「太閤堤」で問題ないか、考えた
去る9/6(木)の京都新聞朝刊トップで報じられた、宇治市菟道の「太閤堤」の現地説明会にいく。
現在の宇治川右岸堤防の東側の地下から、長さ約75メートルにわたって護岸の石列がみつかった。
これを豊臣政権が文禄年間におこなった大事業の遺構だというのである。
午前10時30分、京阪宇治駅に到着。
午前中なのにもう暑い。
日傘をさして現地へ急ぐ。
知った方、何人かに声をかけられる。
すでに説明が始まっている。
写真でみていたとおり、ながい石列はなかなかの威容である。
若い担当者に大きな声で遺跡の保存を訴える人が目をひいた。
そのあとテレビカメラもその人にインタビューをこころみていた。
マンション建設予定地だ。
遺構は壊さず埋め戻すだけだと担当者のひとりがいっておられたが、史蹟指定をして地上に露出させることをのぞむその人の気持ちもわかる。
それにしても場所がなあ。
宇治川右岸堤防のすぐ東側ですよ。
万一の洪水でここは決壊する可能性がある。
そうすると生命の危険のあるところ。
そこにマンション建設か。
建てようと思うものは別の論理があるからともかくとして、それをみとめる行政は人の命を軽視しているとしか思えない。
住む人間はもちろん危機意識が低すぎる。
毎年のように水害で家が流されるニュースに接しているはずだから、こんな地に立つマンションに住む人がいるとは思えないのだが。
生命の危険のある住居をつくらせるより、近世初頭の土木事業を知る貴重な遺構として、史蹟公園化し市の目玉のひとつにした方がよいと思う。
が、これが豊臣期に構築されたものかはもっと慎重であるべきだろう。
文献には左岸につくったことしか出てこない上、遺物が少なく、とても豊臣期と断定できるものではない。
遺物からは少なくとも江戸前期には存在していたことがわかる程度だ。
石垣の構造が豊臣期の城郭のそれと似ているからと担当者がいわれたが、どの城郭のどの部分と類似しているかまでは説明がなかった。
文禄と慶長・元和にはっきりわかるほどの石垣技術の差異があるのか。
地域差も問題にしないといけないはず。
山城国紀伊郡の城郭で石垣が出ているのは伏見城だが、伏見城の石垣の年代研究なんてそんなに進んではいないだろう。
豊臣政権が構築したことが確実な、鴨川堤防たる御土居堀は石を組まず土塁である。
なぜ宇治川堤防は石で、鴨川堤防は土なのか、その説明ができない。
その鴨川堤防が石垣になるのは文献上、寛文10年(1670)のことだ。
文禄から約80年もあとのことだ。
そんな事実をふまえると、今回の遺構が「太閤堤」というには大きなためらいがある。
が、前述したように近世前期の治水を知る貴重な成果であることはまちがいない。
大きな目の保養になった。
ありがとうございました。
そのあと橿原市の藤原宮の門跡の現地説明会にも行きたかったが、昨日締め切りだった国土交通省のイベント資料の原稿があがっていないので、家路につく。
原稿が完成したのは午後4時ごろだった。
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