3/4(日)はれ

大阪府高槻市にむかう。
今城塚古墳(国史蹟)の第10次調査の現地説明会参加のため。
今城塚古墳は、「延喜式」諸陵寮に記載のある、
三嶋藍野陵(みしまあいののみささぎ、継体(けいたい)天皇
〈同時代的呼称は、男大迹大王〔おおどのだいおう〕〉
の墓)と推定されています。
現在、天皇陵の多くは宮内庁によって管理され、立ち入りがゆるされません。
そんななかで三嶋藍野陵については、誤った別の場所がそうだとされて、正しい地と考えられる今城塚古墳は宮内庁の管理からはずれてしまいました。
それゆえ唯一の調査できる「天皇陵」としてながく注目されてきました(調査主体は高槻市。国史蹟だからその上は文化庁。宮内庁は手が出せない)。
今回はそのなかでももっとも重要な部分、遺体が埋葬されていた部分(主体部)にメスが入りました。
遺体や宝物(副葬品)の存在する部分に手を出すと、保存問題でやっかいなことがおこるので、ほぼ永久に手を出さないと思っていました。
が、以外にも手を出した。
それはすでに主体部がなくなっていた(破壊されていた)から。
なくなっていることが確信できたので手を出されたのでしょう。
いつなくなったかは分かりませんが、当古墳は戦国時代には城として利用されていました(今城塚というぐらいですから)ので、その際のことでしょう。
で、その主体部こと横穴式石室の底にひいてあった石組みが大きく残っていた。
それが今回の現地説明会の目玉でした。
ただしバラバラになっての出土でした。
慶長・伏見大地震によって石組みをおおっていた土ごと崩落したためです。
そのなかに加工された三種類の凝灰岩の破片がみつかっています。
凝灰岩は家型石棺として利用される石ですので、当古墳には最低3基の石棺があったということになります(3人以上の被葬者)。
「陵墓の主体部の一部をいまみているのだ」と思い、感激をしていました。
その最高潮は、副葬品の破片をみたときにきました。
わずかに宝物が、破片だけど、残っていたのです。
馬具や武具、刀装具とか、ガラス玉とかです。
もしかしたらこれを男大迹大王(継体天皇)が身に着けていたのかも知れない。
そう思うと、副葬品の前から足が動かなくなりました。
胸打たれたました。
専門外ですが、ながく日本史教員としてこの人物と時代を高校生や一般の方にお話して来ましたからね。
思いいれがありました。
当日とても暑い日で、行く途中の電車のなかには半そでのおねえさんさえいました。
現地では知っている人にめずらしくまったく会いませんでした。
そのあといくつか寄り道をして深夜に帰宅しましたが、それぞれ思いのふかいことがありました。
忘れがたい日になりました。