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2006.06.22

伏見街道を朝日カルチャーのみなさんとあるく

6/20(火)はれ

 名古屋滞在、最終日。
 午前7時40分、名古屋駅へ。
 本日、朝日カルチャーセンター「街道ぶらり旅」講座で、バスに乗り、京都へ向かいます。
 参加者約40名。

 伏見街道をあるくのです。

 8時集合なのに、この時間までに早くも全員集合。
 優良な受講者だ。

 車中、休憩2回をふくめ、約3時間。
 本日のコース説明を断続的にする。

 伏見寺田屋の虚偽問題を説明。
 1番笑いがあった。

 11時すこし前、伏見京橋到着。
 寺田屋へ。

 明治以後再建が確実なので、坂本龍馬がいたころの建物ではありませんが、伏見の船宿としては唯一の現存物なので、参観します。
 
 屋内では説明しません。
 他のお客さんに迷惑になります。
 
 つづいて立石道を通って伏見奉行所跡へ。
 暑いし、昼食11時30分と決まっているので、簡単に。
 京町通りを通って「魚三楼」へ。

 鳥羽伏見戦争の際の銃痕の残る建物です。
 ここで昼食。

 12時50分、再出発。
 あつい、あつい。

 大手筋を西へ。
 伏見城下町のお話しを軽く。
 横町型であること、銀座跡のことなどふれる。

 松林院へ。
 寺田屋お登勢の墓参。
 寺田屋の事実と非事実を、再び解説。

 伏見板橋小学校到着。
 ここは江戸時代、尾張徳川屋敷です。
 ここで皆さんと、2日前入手したばかりの、同邸の絵図の写しをみる(名古屋市蓬左文庫蔵)。

 この図を片手にこの地を見るのは、おそらくみなさんが史上初めてです、とあおる。

 本図によって、現在の小学校のある構造が、ほとんど尾張屋敷時代から変化のないことが知れると説明。
 小学校の許可をえていますので、校庭にはいります。

 なかに伏見現存最古の道標があります。
 これを見学。
 四面の文字を読んでいきます。

 つづいておとなりの伏見中学へ。
 こちらも尾張屋敷の敷地内。
 やはり道標があります。
 許可をえています。
 立ち入ります。

 この道標。
 建立年は江戸後期の弘化4年です。
 西暦何年でしょう?

 ヒント、僕はこの計算がしやすい立場にある。
 1967年(昭和42)のうまれです。
 
 なんじゃ、そりゃ。
 お前の誕生年なんか、しったことか、と思われたと思います。
 
 実は弘化4年の干支は「丁未」(ひのとひつじ)です。
 それは僕の誕生年の干支とまったく同じなのです。

 同じ干支は60年に一度しかまわってこないので、1967から60を引けばよいのです。

 ひいたら1907。
 1907年は明治40年だから、江戸時代ではない。 
 さらに60をひく。
 1847。
 はい、これが答え。

 みなさんもご自身の干支を承知してくださいね、という。
 多くの方は、申歳とか、「支」の方しかご存知ないので。両方ね。
 
 ながくなってきたので、はしょります。
 
 最後は大仏方広寺界隈。
 龍馬の住居推定地、2つの大仏殿跡、江戸時代の秀吉の墓などをめぐる。

 終了時間4時。
 予定どおりばっちり。
 これからみなさんは約3時間かけて名古屋にお戻り。
 早く終わらせないとと、気にしておりました。
 
 あつかったですね。
 また次回、お目にかかりましょう。

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