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2007.05.31

義経の正妻河越氏のこと

5/30(水)午前中あめ、午後からはれ、夜一時雨
 午前中、いつもの京都女子大学に出講。
 堺環濠のおはなしをする。

 約150人の受講者。
 いつも終わってから感想文を書いてもらう。
 読み応えあり。
 感嘆する文章だらけ。
 すばらしい学生さんたちがそろっている。

 午後からキャンパスプラザ。
 こちらもいつも聞き上手のみなさん。

 「吾妻鏡」の義経最期の部分を読む。
 周知のことであるが、義経には妻子(妻22歳、娘4歳)があり、それを殺害してから自らも死ぬ。

 義経の妻子といえば、すぐ静御前と頼朝に殺されるその男の子と思われる。
 一昨年の大河でも、最後の義経はひとりだった。
 そのことをつよく申し上げた。

 その妻は河越氏の娘。
 その実家は埼玉県川越市で、現在国史蹟指定地だ(河越館跡)。

 実は僕の先祖の地も川越市である。
 なんと本家宅と河越館跡は川をはさんでとなりどうし。

 先祖は河越氏と有縁であったにちがいない(冗談)。
 そんなわけで義経の正妻河越氏にはひとかたならぬ思いがある。

 永井路子原作の大河「草燃える」(1979年)はちゃんと妻子を殺害してから自刃していた。「吾妻鏡」にしたがっていた。そばに佐藤忠信がいたことをのぞいて。

 戦国や幕末が事実にもとづいて書かれていないとよくなげくが、史料の少ない中世前期でもこんなていたらくだ。なさけない。

 夜は大谷大学で講師懇親会。
 H先生とある話題でもりあがる。
 予期せず同じ問題意識をもっておられて、びっくり。
 ぜひ研究会をたちあげましょう、ということになる。すばやい。
 いやぁ、これは楽しみ。

 さっそく第1回会合日をきめる。
 酔いがまわらないうちに手帳に書く。

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2007.05.29

上七軒の芸舞妓さんと延暦寺にいく

5/27(日)はれ
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 上七軒の芸舞妓さん、勝江さん・勝瑠さんと京都バスに乗って延暦寺にゆく。
 3人で。
 なんとぜいたくなこと。

 「制服」できはるかと思ったら、洋服でした。
 どこにでもいてはる、若いお嬢さんという感じ。

 東塔地区と西塔地区だけで時間オーバーになる。
 

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2007.05.27

戦国の堺の環濠・土塁をみた

5/26(日)はれ
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 木戸孝允の祥月命日(1877=明治10)。
 松菊忌とか松菊祭とか、聞いたことないなぁ。
 甲東祭(大久保利通)はあるのに。

 堺市へ環濠の現地説明会に行く。
 
 見ごたえは抜群。
 信じられないほどでかい。
 これは近世城郭の堀の規模だ。

 土塁片が残っていたことも感激。
 土は堀を掘ったものを盛り上げたようだ。

 小学生が教員につれられて多数来ていた。
 高校生も体操服をきたまま来ていた。クラブ活動の途中らしい。
 こちらも「見に行け」という教員の指示だろう。

 路傍には多数の石碑や標識があるし、堺市は魅力的だ。

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2007.05.26

堺から信じられない堀が見つかった

 5/25(金)大雨

 大河ドラマ「黄金の日日」(1978年)で知られる、「自由都市堺」。
 それを象徴する、まち全体を囲う、戦国時代の壮大な堀が検出されたという報に接した。

 幅17メートル、深さ4・5メートル。
 時期は1400年代前半という。

 信じられない規模。

 天正19年(1591)の洛中惣構(御土居堀)と同規模。
 150年も早く、堺は豊臣期京都の環濠に匹敵するものをもっていたということになる。

 何かのまちがいではないのか、と思うほど。

 本日の同志社大学の講義でさっそく紹介した。

 明日26日(土)午後1時~3時、現地説明会がある。

 予定を変更した。
 これをみなくては一生後悔すると判断した。

 午後から町田市の朝日アウトドアの受講者多数を上賀茂・下鴨両社をご案内。

 夜は京都女子大学の講師懇親会に参加(於高台寺ちかく)
 近代史のS先生にお誘いいただき、2次会にもお邪魔する。
 
 そのあとひとりで、最近けっこう気に入っている、木屋町蛸薬師下ル「R」にたちよる。
 「ご夫婦」と歓談。

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2007.05.23

聚楽城南外堀跡に碑が建った

5/22(火)はれ

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 京都民報の担当、Hさんと今後のことをはなしあう。
 
 そこで意外なことを聞く。

 去る5/18(金)、京都市上京区智恵光院通下立売の松林寺門前に、「此付近聚楽第南外濠跡」の新碑が建った由。
 この地は幕末以来、聚楽城跡の南堀跡と伝えられていた。
 
 1919年(大正8)の京都府の史蹟調査でも報告されていて、広く知られるようになった。
 近年、森島康雄さん(京都府埋蔵文化財調査研究センター)や百瀬正恒さんの研究により、たしかに聚楽城の外郭を囲う堀の一部であると明らかにされた。
 
 が、碑の一本、解説板のひとつもなく、残念に思っていました。そこに建ったのである。

 聚楽城跡に碑が建つのは1915年(大正4)以来初めてのこと。
 これで地上に2基目の聚楽城跡碑が建ったことになる。

 それだけでもうれしいのにまだ続きがある。

 建碑担当者のひとりは元京都民報関係者で、今も購読している由。
 何といま僕が同紙で継続している連載「京都の江戸時代をあるく」を読まれていて、それが今回の建碑につながったという。

 たしかに以前、聚楽城跡は1回とりあげました。
 うんうん、そのとき使用した写真は、たしかに松林寺境内のくぼ地でした。
 ここだけ極端にひくいのだ、とふれました。

 すごい。
 これが事実なら、自分の書いたものが建碑に直接影響を与えたことになります。
 感激です。

 以前、山田邦和博士(同志社女子大学、考古学)からうかがったはなし。

 ある団体に講演をされた。
 そこで、この地は足利尊氏亭跡であること、創立期の「室町幕府」跡であることを伝えられ、碑でも建つといいのにといわれた。
 するとのちその団体はそれに刺激され、本当にその地にその由緒を示す石碑と解説板が建った。
 山田博士の発言が建碑等につながったのです。

 すごいなぁ、山田博士、と感心したものでした。
 
 今回それに近いことを体験しました。
 うれしくてなりません。

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2007.05.21

平安京以上に寺田屋を論ずる

5/20(日)くもり一時あめ
 嵯峨野学芸倶楽部に出講。

 「平安京遷都」を講ずることになっていたが、この講座はちょっと特殊。
 僕が好きにしていいので、最近執着している寺田屋問題のはなしをして、そのあと長岡京を発見した中山修一さんのはなしと、本題をする。

 終了後、北野地域の史料を読む会がある。そのためとどまる。
 メンバーの1歳未満のお子さんを思いっきりからかう。楽しいこと、このうえない。

 中世、酒麹の権利をめぐって北野地域(西京)は東京と争う。
 その史料をよむ。

 今回はいままでで参加者1番少なかった。
 そういえば、僕をこの会に誘ったU氏は来られたことないなぁ。
 忙しいらしい。
 さみしいなぁ(U氏攻撃)。

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2007.05.20

寺田屋でおもしろいものをみつけた

5/19(土)はれ一事あめ
 昨日18(金)、同志社大学とくずし字入門に出講。
 そのあと伏見区へ。
 寺田屋と法務省伏見出張所にいく。
 つかれる。

 本日はすこし遅く動き出したので、疲労感なし。
 
 また寺田屋に。
 毎日あきないことだ。

 いくたびに何か発見がある。
 さすがにもうない、と思ってた。

 が、あった。
 またあった。
 同行の友人がある説明文を読んでいて「意味、不明」を主張してきづいた。
 こんなものがあったのか。

 各部屋に散在する「額」もふくめ、現在の寺田屋にはいっぱいいっぱい「復興寺田屋」の痕跡がある。
 「龍馬の寺田屋」でおおっているようにみえて、誰もきづかない「ものがたり」がねむっている。
 これはやみつきになるなぁ。

 建物はもとより、位置さえ幕末期とちがういまの寺田屋。
 でも、ちがう楽しみ方があると今日きづいた。
 また、いこう。

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2007.05.17

高知城跡、国史蹟未指定地があぶない

5/16(水)はれ、夜あめ
 未明、高知城跡シンポジウムの原稿、やっと完成。
 K大学のI先生などに送る。

 いま高知城跡の国史蹟未指定地の「破壊」がはじまろうとしています。
 昨秋、それを問題視するシンポがありました。
 K大学のI先生のご依頼で僕もはなしました。

 その内容が書籍になります。

 問題そのものはまだ渦中です。
 昨日「破壊」がはじまったという報をえました。
 もう、どうなってんねん、という感じ。

 去る13日(日)深夜には、講談社現代新書『池田屋事件』の序章を完成。
 S舎のYさんに送った。

 いろいろ仕事片付いているようにみえて、終わりきっていない。

 おかげでまた民報の原稿が遅れがちだ。
 いかん。

 そろそろ体制の変化を試みないと。

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2007.05.15

土塁跡・道標論・原稿執筆・オアシス

5/14(月)はれ
 朝から大谷大学に出講。
 今回も巡検。

 ちかくの土塁跡の痕跡を追っている。
 前回は大学から北を歩いた。
 今回は南側。

 あいかわらず道路の方向が土塁跡を示している、という話。
 東部の土塁は、初の本格的な鴨川堤防と位置付けることが可能です。

 で、このあたりは洪水常習地帯なので、江戸時代には一部に二重土塁をつくっている。
 その痕跡さえ現在残ることを示す。

 また鴨川の水を洛中に取り込んでいたこと、その最も代表的なのが禁裏御所に注ぎ込まれた「御用水」であったこと、「御用水」ではないが、別の場所の水路跡がいまも道路として生きていることなども案内する。

 さすがあとの感想文をみると、大半がそのことに感じ入っていた様子。
 つまりはこちらが思いをこめて話したからなんだけど。
 
 終了後、府立総合資料館へ。
 依頼していた複写物を引き取りに。

 寺田伊助旧蔵品のある記録です。
 まだ寺田屋問題にかかわっている。

 午後2時半から、佛教大学へ出講。
 こちらは近世道標論、その3。

 あらたに個人宅でみつかった江戸中期の紀年銘入りの道標を紹介。
 また京都の道標業界では有名な、沢村道範のはなしをする。

 建立者銘を伏すのが多い近世の道標の世界で、たったひとり、わずか7年の間に4基も建てたことがわかっている。
 しかも江戸後期の「東海道名所図会」にも紹介されていて、すでに江戸時代にも知られた人。
 それによれば山科・四宮に住んでいた。
 
 個人のはなしができない近世道標の世界で唯一、検討が可能な人。
 謎だらけだけど、「謎」といえるだけはわかっている。

 こちらも感情をこめたので、あとの感想文、そればっかり。

 夜は遅れに遅れたある原稿を打つ。

 感情も高ぶってきたので、限界をこえたころ、鷹峯旧土居町の「オアシス」へ。
 オアシスは御土居堀の北西隅に営業される店。
 現在も遺構がのこる(国史蹟、ただし民有地)

 その地権者でもあるマスター、森田清さんと懇親。

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2007.05.14

幕末志士の子孫Aさんと懇親する

5/12(土)はれ
 午後2時半、真如堂の塔頭吉祥院(左京区)へ。
 「ミヤコを囲う―御土居堀ものがたり」というタイトルの講演。

 カッパ研究会でお目にかかった副住職さんからのご依頼です。

 20余名の受講者だった。
 既知の方がお1人こられていた。
 昨日京都新聞の催し物欄に載ったらしい。
 これは気づかなかった。

 1番前の年配の女性が後半寝てはったのが気になったが、全体としてはときどきは笑いもあって、まあまあかなぁと思う。

 終了後、本堂に参拝。
 三重塔も拝む。

 午後6時半、京都駅前で関東から来られたAさんとお目にかかる。
 ある宮家に仕えた幕末志士の御子孫。
 僕が執着をしている古高俊太郎とも交流があった。
 その関係で知り合った。

 お若い方で歴史学のプロではないのだが、たいへん勉強しておられる。
 教えていただくこと大。
 
 今回も伝来の未知の史料を多く拝見した。
 教えていただいたことは、秋に刊行予定の『池田屋事件』でぜひ紹介させていただきたいと思っている。
 
 なかなか宮や堂上の家臣がいかなる政治活動をしていたか、わかっていない。
 その事例研究として意義深い深いと思っている。

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2007.05.12

講談社現代新書刊行になやむ

5/11(金)はれ
 朝はやく起きて、民報の原稿仕上げ、担当H氏に送る。
 
 9時から同志社大学に出講。
 豊臣三都論のつづき。聚楽城のはなし。

 疲労がピークにきたようで、「いま何時であるか」「次の予定は何時からか」がわからなくなってきた。
 
 12時30分からキャンパスプラザでくずし字入門。
 12時30分からやないか、と気づいたのは12時10分。烏丸今出川で。
 大慌てで入室する。

 今回はいつもと趣向をかえて、僕がいま執着している寺田屋問題に関するくずし字を読んでもらう。
 いつもの書体がちがうので、受講者すこしてこずった模様。

 そのあと講談社のメールマガジンに載せてもらう原稿にむかう。

 今秋か冬に同社現代新書のひとつとして『池田屋事件』を出すことになっている。
 が、原稿を書き上げる自信がない。
 そこで、どこかに連載をさせてほしいと担当さんにいった。
 すると上記のことになった。

 で、本日しめきり。
 とてもできなくて、お世話をしてくださっているY氏をわずらわせる。誠に申し訳ありません。

 月曜日朝1番までお待ちくださる由。

 ありがたい。が、できるか。
 いや、しなければ。

 そんなことをいっていると、本日「京都検定日めくりドリル」(京都新聞夕刊連載中)のストックがきれた。
 こちらも至急しなくては。

 そうそう、民報も月曜しめきり。
 ああー。

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2007.05.11

なじみのお好み焼き店のピンチ

5/10(木)あめ
 京都新聞文化センターに出講。
 豊臣政権の京都改造のうち、内裏と公家町について。
 
 豊臣期京都の復元図案について、杉森哲也氏の説と、山田邦和氏監修のイラストを比較して、ああだこうだいう。
 終わったあと、むかいの京都商工会議所の出来たばかりの喫茶店で京都民報の連載を打つ。
 場所がかわるとはかどる。
 理屈はいらない。
 はかどるのだから、はかどる方法をとる方がよい。

 寺田屋問題、今回時間かけすぎたなあ。
 おおいに反省。

 夜、裏寺町通六角下ル、なじみのお好み焼き屋「世津」へ。
 店主体調不良、従業員雇いたくてもお客が少なく雇えない由。
 このままでは年内には閉店になる。
 助けるためにもなるべく行くことにしている。

 昔のお好み焼き店。
 上洛のおりは一度お訪ねください。
 僕がいるかもしれません。
 1週間になんどもいってますから。

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2007.05.10

上七軒の勝江さんの襟替えの日

5/9(水)はれ
 最近は毎日更新できていたと思っていたのに。
 また気づいたら1日とんでいた。

 昨日、早朝から名古屋・朝日カルチャーの受講生に洛中や東山・山科をご案内した。その疲れが尾をひいたようだ。

 本日も朝1番の仕事。
 
 京都女子大学へ出講。
 京都駅八条口から「プリンセスラインバス」に乗っていく。

 女子ばかり。しまった、と後悔。
 満員のバス、男性4人だけ。
 ふたりは附属小学校の男児、もうひとりはバス運転手。

 つまり成人男子の乗客は僕だけ。
 
 女子学園とはいえ、教員や事務職員に男性は少なくない。
 つまりみんな乗ることを避けているのだろう。

 講義開始。
 反応がとてもよい。
 
 この講義を1年だけ託してくださったR大学のK先生、
「まじめな子ばかりだから」といわれた。
 その言葉がいまになって思い出される。なるほどそのとおりだ。

 お昼からはキャンパスプラザ京都で、基礎からまなぶ日本歴史。

 まだ治承・寿永の内乱をしている。
 進む気がないようだ。

 本日は平家物語の「忠度都落」をよむ。
 平家物語のなかでは大好きな部分です。
 講師のかってきままな会ですねぇ。

 夕方6時からは上七軒のお茶屋「D」でお仕事。
 本日のお題は「太平記における楠木正成」。
 これまた大好きなネタ。

 今夜は所属の舞妓さん「勝江さん」の襟替えのお祝い。
 舞妓を卒業し、芸妓になられました。おめでとうございます。

 多くが二次会にいかれましたが、僕は断念。
 疲労もつよいし、仕事も残っております。失礼いたしました。

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2007.05.08

寺田屋問題、まだまだ発見あり

5/7(月)はれ
 ゴールデンウイーク終了。
 今日から大学再開だ。

 世の中の人、みんなそうだと思ってたら、本日も明日も休みだという人がいた。
 なんという職場だ。
 おどろく。

 朝1番、大谷大学に出講。
 本日は巡検。
 大学ちかくの御土居堀跡をあるく。

 この周辺、碁盤目状の京都の特徴的な街区と方向を異にする道路がある。
 それが「御土居」の痕跡の道だ、なんて伝える。

 終了後、午後からの佛教大学からの講義の予習をしようと思っていたら、府立総合資料館の松田万智子さんからメールがきて、寺田屋にまつわる「こんな史料知っていますか?」

 知りません。
 さっそくかけつける。

 偶然K大学のT先生をおみかけする。
 たいそうご無沙汰しています。

 松田さんから紹介された史料、新出のものではないかった。
 が、副本がみつかったことが驚き。
 某所にあるアレはオリジナル一本だけだと思ってた。
 しかも書名がちがう。中身いっしょなのに。
 
 今度はこちらからおたずね。
 ある人物の履歴について。
 
 すぐ手にできるものではわかりませんでした。
 だからあきらめて帰ります。またよろしくお願いします。

 帰宅して佛教大学の講義の用意をしようとしたら、松田さんから連絡。
 ありました!と。

 おお、さすが。
 いやいや、さすが。

 これで一安心。

 佛教大学へ。
 近世京都道標論、その2です。

 夜、話題のCさん、上洛。
 貴重な書物を感謝をこめてお返しし、寺田屋問題研究、どこまで進んだかお披露目。
 ながい夜になる。

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2007.05.07

まだつづく寺田屋問題研究

5/6(日)はれ
 Mさん所蔵の稀こう本に、よく分からない人の「跋」が写真で載っていた。
 読みやすいくずし字だったので読んでみる。
 
 読み終わると内容から記主がわかった。
 これは感激。
 Mさんに連絡。知らなかった、とお返事。

 調子にのって総合資料館へいく。
 司書の松田万智子さん不在だが、今日は頼らず自分で仕事しよう。

 京都新聞の前身、日出新聞をマイクロでみる。

 先の「跋」に、寺田屋の当時の主人が「聖上」にあるものを献上したという。
 その裏づけ。

 あった。
 見つかるとは思っていたけど。
 
 予期せぬ成果あり。

 「聖上」とあるから大正天皇だと思ってた。
 びっくり、昭憲皇太后だった。

 過日、寺田屋は龍馬の「瑞夢」にからみ昭憲皇太后から下賜品をもらっている。
 いわばそのお礼をしたのだ。

 昭憲皇太后が龍馬の夢をみたというはなしがある。
 これを土佐グループの捏造だという人がある。
 ありえませんよ。
 
 捏造だというなら寺田屋の「瑞夢」にからむ献上品に皇太后は驚くはず。
 でも皇太后、ちゃんと受け取ってますからね。

 少なくとも昭憲皇太后は自分が龍馬の「瑞夢」をみたと世間が思っていることを知っていますよ。
 まぁ、昭憲皇太后もグルだというなら別ですけど。

 それはムチャでしょう。

 寺田屋問題研究、進みすぎた。
 ようまとめんわ。

 明日も何か見つかるのでは。

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2007.05.06

寺田屋問題、いかに落とすか

5/5(土・祝)はれ
 午前中、K県滞在中のC氏から封書が届く。
 ありがたい。例の文献だ。厳重な包装、貴重なものを預けていただいたことを実感。

 別のK県にお住まいのM氏からも、昨日の宿題の答えがさっそく連絡されてくるし。

 それらも含めて、この2日でえた情報を整理する。
 いやはや寺田屋問題は奥がふかい。はやまった、というのはたやすい。むしろ今回の連載のおかげで情報や認識が深まったと思うべき。

 よいことだ。

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2007.05.05

寺田屋問題、あふれる資料に溺死寸前

5/4(金)はれ
 K県から友人きたり。
 日本一の坂本龍馬情報収集者といっていい、Mさん。

 僕がいま1番執着している寺田屋問題。
 先日東京でお目にかかったおり、議論した。

 それに触発なさって、その検証のためこられた。
 こちらもまなびたいことがあるので同伴する。

 計画が決まってから、数日メールでやりとり。
 いろんな資料をおもちであったことが知れた。

 本日、それを持参くださる。あふれるほどの情報。
 いや、もうすごいこと。
 わずかな期間に、日本屈指の寺田屋通になったといってよいのでは。

 既報のように、いま『週刊京都民報』にこのネタを連載中です。
 もうまとめにはいるべきなのに、加筆はおろか訂正もしたいようなことがわかってきた。 

 あるきながらなやむ。
 
 検証のネタのひとつが東山霊山の龍馬墓にある。
 行ってみた。
 
 つくなりM氏、歓喜の顔。
 なにごと?

 ちかづくと、寺田屋問題の影の「立役者」では、と思っていた人物名が。
 こんなところに。
 なんども通った場所なのに、まったくきづかず。
 無名な人ですから。
 関心がないと目に入らないものですね。

 仮説はあたったとみてよいだろう。こんなところに名があるのだから。
 そうか、やっぱりあなただったのですね。

 みつけたのはM氏。
 いやいや、おそるべし。

 同様にすごいのは東京のC氏だ。
 
 いま注目しているある祭典がある。
 それにかかわる冊子が当時刊行された。

 が、わずか48部しか関係者にくばられなかった(『坂本龍馬全集』3訂版1102ページ)。
 稀こう本である。
 京都府立総合資料館・府立図書館はおろか、日本全国の大学図書館にも所蔵されていないらしい。

 が、C氏がもっていた。
 なんと2冊も。

 関係者48人のどなたかの子孫ではない。
 古書店で手に入れられたのだ。

 彼を日本一の坂本龍馬資料コレクターというのは過剰評価ではない。

 いまその冊子は宅配便でこちらにむかっている。
 僕の「ピンチ」を知ったC氏が「友情」により資料提供くださるというのだ。

 いま遠くはなれた出身地のK県におられる。
 そこから僕のために現物を送ってくださった。

 みなさんに研究を助けてもらっている。
 感謝してやみません。

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2007.05.04

連休でもでかけられない

5/3(木)はれ一時あめ
 連休もへったくれもない。
 原稿執筆。

 島根県の母方の祖母宅にいくはずであったが、在京。

 寺田屋論、つぎつぎ新情報はいってくる。
 大海におぼれそうなぐらい。

 みなさんに研究ささえてもらっています。
 感謝です。

 夜だけ、すこし外出。
 河原町、ひとだらけ。

 不快。

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2007.05.03

ある幕末志士の寓居跡を新発見

5/1(火)あめのちはれ
 朝1番で京都府立総合資料館へ。
 
 いろいろな調査のため。
 また松田万智子さん、福島幸宏さんをわずらわせる。

 大発見があった。
 最近、幕末期主要人物の京都での居住地の調査をすすめている。
 信用できる史料での裏づけが可能かいなか検討をすすめている。

 そんななか、大正時代のある聞き取り調査に、ある幕末志士(維新後の方が有名だが)の居所はここだと記したものがあった。
 それが現在のどこにあたるか、調べにきた。

 松田万智子さん、司書の鏡のようにつぎつぎと「奥の手」みたいな史料を出してこられ、なんとついにその場所を特定してしまったのだ。
 驚いて、また館内お静かになのに騒いでしまった。

 夕方、その地にたつ。
 ここが・・・。

 もし京都の維新史研究者、寺井萬次郎がこのことを知っていたら、戦前、京都市教育会名で「○○○○寓居跡」と、標石が建ったのだろうなぁと感慨ぶかく思う。

 もしかしたら坂本龍馬も訪ねたことがあるかも、という地ですから。

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2007.05.01

寺田屋跡のとなりの建物がなぜ「寺田屋」になったのか

4/30(月)はれ
 「吾妻鏡」によると源義経が生害した日(文治5年=1189)。

 毎年思い出す。
 少年のころ覚えたもののはいつまでも忘れない。おそろしい。

 「京都の江戸時代をあるく」(週刊『京都民報』、京都民報社、京都市)、締め切り日。
 「寺田屋ものがたりの虚実」その3を打つ。

 これでまとめるつもりがまた延びてしまった。
 結局、4回か、1ヵ月だな。

 維新後、寺田屋跡の敷地でなにがあったか、どうして隣の敷地と建物が「そのもの」に取って代わったか、その過程を論じている。どうか御覧ください。

 5/6は、4/29との合併号ですので発行されません。
 次は5/13発行です。

 あ、そうそう。
 拙稿「龍馬十景」の載った、『龍馬研究』166号が先日発行されました(龍馬研究会、高知市)。
 今回はその1で、「悲哀の人」です。
 龍馬の最後はヒーローでもなんでもない、かわいそうな人だと書きました。たんに殺害されたというだけではなく。

 今年は没後140年です。
 「最後の龍馬」を随時のべていきます。こちらもご期待下さい。

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