龍馬とおりょうの「新婚旅行」を論ず
7/7(土)はれ
七夕の日がはれるのは珍しいとおもう。
栄中日文化センター(名古屋市)の日。
「妻おりょうからみた坂本龍馬」講座。
今回は慶応2年(1866)3月から6月にかけての、龍馬・おりょうの鹿児島旅行について。
いわゆる 「日本初の新婚旅行」のこと。
実はこの旅行、「日本初」は論外としても、「新婚旅行」かどうかもうたがわしい。
なぜ「新婚旅行」というかといえば、慶応2年(1866)1月23日の寺田屋遭難をへて、龍馬とそれを助けたおりょうが同2月、京都二本松薩摩屋敷で西郷隆盛の媒酌で「結婚」したとされる。
旅行はその翌月にはじまる。そのため。
が、これは根拠のうすいはなしだ。
鹿児島旅行を伝える同年12月4日付、姉乙女宛書簡には、小松帯刀と西郷隆盛におりょうを妻としたと伝えたとあるのみで、この薩摩屋敷滞在のとき「結婚」したとはいっていない。
あえていえば、乙女に対して「兄さんにも伝えてくれ」といっているので、このとき初めて故郷の家族にも伝えたことになる。
だから慶応2年(1866)2月以前であることはまちがいないが、直前だったかといえばわからない。
なぜそこまでこだわるかといえば、おりょうの回想録が異説を伝えるからである。
それに先立つ1年半前、元治元年(1864)8月に、青蓮院塔頭金蔵寺住職の媒酌により、同本堂で内祝言をあげたとある。
他に裏付ける史料がないからか、これまでまともな研究者はほとんど相手にしてこなかったが、僕は注目している。
すでに拙稿でかんたんにふれたが、おりょうの回想録は「嘘八百」でかためたものではとうていない。
(「京都の江戸時代をあるく28「龍馬とおりょう3―結婚式場は金蔵寺」」(『京都民報』2007年1月28日))
これまで信じられていなかった話が、見落とされていた他の史料によって裏付けられた「事実」もある。
そんなわけで信にたる史料がないにもかかわらず、おりょうの回想録を安易に無視し、2人の結婚を慶応2年2月とみとめ、その翌月からの旅行を「新婚旅行」というのは姿勢として正しくない。
なんてことをはなした。
次回は「別居夫婦」。
龍馬とおりょうの同居期間はきわめて短い。
龍馬が京都で死んだときも、おりょうは下関にいた。
そのふたりのすれちがいと接触を龍馬の手紙とおりょうの回想録などを読んで紹介する。
終了後はT京R馬会のM川さんを囲んで懇親会。
こちらが抜群に勉強になる。
うわさの秘蔵記録(伏見の寺院関係)を持参され、うなる。
ビールやつまみそっちのけで、くずし字をよむ。
寺田屋復興の功労者の名前がひんぱんに出てくる。
これをネットオークションで微々たる安価で手に入れられた由。
いつも参加の東京のCさんは2回続けて欠席。
この史料のことはまったくご存じないことだろう。
残念なことをされた。
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