未知の三宅碑を宇治で発見!
11/4(金)はれ
午後から、新旧の受講生のHさん、Nさんとともに、宇治市歴史資料館へ行く。
いまここでは「宇治の碑」展が行われています。
宇治には三宅碑がいくつか建っているはずです。
まだ1基しか確認していません。
もっとあるはずだ。
もしや、と思い、期待して参観したわけです。
予想通り、未知の1基を確認!!
銘文は、
(表)「不焼地蔵尊 能化院」
(裏)「昭和三年秋禀京都三宅安兵衛遺志建之」
です(宇治市木幡中村)。
『木の下蔭』の「建碑一覧」に「能化院の碑」として載っているものです。
(拙稿「京都三宅安兵衛・清治郎父子建立碑とその分布」『花園史学』22号、70ページ、220番)。
どこにあるか分らなかった「能化院の碑」が確認できたわけですが、付録がありました。
能化院の本尊が「不焼地蔵尊」だったことです。
実は宇治木幡の「不焼地蔵」の碑を建てるため下検分をした、という話しは「三宅日記」に載っていたのです。
ところが「不焼地蔵」とは何で、宇治木幡のどこにあるのか、私の中途半端な調査では分かっていなかったのです。
これにより2つの疑問が1つにつながり、解決いたしました。
が、新たな謎も出て参りました。
「不焼地蔵」の石標建立の下検分の記事は、1925年(大正14)1月18日条に出てきます。
が、実際の建碑銘では、1928年(昭和3)秋になっていました。
どうしてそんなに建立が遅れるのか。
その後の日記に一切出てこないので分かりません。
三宅碑は当初、京都市かそのすぐ近郊にのみ建碑されていました。
それが城南の広範囲に建碑が及ぶのは、西村芳次郎が建碑にかかわる1926年(大正15)8月以後のことです。
城南である宇治木幡の「不焼地蔵」への建碑計画が、その前年の1925年(大正14)1月に建てられるのは説明がつきません。
三宅清治郎と能化院、宇治・木幡とのつながりも不明です。
とはいうものの、同碑研究がまた進んだことは事実です。
素直に喜びます。
お礼として、同館へ上記の三宅碑の拙稿を謹呈しました。
さっそく現地へ行き、同碑を確認。
お寺の管理の方にお願いし、「不焼地蔵尊」も拝観できました。
すばらしい一日でした。
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コメント
Hさん、こんにちは。
過日はご苦労様でした。
調査スタイルをお見せすることができましたので、ぜひ今度はHさんご自身が、未知の三宅碑を見つけてください。どうぞよろしく。
投稿: 中村武生 | 2005.11.08 09:45
先日は、お疲れ様でした!
新たな発見が出来て、本当によかったですね(>_<)
また、新たな発見が出来るといいですね♪
投稿: 元受講生のHです | 2005.11.06 12:52