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2005.11.30

大和郡山の惣構の堀が改変されています

11/28(月)はれ

434

 天理大学の日。
 近鉄を利用して出講しています。

 京都方面から、「九条」駅を通過しますと、右車窓から、大和郡山城下町の惣構の土塁と堀が見えます。
 最近、気にしていなかったのですが、たまたま本日意識してながめてみると、驚いた光景がありました。

 堀が近代的な改変を受けているではありませんか。

 講義ののち、改めて「九条」駅に戻り下車。
 現地へ行ってみました。

 これはひどい。
 同市の河川課の事業です。

kori2

 「城下町」をまちのシンボルにしているのに、その外郭を、景観上破壊しています。
 
 先日の大阪市立大学COEのシンポジウムでは、岐阜や金沢で、すでに失われた惣構の土塁や堀を復活させようという計画を学びました。
 そんな時勢に、せっかく残っている堀を壊すなんて、暴挙といえましょう。
 
 このままでは残されている土塁も、いつどうなるか分かりません。
 
 大和郡山市民の方、文化財係に訴えてください。

(写真上が2003年3月撮影の旧状(南から)。下が現在。同じ場所を北から撮影)

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2005.11.27

実相院の紅葉をみながら思ったこと

11/26(土)はれ

iwakura
 
 所用ありて、夕方、岩倉実相院(いわくら・じっそういん)に参拝。
 実に見事な紅葉に驚く(写真)。

 が、それ以上に驚いたのは、人の多さです。
 閉門の午後5時になっても、いもを洗うほどの人がいました。

 建物がぎしぎしといっています。
 
 建物は、享保5年(1720)、東山天皇の中宮、承秋門院の旧殿を移築したものです。
 ある時期の大宮御所の建物が生きているわけです。

 それを示す「実相院日記」の当該条まで展示されてありました。
 事実であることが分かります。

 その建物の保護のためには、この紅葉客の量はムチャではないか。
 見事な紅葉をみながら、そんな無粋なことを思いました。

 杞憂であればよろしいが。

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2005.11.22

枚方菊人形、継続報道を喜ぶ

11/22(火)はれ

kiku

 「枚方パーク」(大阪府枚方市)で、96年間つづいてきた「枚方大菊人形」展が、本年で打ち切られることになりました。

 枚方パークは地元の遊園地でしたので、秋の「枚方大菊人形」展はよく行きました。
 「菊人形」に関心があるわけではなく、幼いときは遊園地そのものに。

 「枚方大菊人形」は、その題材の多くを、その年のNHK大河ドラマに拠りましたので、学校で日本史を習い始めた小学校6年生(1979年)からは、ドラマの人形展として大事な関心事になりました。

 それから25年目、今年のテーマは「義経」。

 小学校6年生(1979年)のNHK大河ドラマは「草燃える」(永井路子『北条政子』など原作)でしたから、その年の「枚方大菊人形」のテーマも「源義経」でした。

 僕にとっては「最初」と最後が「義経」ということになります。
 奇遇といってよい。

 少し前、京都府のある史蹟調査の一環で、京阪電車の社史を読んでいまして、「枚方大菊人形」の開始が1910年(明治43)と知りました。
 そうか、そんなになるのか、と驚いていたところ、今年で打ち切りの報道に接しました。

 100年続くというのはなかなかないこと。
 実に惜しいことだ、と思いました。

 そんななか本日の『京都新聞』社会面(30面)によると、枚方市が市民による「ひらかた菊フェスティバル」(仮)
を来年11月から開始すると発表した由。

 形は変わりますが、「菊人形」は継続されるようです。

 それはよかった、と心から思った次第です。
(写真は1981年9月の「ひらかた大菊人形」館外観。「おんな太閤記」)

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2005.11.21

予期せず徳川実紀を購入する

11/21(月)はれ

tokugawa

 夜、ブックオフ三条京阪店に行く。

 ブックオフはよく利用します。
 
 主として訪ねるコーナーは「日本史」。
 つまらない本が多いですが、たまに良書があります。
 どんなに新しいものでも、ほぼ半額。
 買い手としてはこんなありがたいことはない。

 著者・出版社・一般古書店としては最悪、でしょうけれど。

 本日、ブックオフ同店で、見たことの無い光景をみました。

 吉川弘文館の書籍がまとまってありました。
 人物叢書です。

 この数年間に刊行されたものが多数ありました。
 そのうち買うか、ぐらいに思っていたものがどさっと半額で!
 びっくり。

 これは衝動買いしても損ではない。
 結果的に特になる。
 
 山のように取ってレジに向かったところ、レジの背後に、またブックオフでは見たことのないものが。
 「国史大系」本の『徳川実紀』が全巻! バラ売り。

 レジの列を離れ、確認。
 『続徳川実紀』は1・2巻のみ。

 やっぱりほぼ半額。
 おお。
 僕は『徳川実紀』を所有していません。

 悩む。
 今日は何を買うか。
 
 さすがに『徳川実紀』全巻買うのは無茶です。
 『続徳川実紀』は大事な幕末部分がないし。
 
 で、人物叢書の大半を放棄し、自分の専攻に関わる『徳川実紀』1・2巻のみ買いました。

 まだ多数残っていると思いますので、近隣でご関心のある方はぜひどうぞ。

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2005.11.20

藤ノ木古墳の思い出を話す

11/20(日)はれ

fuzinoki
 
 夜、大阪府N市で仕事。
 高校生に古墳文化、飛鳥文化、白鳳文化を話す。

 藤ノ木古墳(奈良・斑鳩)の思い出を語る。
 1988年秋、奈良県立橿原考古学研究所による開棺調査がありました。
 
 当時、担当のお1人のご好意で、内部を拝見(参拝)したことがあります。
 大学・学部の2年生でしたが、一生忘れない思い出になっています。

 こういう話のときは、学生さんも目がきらきらしているような気がします。
 
 その代わり、予定どおりに「仕事」は進まないですけどね。

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2005.11.19

京大人文研で建碑論を報告

11/19土はれ

PC080216

 京都大学人文科学研究所の「近代京都研究班」で報告をしました。
 
 タイトルは「近代京都の建碑と史蹟の創出」。
 1910~1940年代の、三宅碑と京都市教育会碑について論じました。

 なぜか後者の方が受けたようです。
 寺井萬次郎の明治維新の史蹟顕彰活動を中心に述べました。

 フロアーから気づかないこと多数ご教示いただきまして、さらに深めて行けそうです。
 やはり報告して、有識者に聴いていただくこと、重要です。

 来年度、この研究会活動は論文集として総括されます。
 僕はこの内容をまとめる予定です。
(写真は京都市教育会碑のひとつ。河原町四条上ル東側)

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2005.11.18

都市城壁(惣構)を町づくりにいかすシンポ

 以下のシンポジウムに、私、中村武生も報告者として参加します。
 都市城壁とまちづくりを論ずる、実にめずらしいイベントです。
 ぜひお越しください。
 
■大阪市立大学大学院文学研究科21世紀COEプログラム/重点研究 共催
  シンポジウム「歴史遺産と都市文化創造」

< 都市城壁(惣構)を町づくりにいかす >

  日時  2005年11月23日(水・祝) 10:00~17:00
  会場  大阪市立難波市民学習センター

       地下鉄・近鉄「なんば」駅から徒歩10分
       大阪市浪速区湊町1-4-1 OCATビル4F
              06-6643-7010
       http://www.ocat.jp/center.html
  入場無料(どなたでも参加できます)

【趣旨】
 ヨーロッパや中国・朝鮮の都市とちがい、日本の前近代都市には、都市城壁が存在しないといわれてきた。

 しかし、戦国時代(16世紀)には、寺内町や堺などの自治都市のみならず、多くの城下町で惣構(そうがまえ、「総構」とも)が築かれ、土塁と堀の内部に都市住民の居住区を囲いこんだ。

 豊臣政権期(16世紀末期)から江戸時代初頭(17世紀前半)の城下町においても、こうした傾向は継続する。これは、この時代の都市空間をめぐる、武家権力と城下町住民の間の緊張関係を物語る一つの要素である。

 だが、近世中期において、都市が戦乱の恐怖から解放されて以降も、城下町の惣構の多くは破壊されることなく残った。そして、近世末期から明治時代初頭、城下町の近代化にあたって、大半の惣構はまたたく間に破壊されつくす。

 このことは、江戸時代において、築造当初とは異なる意義をもって惣構が継続し、その意義が失われることがすなわち近代化であることを示唆する。

 旧城下町地区の周縁部に位置し、緑と水の空間を演出する惣構跡は、現代都市の中で貴重なオアシスとなっている。あるいは、そこを憩いの空間として復原しようとする政策が各地で試みられている。

 本シンポジウムは、日本の都市史において惣構がもっていた歴史的意義を解明するとともに、現代におけるその活用の方法をさぐることを目的とする。

 その際、都市城壁の保存・活用においては最先進国であるイタリアの事例との比較をおこないたい。

報告 (午前の部)
    内堀信雄氏(考古学、岐阜市教育委員会)
      「総構活用は未来への橋渡し~岐阜市の過去・現在・未来~」

    増田達男氏(都市史、金沢工業大学)
      「城下町金沢の惣構堀と現況
             ~GISによる古地図・現地調査の比較分析~」
     (午後の部)
    中村武生氏(日本史・歴史地理学、佛教大学)
      「京都惣構『御土居堀』の啓発とまちづくり計画
                      ~御土居堀研究会の活動~」

大黒俊二氏(西洋史、大阪市立大学大学院)
      「現代イタリア・市壁との共生
           ~ルッカ、チッタデッラ、ボローニャの事例から~」

  シンポジウム   コメント 堤 道明氏(大阪市経営企画室長)
                北川 央氏(日本史、大阪城天守閣)

    論点整理・コーディネーター
               仁木 宏(日本史、大阪市立大学大学院)

*提出いただいた準備ペーパーなども総合しますと、みなさんの御報告は以下のようになると思います。

 内堀さんのご報告は、古代から現代までの岐阜市の成り立ちを復元図などで説明した上で、まちづくりにおける総構活用の現状を行政・NPO法人・住民組織の3者の立場から紹介されるものです。

 近代における都市計画至上主義を見直し、協働のまちづくり活動を進めてゆくなかで総構がどのような可能性をもっているのか論じていただきます。

 増田さんのご報告は、近世城下町の惣構(堀)がもっともよく残っている(?)金沢において、現在の用水が近世の惣構の位置とどの程度、合致するかを解明します。

 その上で、今夏おこなわれた西外惣構堀の発掘結果を報告いただき、また金沢市による、惣構堀をいかしたまちづくりの先進的な事例を紹介してもらいます。

 中村さんのご報告は、日本の都市城壁(土塁)としてはもっとも残りのよい(?)、京都の御土居堀を対象に、それが近世、幕府権力によって竹の生産地としてきびしく管理されていたことを説明いただきます。

 また、近代以降、破壊の進む御土居堀の実状と、御土居堀を利用したまちづくりをはじめた鷹峯地区の活動について述べていただきます。

 大黒さんのご報告は、イタリアの中世・近世に城壁を築いたルッカ、チッタデッラ、ボローニャをとりあげ、市壁の歴史とその活用について説明いただきます。

 市壁の保存と破壊が、単なる偶然ではなく、それぞれの都市の歴史的性格と密接にからまり合っていることを「傷つきやすさ」「屈折した共生」などのキーワードで語っていただけるようです。

 今回のシンポジウムは、都市城壁(惣構)の実態や構築された理由をさぐるというよりは、それがその後、どのように継承されたか、あるいは破壊されたかということを、それぞれの都市の歴史の文脈のなかで解明してゆくことが主になりそうです。

 その上で、今後、そうした都市城壁をまちづくりにいかしてゆく方法、理念などについて、新しい提案をすることができればと考えています。

 お二人のコメンテーターからもそうした趣旨のコメントをいただけるはずです。

 都市の歴史をしっかりと見すえた上での歴史遺産の活用やまちづくりの提案ができればと思います。
(仁木宏氏)

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2005.11.17

名古屋城天守を遠望し会食

11/17(木)はれ

P2210222

 栄中日文化センター「古地図」講座の日。
 名古屋へ向かう。

 本日は山科本願寺と寺内町の話をする。
 2時間みっちりお話したのですが、やっぱり足りません。 

 詳しくは、山科本願寺・寺内町研究会編
 『戦国の寺・城・まち―山科本願寺と寺内町』(法蔵館、1998年)
をご覧下さい。

 写真の場所は、その土塁遺構(国道一号線沿い、丸山書店北側、史蹟未指定)です。
 が、最近、この場所は大きな改変を受けていると連絡がありました。
 近々に視察に行かねば。

 終了後、お客さんと喫茶する。

 その後、東京の友人が名古屋へ来。
 名古屋城天守閣が遠望できる場所で会食する。

 有益な日でした。

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2005.11.16

ブッシュ大統領、上洛

11/16

imadegawa

 午前中、ある用事で、寺町三条上ルの天性寺へ向かう。
 10時待ち合わせ。

 うかつにも烏丸今出川を東へ向かう。
 同志社女子高校・大学の前で、テレビカメラなど多数の報道陣にはばまれて進行できず。
 警官は「一般通行人を通してください」と叫んでくださいますが、あまりの数で通れず。

 やむをえず車道へ出て、かわしました。

 帰宅してニュースをみますと、来日中のブッシュ大統領夫人ローラ氏が同志社女子高校に滞在していた由。
 ああ、それに巻き込まれたのだ、とわかりました。
 
 そういえば、去る11月13日深夜10時30分、京都市北区で多数の警官により交通規制を受けました。
 自転車なのですよ。
 自転車さえ、堀川通や北大路通の横断を禁じられたのです。
 ブッシュ大統領がすでに来日しているのだと思いました。 

 ところが翌日の京都新聞を読むと、予行演習だった、とありました。
 あんな大々的に予行演習をするのだ、と驚きました。

 やはり本日のニュースで、ブッシュ大統領が鹿苑寺(金閣寺)を訪れたと知りました。
 あぁ、このコースの警備の予行演習だったのだ、と分かりました。

 庶民中村武生の生活は、このたびの米大統領の来日に、ささやかながら影響を受けたのでした。
(写真は烏丸今出川交差点から東を見る。人の多さに注目。クリックすると大きくなります。右は京都御苑、左は同志社大学)

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2005.11.15

新聞連載の打診を受ける

11/14(月)

PC080223

 週間新聞社Kより、連載の打診がありました。

 何ができますか、と聞かれたので、つねづね考えている「京都の維新史」の常識がどのように形成されたのか、提示してみたいと述べました。

 名づけて「タネ明かし、京都の明治維新」(仮)。 

 関心をもっていただいたようなので、タイトル案を送るよういわれました。
 快諾。
 
11/15(火)
 できました。
 さっそくつくりまして、担当の方にお送りしました。
 さあ、どういうことになるでしょう。

 おお、今日は龍馬暗殺の日でしたね(慶応3年=1867)。
 夜、お誘いを受けて祇園にまいりますので、帰途、近江屋跡を訪ねてみましょう。

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2005.11.11

都市城壁(惣構)を町づくりにいかす、準備会に参加

11/10木

machizukuri

 大阪市立大学へ行く。
 来る11/23、「都市城壁(惣構)を町づくりにいかす」というシンポジウムがあります。
 僕も報告者のひとりです。 

 その準備会に参加しました。

 同大学の大黒俊二先生の「現代イタリア・市壁との共生―ルック、チッタデッタ、ボローニャの事例から」を聴きました。
 感動。日本人とイタリア人の意識の違いがよくわかる。
 都市城壁について、何と日本人の意識が低いか、痛感。

 都市城壁を残し、明日活かしたいと思っている方、おススメです。
 とてもよいシンポになりそうです。

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2005.11.10

伏見巡見、またの機会に

11/6(日)つづき

fushimi24

 話しがながくなってきましたので、簡潔に片付けましょう。
 以下のコースを歩きました。

 伏見奉行所跡(写真)→四辻の四つあたり→道標→寺田屋→中書島遊郭跡→京阪「中書島」駅前の三宅碑

 ご苦労様でした。
 びっくりするぐらい、みなさんよいお顔でお帰りになりました。
 続編を期待したいところです。

 終了後、担当H氏、お客さん2人と飲みに行きました。
 楽しい一日でした。

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2005.11.09

伏見義民の碑のことなど

11/6つづき

fushimi23

 つづいて御香宮神社へ。
 御香水を試飲します。

 社務所で金箔瓦を見せてもらいます。
 宮司さんから解説を賜る。

 宮司さんは伏見城址研究会の代表をしておられます。
 京都市の周知の遺跡になっていなかった時代に、個人で採集してきたものとうかがい感銘を受ける。

 こういう個人の努力が、つぎの時代の遺跡保存、調査研究につながります。

 「明治維新伏見の戦跡」碑(写真)のあと、表門そばの「伏見義民」碑に立ち寄る。
 
 天明年間、伏見奉行の悪政に立ち向かい非業の最期を遂げた町人7人のお話しです。
 この事件はその後も子孫に類が及び、ついに大半の血縁は絶えてしまったそうです。

 おそらく住民も連座をおそれ、保護できなかったのでしょう。
 維新後、事件の100年目にようやく顕彰碑がたつわけです。
 住人は事件を忘れられなかったのでしょうね。

 専門ではありませんが、思いを込めてお伝えしました。
(つづく)

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2005.11.08

本田美奈子さんの死を悼む

11/7(月)はれ

20051107

 『京都新聞』朝刊で本田美奈子さんの死去を知る。
 本田美奈子さんは僕と同い年です。

 アイドルとしてデビューされたとき、僕は高校3年生でした。
 特別ひいきにしてきた方ではないけれど、多くの同期のアイドルのその後を見ていると、その行動は「頑張れ」といいたくなるようなものでした。
 
 本年初頭に病に倒れられたことは聞いておりましたが、それが死にいたる病とはうかつにも認識していませんでした。
 残念でなりません。

 僕はスポーツ紙は全く読みませんが、今日ばかりは駅売店で購入(スポーツ報知、写真)。
 彼女の死について、もう少し知りたかったから。

 本日は天理大学の日でしたので、受講生にも「残念」を伝えました。
 一生懸命生きてください。
 生きたくても生きれなかった人がいるのです。
 無駄に生きては申し訳がたたない。

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2005.11.07

伏見魚三楼の戊辰役の弾痕を見る

11/6(日)あめときどきくもり

P9100071

 伏見を歩くイベントの日(京エコロジーセンター主催)。
 当初、定員24名。
 定員オーバー後も申し込みがつづき、26名までは受け付けましたが、残りはお断りをしたそうです。
 担当者H氏によると、この手の企画では初めてのことだそうです。

 ところが当日、待ち合わせ場所に飛び入りが1人ありました。
 さらに歩きながら、2人また飛び入りされ、計29人となりました。

 これもすごい。

 京阪電車「伏見桃山」駅で集合。
 京町三丁目の魚三楼の鳥羽伏見戦争の弾痕を見に行きます(写真)。
 
 伏見の町は同戦争で焼けたはず。
 当ブログの読者は、これまで寺田屋の話しをさんざんしてきたので、ご存知のことと思います。
 ではどうして弾痕が残っている?
 
 ここで鳥羽伏見戦争当時の焼失範囲を示した瓦版(コピー)をみます(「本しらべ城州伏見大火の図」)。
 徳川方の本拠である伏見奉行所の西側は、一帯が焼失範囲です。
 ところが、わずかに戦火を免れた地域があります。
 そこに「京町三丁目」がありました。
 
 なるほど燃えなかったのか。
 それなら弾痕が残っていても不思議はありません。
 
 寺田屋などの事例を体験していると、こういう結果はとてもさわやかになります。
(つづく)

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2005.11.05

未知の三宅碑を宇治で発見!

11/4(金)はれ
 午後から、新旧の受講生のHさん、Nさんとともに、宇治市歴史資料館へ行く。
 いまここでは「宇治の碑」展が行われています。

 宇治には三宅碑がいくつか建っているはずです。 
 まだ1基しか確認していません。

 もっとあるはずだ。
 もしや、と思い、期待して参観したわけです。

 予想通り、未知の1基を確認!!
 銘文は、 

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 (表)「不焼地蔵尊 能化院」
 (裏)「昭和三年秋禀京都三宅安兵衛遺志建之」
 
です(宇治市木幡中村)。
 『木の下蔭』の「建碑一覧」に「能化院の碑」として載っているものです。
(拙稿「京都三宅安兵衛・清治郎父子建立碑とその分布」『花園史学』22号、70ページ、220番)。
 
 どこにあるか分らなかった「能化院の碑」が確認できたわけですが、付録がありました。
 能化院の本尊が「不焼地蔵尊」だったことです。

 実は宇治木幡の「不焼地蔵」の碑を建てるため下検分をした、という話しは「三宅日記」に載っていたのです。
 ところが「不焼地蔵」とは何で、宇治木幡のどこにあるのか、私の中途半端な調査では分かっていなかったのです。

 これにより2つの疑問が1つにつながり、解決いたしました。

 が、新たな謎も出て参りました。
 「不焼地蔵」の石標建立の下検分の記事は、1925年(大正14)1月18日条に出てきます。

 が、実際の建碑銘では、1928年(昭和3)秋になっていました。
 どうしてそんなに建立が遅れるのか。
 その後の日記に一切出てこないので分かりません。

 三宅碑は当初、京都市かそのすぐ近郊にのみ建碑されていました。
 それが城南の広範囲に建碑が及ぶのは、西村芳次郎が建碑にかかわる1926年(大正15)8月以後のことです。
 城南である宇治木幡の「不焼地蔵」への建碑計画が、その前年の1925年(大正14)1月に建てられるのは説明がつきません。
 三宅清治郎と能化院、宇治・木幡とのつながりも不明です。

 とはいうものの、同碑研究がまた進んだことは事実です。
 素直に喜びます。
 お礼として、同館へ上記の三宅碑の拙稿を謹呈しました。

 さっそく現地へ行き、同碑を確認。
 お寺の管理の方にお願いし、「不焼地蔵尊」も拝観できました。
 すばらしい一日でした。

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2005.11.04

広隆寺で未知の三宅碑確認

11/3(木)あめのちはれ

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 本日は戦前の「明治節」。明治天皇の誕生日です。
 いまは文化の日です。戦前以来、この日に文化勲章の授賞式があったから。
 これに反対しているのか、他にも理由があるのか、京都市のR命館大学は本日講義があります。

 さて本日は右京区太秦の広隆寺へ行きました。
 目的は桂宮院です。

05110305

 ここにどうやら未知の「三宅碑」があるのではないか。
 ずっと気になっていました。
 ただ桂宮院は期間限定公開で、10月、11月などの日・祝しか入れません。

 今日は該当日なので訪問しました。
 200円です。

 広隆寺にはすでに2基を確認しています。
 1基が桂宮院碑です。
 桂宮院へ行く途中、参道入り口に「左 桂宮院」とあります。

 しかし「三宅日記」によると、桂宮院には2基建てたようです。
 どこにあるのだろう。
 しばらく分りませんでした。
 桂宮院を参拝したこと、ありませんでしたし。

05110302

 広隆寺が発行した書物に、桂宮院の写真が載っていました。
 すると桂宮院を囲む築地・門の前に「桂宮院」と刻んだ碑があります。

 これが未確認の桂宮院の三宅碑ではないか。
 
 やっと今日接触できました。
 どきどきです。

05110304

 裏面を見て、ばっちり。
 あたりです。
 三宅碑です。
 すばらしい。

 さっそく碑銘の筆写、撮影、測量をいたします。
 
 多くのお客が桂宮院を参拝に来ます。
 建物には近づけません。
 門から遠望します。
 「ええーっ、これで200円?」
 悪態をついて帰っていかれます。

 僕は三宅碑確認の目的を果たせたので、何も思いませんが、広隆寺に特別思い入れのない人はそうなのでしょう。 

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2005.11.03

立命館大学へ行き文化財保護を語る

11/2(水)はれ

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 友人から電話あり。心やすらぐ。

 午後3時、立命館大学へ(写真)。
 
 考古学の木立雅朗(きだち・まさあき)先生に呼ばれる。
 卒論を書く学生さん(女性)に、僕の文化財保護活動のこれまでを語ってほしいという依頼です。
 快諾をいたしました。

 拙著『御土居堀ものがたり』を読んでいてくださり、終始楽しくありました。
 木立先生やその学生さんもかかわる文化財保護活動のこともうかがえ、僕が勉強になりました。

 夜は木立先生と学生さんと飲みに行く。
 拙著の出版祝いといわれる。お気持ちがうれしい。 

 西院で軽く食事したあと、居酒屋「北平」へ。

 京都惣構(御土居堀)の土塁・堀跡を少し残す店です。
 拙著にも紹介しましたので、今回お店に寄贈しました。
 
 たいそう酔って帰宅しました。

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2005.11.02

西原理恵子、さすが。

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漫画家、西原理恵子(さいばら・りえこ)が好きです。

 くわしくはいいません。語るときりが無いので。
 『上京ものがたり』(小学館、2004年)は最高傑作と思っています。
 何度もくりかえし読みました。

 『ぼくんち』という作品は映画化をしました。
 傑作と思いますが、読んだ時期が悪かったのか、その強烈さに精神的ダメージを受けました。
 2度と読めず、書架をあたためています。

 そんなわけですから、西原作品を書店で見かけるとうれしくなります。
 
 ところが、書店の著者別コーナーでは、「に」に置かれるのをよく見ます。
 (にしはら・りえこ、と誤読している)

 書店の店員の無知ぶりがわかります。
 バイトでももっと勉強しなさいよ、と思います。
 各種のマンガ賞の受賞者ですよ。

 先日も、古書店「ブックオフ」某店で「に」のコーナーで見つけました。
 ここは以前「司馬遼太郎」を知らないバイトがいて、耳をうたがいました。
 そんな男(若い)を雇っているのです。

 神経質な僕は、5冊以上もある西原本を、「に」から「さ」へ勝手に引越しさせました。
 すっとしました。

 昨日、その西原本の新刊に気づきました。
 『営業ものがたり』(小学館)です。

 めくってすぐ、なげきがありました。
 青年誌の漫画家になって20年もたつのに、あいかわらず「に」のコーナーに置かれることがある、と。
 
 おもわず、「くすり」。
 僕らが思うならともかく。
 すでに「大物」なのに。
 
 さすが。
 やっぱり西原理恵子はすばらしい。

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2005.11.01

研究者と芸術家、目指すところは同じらしい

11/1(火) はれ

05110102
 
 古い友人と会う。
 「芸術家」です。

 京都の町家を利用した喫茶店で昼食しながら、いろいろ質問する。
 「芸術論」を聞く(写真はその店)。

 芸術家と研究者って、「他人」だと思っていました。

 が、最近、ほかにも「芸術家」とふれる機会があり、いやちがうぞと気づきました。
 一芸に秀でた人って、分野が違っても、何のためにするか、という点では同じことをいわれます。
 それは研究者である我々がしていること(目指していること)とどうやら同じようです。

 これまで「他人」だと思っていたのは、単に使用する「言語」がちがうだけのことだったのです。
 勘違いしていました。

 抽象的で申し訳ありませんが、それに気づいて、すがすがしい気がしています。

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