隠れた名刹、遍照心院旧境内をあるく
8/13(月)はれ
「基礎からまなぶ日本歴史」の巡検。
午前10時、JR京都駅中央改札(1階)に集合。
源実朝夫人(本覚尼)の寺、遍照心院(大通寺)の旧領地をあるく。
同寺旧蔵絵図によると、鎌倉時代には現・六孫王神社をふくむ13町もあったという。
その四至を歩き回るというわけ。
その地は旧平家西八条邸跡。
梅小路公園にはそれを紹介する解説板がある。
ありがたいことはまちがいない。
が、問題はある。
遍照心院がまったくとりあげられていない。
平家西八条邸跡と遍照心院は、たまたま同じ場所に位置したわけではない。
平家西八条邸跡はいわゆる平家没官(もっかん)領として、鎌倉殿源頼朝のものとなった。
頼朝の死後は2代頼家に、ついで3代実朝に引き継がれた。
その実朝夫人の居所であるから、鎌倉幕府(北条政子)によってその一部が譲渡されたわけだ。
この地はたんに実朝夫人の居所ととらえてはいけない。
また同じくたんに実朝の冥福を祈る寺というわけではない。
「右大将家の御菩提のため」とあるため、右大将=頼朝一家、すなわち頼朝・頼家・実朝の3代将軍の菩提寺と位置付けられたはず。
実朝夫人が亡くなってまもなくの絵図によれば、境内に「経基御社」「満仲御社」が存在している。
清和(陽成)源氏の祖、源経基・満仲父子も祀っているのだ。
すなわち後には、源氏3代にとどまらず、清和(陽成)源氏全体の菩提所となったと思われる。
それゆえ足利家・徳川家ともに、その正当性のため同寺を保護したわけだ。
近世に入ってもその存在は地域(葛野郡西八条村)に影響を与えつづけている。
たとえばその旧境内にミヤコの城壁・堀(御土居堀)が構築されている。
それをおそらく近世を通じて遍照心院(大通寺)が「預」っていた。
京都は1200年の歴史が重なっている。
平家の屋敷跡だけで地域を語れない。
鎌倉時代以後の歴史もかたってほしい。
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