も勉強になりました。
 あつく御礼申し上げます。

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2007.10.22

基礎からまなぶ日本歴史、誤報訂正

 基礎からまなぶ!日本歴史、受講のみなさまへ

 本日、京都新聞朝刊に、
 明日10月23日(火)に「基礎からまなぶ!日本歴史」が行われると報じられましたが、マチガイです。

 予定通り、10月24日(水)12時30分~13時40分に行います。
 ご迷惑をおかけいたします。
 よろしくお願いいたします。

【次回以後の予定】
10/30(火) 午前12時30分~午後1時40分 於キャンパスプラザ第3・4演習室

11/6(火) 午前12時30分~午後1時40分 於同第3・4演習室

11/13(火) 午前12時30分~午後1時40分 於同第3・4演習室

11/20(火) 午前12時30分~午後1時40分 於同第3・4演習室

11/27(火) 午前12時30分~午後1時40分 於同第3・4演習室

12/4(火) 午前12時30分~午後1時40分 於同第3・4演習室

12/11(火) 午前12時30分~午後1時40分 於同第3・4演習室

12/18(火) 午前12時30分~午後1時40分 於同第3・4演習室

12/25(火) 午前12時30分~午後1時40分 於同第3・4演習室

来年1/15(火) 午前12時30分~午後1時40分 於同第3・4演習室

1/22(火) 午前12時30分~午後1時40分 於同第3・4演習室

1/29(火) 午前12時30分~午後1時40分 於同第3・4演習室
(以後も継続)

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1213歳、おめでとうございます

 おたんじょうび、おめでとうございます。

 本日は平安京誕生日です。
 1213歳になられました。

 延暦13年10月22日(西暦794年)、遷都されました。
 公的な祝賀行事は「時代祭」ですが、僕は私的にどこかでお祝いをいたしましょう。

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2007.10.20

天誅組志士の遺品を手にする

10/19(金)あめ
 朝、奈良県吉野郡川上村にむかう。
 同村をフィールドにする友人、K田K美子氏の自家用車に便乗して。

 幕末の大和を震撼させた天誅組の乱にふかい関心がある。
 いま抱えているいろいろな仕事をおえたら、つぎに立ち向かいたい対象。
 不定期にその旧蹟をあるいている。

 川上村の伯母谷は、天誅組が壊滅直前に立ち寄った場所。
 そこに、重病のため本体から遅れた久留米出身の小川佐吉を匿った洞窟がある。
 なづけて「天誅窟」。

 以前から行きたかった。
 が、けわしい山腹にあるので案内者がいないと困難。

 今回、K田K美子氏が尽力くださり、地元の方に案内してもらうことになった。

 が、朝から雨である。
 
 向かっている途中、案内をお願いしていた方から電話が入り、延期といわれる。
 残念。
 よほど縁がないようだ。
 スケジュールぎっしりのため、本日をのがすとしばらくうかがえない。

 が、引き返さない。
 もう一件、お約束をしていた。

 おなじく小川佐吉が匿われたとされるN氏方である。
 
 ひとり暮らしのご婦人、おひとりでお迎えくださる。
 小川佐吉使用とされる、兜、槍、鉄砲などを拝見する。
 
 N氏方のことも、そこに遺品が保存されていることも、今回K田氏に教えていただくまで知らなかった。

 天誅組研究の古典にして名著、久保田辰彦氏『いはゆる天誅組の大和義挙の研究』にも、近年刊行の吉見良三氏『天誅組紀行』にも記載がなかったから。

 これらの研究により、別の場所に残されていた小川の遺品は、維新後、小川の遺児に返されたと知っていた。
 だから小川の遺品はもう大和にはないと思っていた。

 実は、N氏方のことが過去にまったく報告されていなかったわけではなかった。
『吉野郡史料』にちゃんと記載があった。
 中谷順一氏編『こうだに誌』(奈良県吉野郡川上村上谷区、1986年)によって本日知った。 
 恥ずかしいことだ。

 いわば賊徒といえる小川佐吉を匿いつづけた村民の意図がわからない。
 彦根勢など追討軍がきたとき、通報したらいいじゃないか。
 もし隠匿がばれたらお上の罰をうけるではないか。

 これを「残念さん」信仰を検討した井上勝生さんなどの成果に便乗し、真正面から攘夷をかがげる長州毛利家への敬意と理解している(同氏『幕末維新政治史の研究』塙書房、202-215ページ)。

 が、本当にそれでいいのか。天誅窟に入って考えようと思っていた。
 また次回だな。 

 小川佐吉はせっかく完治したのに、また危険な世界へ飛び込んでいった。
 
 宮田半四郎と名を変え、長州毛利家に仕え、鳥羽伏見戦争に戦死するのだ。
 助けた村民はこれを知ってどう思ったのだろう。

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2007.10.16

大政奉還論の先駆を論ずる

10/15(月)はれ
 午前9時、大谷大学に出講。
 なぜ地理学からではなく、歴史学からの歴史地理学研究が必要か、洛東大仏南門の坂本龍馬の居所をつかって論じる。
 わかってもらえただろうか。

 午後2時30分、佛教大学に出講。
 こちらは反対。
 地理学からの歴史地理学はどうあるものか、というはなしを「御土居堀」をつかって論じる。
 新旧の都市計画図に色鉛筆でぬりえをしてもらう。

 かなり「姿勢」についてうるさく言ったので、教室にいた子らはほぼ全員立ち向かってくれたようだ。

 午後6時、木屋町蛸薬師の「龍馬」(京都龍馬会本部)へ出講。
 寺子屋龍馬の3回目。

 大政奉還論は龍馬の独創ではない、大久保一翁にはじまるというのを原典にあたりながら論ずる。
 今回は松岡英夫さんの『大久保一翁』(中公新書)にたよるところ大。名著だと思う。
 
 終了後、たこやきパーティ。
 ここでもビールをいっぱいしか飲まず、ウーロン茶ばかり飲んでいた。
 あんなに好きなビールなのに、飲めなくなった。
 このまえは、金曜日にやはり一杯だけ飲んだだけ。

 不思議だが喜んでいる。

 京都龍馬会の機関紙『翔天隊通信』(季刊)に、「龍馬とお龍の幕末明治」(仮タイトル)を連載することになった。
 視点はお龍。お龍の伝記の形をとりつつ、龍馬の晩年とその死後を論じようと思う。

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2007.10.15

小学生と上醍醐に登る

10/14(日)はれ
 朝9時30分、醍醐寺勅使門前につく。
 山科・醍醐こどものひろばのイベントに参加のため。
 山科・醍醐のお子さんに、同地域のよいものを伝えるNPO法人である。
 史蹟担当として、昨年から参加している。

 本日は上醍醐に登ることになった。
 今回のイベントはお子さんといっしょに親御さんも参加される。
 誰にむかって話すか、悩む。

 僕にとってのこのイベントの参加意義は、難しいことがらをいかにやさしく簡潔に伝えるかの実践。
 比喩が通じにくい小学生に伝えることができるなら、誰にでも可能となる、という見込み。

 いろいろ思うことあり。
 
 とにかく楽しく、勉強になった。

 自分のしゃべりはまだまだ不十分で、課題だけが残ったが、大人たちには好評のようだった。
 また聞き上手の方々に助けられた。
 いかん。
 

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2007.10.14

京都観光ガイド養成講座に出講する

10/13(土)はれ
 京都新聞文化センターに出講。
 いつもの「京都の江戸時代」ではなく、「京都観光『ガイド塾』」という講座。
 
 山田邦和博士や、京の年中行事研究会の原澤一夫さんとのリレー形式。
 僕は「江戸時代の京都」と「幕末の京都」。

 「江戸時代の京都」でレジュメをつくったのだけれど、直前に「京都観光ガイド」としての心得と知識みたいな内容にしたくなる。
 で、レジュメとは大幅にちがう内容にした。
 問題かとも思ったが、けっこうウケた。

 予定にしていたものは次回に持ち越すことにした。
 幕末史といっしょに語ります。

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2007.10.11

また晴れた!方広寺旧境内巡検

10/10(水)
 昨夜、本日の午前中、雨のふる可能性は50パーセントだった。

 あれ、これなら雨がふることはまちがいない。

 9時から、京都女子大学の大仏方広寺旧境内の巡検を予定している。
 困ったことだ。

 晴男を自任するわたし。
 今年に入ってから傘をさして巡検したのは1回だけ。
 残りの数十回、すべて晴れ。
 たまに小雨か小雪があるが傘をさすほどでもないものばかり。それも巡検中にやむ。
 今回はダメだと思った。

 本年2度目の雨か。

 が、今朝おきてびっくり。
 晴れている。
 なんと。

 あついぐらいだった。
 ここまでくると偶然とはいいきれない(偶然だけど)。
 
 傘をささず、33人の参加者と大仏方広寺旧境内の四至(東西南北)をまわった。
 意外なところに石垣が生きていることを感じてもらった。

 2か所ゲリラ的なことがあったが、それも貴重な思い出になるでしょう。

 年配の受講生とはちがい、無反応が多い最近の若い大学生。
 でも本学の受講生はありがたいぐらいいい反応。いっぱい笑ってもえらた。
 ほーとか、ええーとか、みなさん聴き上手だ。

 終了のさい、一斉に「ありがとうございます」といわれた。

 最近ほとんど記憶にない。気持ちがよかった。
 こちらも案内して楽しかったです。
 ありがとうございました。

 また来週会いましょう。
 今度は教室です。

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2007.10.09

祝日なのに大学講義はある

10/8(祝・月)あめのちはれ
 今日が祝日と忘れてた。

 だって大学の講義はちゃんとあるもの。
 
 午前9時、大谷大学に出講する。
 京都の史蹟論を前提に、坂本龍馬の史料論。
 ある史蹟の是非をめぐって。
 反応はうすいが、まあいいか。

 昼、ファミリーレストランでランチ。
 このときである。祝日だときづいたのは。

 「ランチ」メニューがなかったのである。
 あ、そうなのか。

 午後2時半からは佛教大学に出講。
 こちらは京都惣構論。
 そろそろなあ、こちらも集大成論文書かないとなあ、授業の準備しながら思った。

 最近、あるきっかけで日常アルコールを受容することをやめた。
 禁酒ではない。
 人と会うときは飲む。
 が、たしなむ程度。
 昨日も今日も飲まなかった。
 苦にもならない。

 いいことだ。
 金はかかるし、体にも悪いし、時間もとる。
 40歳を機にあたらしい世界に進んでいくような感じがする。
 
 きのせいかもしれんが。

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2007.10.08

曼殊院はもと内裏のそばにあった

10/7(日)はれ
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 おもいついて、曼殊院(まんしゅいん、京都市左京区一乗寺)に参拝した。
 恥ずかしながら実ははじめてのこと。

 いま北野上七軒のシンポの準備をしている。
 曼殊院は北野天満宮の別当職だった。
 いわば北野天満宮の「殿様」だ。
 中世の同宮関係文書や記録に多数登場する。
 どうしてもその地に立ちたかった。

 おどろいたのは、偶然「黄不動」の特別拝観中だった。
 すごい。呼ばれたにちがいない。
 そのせいか人が多かった。それには閉口した。

 ステキな建物・庭園だった。
 1度で好きになった。

 もうひとつ恥ずかしいことを知った。
 曼殊院はずっと一乗寺に所在していたと思っていた。
 だから北野社からえらい離れているのに、門前町の人などよく通うなと、古記録読みながら思っていた。

 とんでもない。
 実は江戸前期までは洛中にあった。
 場所は現京都御苑のなか。

 内裏(京都御所)の北東角、猿ヶ辻の東わずか数十メートルのところ。
 こりゃ北野から近いわ。
 今出川通をまっすぐ来たらすぐや。

 帰宅して、江戸前期の絵図「京都図屏風」や「洛中絵図」などで確認した。

 不勉強でした。
 でも現地に立ったので無知をひとつ克服できました。
 ありがたい日になりました。

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2007.10.07

堀川院跡に立ち名古屋市にむかう

10/6(土)はれ
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 本日は午後1時から、名古屋市の栄中日文化センターに出講しないといけない日。
 その準備に時間がかかって、出遅れた。

 実は10時から11時、堀川通御池の旧城巽中学で、堀川院跡の現地説明会がある。
 遅刻したくないという思いがつよくあったが、ひと目でも拝見することがどれだけ意味深いかを知っている。
 だから奥の手を使い、11時ちょうどに現場に入った。

 20分ほど滞在した。
 やっぱり来てよかった。調査区が広いので、壮大な庭園をイメージすることができた。

 新幹線も11時35分のひかりに乗れた。
 問題なく中日ビルにも入れた。

 受講者、今回は約30人。
 前回より多い。
 京都からおこしの方もあった。
 驚いた。

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2007.10.06

よい誕生日であった

10/5(金)はれ
 40歳になったことを公示したところ、たくさんの方からメールやハガキでお祝いを頂戴しました。
 この場で恐縮ですが、御礼申し上げます。

 本日ついに同志社大学の講義が始まった。
 先週は講義がないのに来校したとのべた。
 それを教室でお話したらウケた。よかった。

 近世の交通路と道標を論ずる。
 交通路の変遷をしることは、たんに交通の歴史をまなぶだけではなく、都市の盛衰の意味を理解することにも通ずる。
 だから意義深いので3ヵ月お付き合いくださいという。

 午後から奈良県天理大学に出講。
 こちらは幕末大和の歴史地理なんていうのを講ずる。

 取り扱うは天誅組の乱。
 さて楽しみ、楽しみ。

 先週の印象がよかったようで、60人ほど好意的に受講してくれる。
 反応もよい。3ヵ月楽しそうだ。
 
 夜、2か所から講演依頼がある。
 おお、なかなか同日に重なることは少ない。
 すごい、すごい。

 帰宅すると、宅配荷物の不在票が入っていた。

 「例」の本だ。
 なんと今日届いていたのだ。

 誕生日プレゼントみたいだ。

 手には出来なかったが、とてもうれしい。
 よい誕生日だった。

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2007.10.05

40歳になりました

 本日、誕生日。
 40歳になりました。

 むかし40歳になっても大学の専任教員になれなかったら、その道をあきらめるといった方があった。
 そんなものかと思っていましたが、自分が40歳になって思うのはちがうこと。

 40歳になってもやっていけていることを、そのさきもあきらめる必要はない。

 昨日より今日より、明日が楽しみだ。

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2007.10.04

古高俊太郎は非常勤職員だった

10/3(水)はれ夕方一時雨
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 朝1番、京都女子大学へ出講。
 大仏方広寺を論ずる。

 次回その巡検。
 今週休まれた方、次回は教室での講義はありませんので注意ください。

 午前8時50分、東山七条交差点東側、智積院前に集合です。
 いうまでもありませんが、受講者以外はお越しになりませんよう。

 昨日とても楽しい酒席があった。
 その「名残り」があり、頭痛がする。
 頭をおさえながら、喫茶店で「新撰組より差出候書付写」(古高俊太郎の供述書の良質な写本)の原文を翻読する。
 つづいて12時30分からキャンパスプラザ京都のくずし字入門に出講するので、その予習。
 
 菊地明さんほか編『新選組日誌』上巻(新人物往来社)に全文が翻読されていて、とてもありがたいが、誤読や注記なしの文字の変更が多い。
 内容を大づかみでつかむには便利だが、残念ながら「研究」には使えない。

 それゆえ国会図書館から原文の紙焼きを手に入れて読んでいる。
 いくつか誤読を正せて、新たな事実が判明している。

 たとえば古高が父周蔵の履歴をのべたところ。
 毘沙門堂(日光宮、輪王寺宮)に仕えたというところ、『新選組日誌』は「末動家来」として召抱えられたとある。
「末動家来」は意味が通らない。

 父周蔵の前職は大津代官所手代で、役職は「手代」とわかっている。
 が、毘沙門堂での立場がわかっていなかった。
 たんに「家来」のみだった。
「末動家来」の「末動」部分はおそらく誤読で、これが正しく読めると謎がとけるのではと思っていた。

 受講生T田さんのご協力で、「未勤」が正しいことがわかった。
「未勤家来」なら意味が通る。
 有栖川宮家などに実在する役職だ。
 正職員でない家来、すなわち非常勤職員という意味だ。

 「書付写」によると、父他界ののち俊太郎がそのまま父を引き継いだと読めるので、古高も毘沙門堂非常勤職員だったことになる。
 古高は正職員ではなかった。
 だから門跡の家来でありながら桝屋に養子に入ることもたやすかったのだろうと、考えられるようになった。

 史料は刊本に頼ってたらあかん、原本によらないと、とあらためて思ったものだ。
 詳細は近著『池田屋事件』(講談社現代新書)で述べる予定です。

 午後4時すぎからは佛教大学へ。
 京都の人文地理現象を論ずる授業。
 でも1回目は「江戸時代を大事にしないまち京都」。
 まだ歴史くさいことをしている。

 午後6時半、同志社大学の嘱託講師懇親会に出席。
 昨日の酒が残っているので今日の酒席は避けたかったが、そうも行かない。
 楽しいことがいっぱい待っているにちがいない。

 やっぱり。
 久しぶりにY田K和博士(写真)とお目にかかる。

 Y田博士の方から気づいて、わざわざ声をかけにきてくださる。感激。

 テレビなどでよくお見かけする高名なT・I先生(K都S業大学)の自己紹介に思うことがあった。
 岐阜におすまいで、同県出身の志士梁川星巌の京都宅跡(川端丸太町上ル東側)を訪ねたら、標石がなくなっていた、京都はいいものがありすぎてこんな大事なものさえおろそかにする、となげかれた。

 この標石は京都市教育会碑だ。
 1年ほど前なくなったことを僕も気づいていた。
 捜索すべきところを放置していたが、今回T・I先生は建設予定マンションの一角に横たおしになっていたことを見つけられたという。その行動力にも驚く。
 失礼だが、仕事のできる方はやっぱりいつまでも「お若い」、と思った。

 会場にはお世話になっている先生や、旧知の方など多数おられて、この業界の同志社大学出身者の多さをあらためて感ずる。

 Y田博士のお誘いで2次会にも参加させていただく。
 M藤先生はじめみなさんから、中身のこすぎる朝鮮や中国の現代考古学事情をお聞かせくださる。
 勉強にもなりましたし、ごちそうにもなりました。ありがとうございました。

 とてもステキな夜だったので歩いて京都市内を帰ろうとしばらく歩いていたが、ときどき不穏な方々とすれちがい身の危険を感じる。

 「親父狩り」に合うわけにはいかんと、過剰な危機意識に後押しされて少しの距離だったがタクシーに乗る。

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