豊臣秀吉正妻、北政所ねいにこだわる
2/18(日)くもり
嵯峨野学芸倶楽部に出講。
「京都歴史講座」。
今日の御題は「北政所ねい」。(「ねね」ではない。おそらく「おね」もただしくない。あえていえば「おねい」だ)。
いわずと知れた豊臣秀吉正妻(のひとり)。
いま江戸時代京都論に夢中だが、江戸前期の彼女の京都での位置がほとんど評価されていないのでは、という気がする。
北政所といえば、すぐ居住地は高台寺とされるが、寛永元年(1624)に亡くなるまで、禁裏御所の真横(現、仙洞御所の地)に大邸宅を構えていたことが全く無視されている。
山内一豊の妻(見性院)が、夫の死後、柳馬場丸太町(桑原町)に居住したのはなぜなのだ。
北政所邸のそばだからとしか考えられない。
北政所が慶長8年(1603)年に剃髪し、2年後に東山に高台寺を創建したのちも見性院は桑原町を離れていないのはなぜか。
そばの北政所邸が機能していたからだろう。
剃髪後のねいが、高台寺に常住していたというのは事実といってよいのだろうか。
津田三郎氏『北政所』(中公新書)は晩年の彼女をとりあげた高著だが、まだまだものたりない。
いつか北政所はまとめてみたい気がする、なんて夢想をかたった。
そのあと主催団体でもある、伝統プロデュース「連」の会議に参加。
上七軒のまちづくりについての活動をまなぶ。
またよけいなことを言ってしまった気がする。
「歴史部門は自分が担当だと自覚している」だって。
みなさんは遠慮されて、「してくれ」といわないのに。
(「議事録に書き漏らすな」という声が部屋にひびく。あとで言った覚えがないといわせない処置)
でも北野・上七軒は僕にとって縁のふかいところだし、「連」とも浅からぬ関係にある。
やむをえないことであろう(と自分を納得させる)。
会議を中途で失礼し帰宅。
来週の「京都検定日めくりドリル」の原稿をつくり、担当Yさんに送る。
もうこれ以上仕事をしてはいかん、と自分で決めて、読み終えたい書物をもって、近所の店へ。
酒を飲むところなのに、やんちゃな夫婦二組が乳幼児3人をほったらかしで飲み会をしている。
乳幼児、店内を歩き回っている。
店員に何度もぶつかりかけている。
段差あるところにもふらふら寄ろうとしている。
不快きわまりない。
親は乳幼児の横でタバコもすっている。
くるんじゃなかった。
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