慶応3年6月25日、岩倉具視宅へ
昨日の話題のつづき。
国史蹟岩倉具視幽棲旧宅のことでした(現京都市左京区岩倉上蔵町)。
岩倉の日記によれば、慶応3年(1867)6月25日、坂本龍馬は中岡慎太郎とともに愛宕郡岩倉村(当時)の同所を訪問しています。
ですから立ち入ったことが確実な建物です。
建物は維新後に何度か修繕しており、幕末当時のままではありません。
学術調査をしたわけでもないようです。
が、当時を偲ぶには適しているとして国史蹟の指定されています(1932年3月25日=昭和7)。
1932年は、岩倉具視没後50年紀念祭(岩倉公五十年祭)が行われた年です。
この祝祭にあわせて指定されているのですね。
文久2年(1862)、暴漢に襲われたときの避難先に建碑されたのもこの年でした。
(以上、『岩倉公五十年祭記要 附本会要誌第二篇』、財団法人岩倉公旧蹟保存会、1933年)
僕は10余年前、「岩倉具視幽棲旧宅」の徒歩1分のところに住んでいましたが、異なることに一生懸命でしたので、深められておりませんでした。
なお前日に寸心さんがコメントされておられますが、建造物に「門」を含むのなら、二本松薩摩屋敷の門もそうかもしれません(烏丸通今出川東入る北側に現存)。
その他は「確実」ではないので、除外いたしました。
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コメント
寸心さん
こんにちは。
申し訳ありませんが、ご質問の件、こちらも分かりません。
お許しください。
投稿: 中村武生 | 2006.02.19 10:54
以前より疑問に思っていたことがあり、ご存知でしたご教示願えないでしょうか。
>岩倉の日記によれば、慶応3年(1867)6月25日、坂本龍馬は中岡慎太郎とともに愛宕郡岩倉村(当時)の同所を訪問しています。
岩倉の日記には時々、慎太郎については、「石川清之助」、「石川」、「石川清之助(小文字で横山寛三と併記)」と表記されていますが、
龍馬については6月25日に「坂本龍馬(小文字で才谷梅太郎と併記)」との表記があります。
坂本については他の箇所で「坂本」とだけで表記してる箇所が何回かあります。
慶応3年6月2日、4日、15日ですが、15日は京に来ていますが、2日、4日はまだ龍馬は入京していません。
この坂本は誰でしょうか。原本に当たっているわけではないので不明ですが、時々出てくる「坂木」の写し間違いでしょうか。
投稿: 寸心 | 2006.02.19 10:49