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2005.10.15

伏見城跡を歩きまわる

10/8(土)つづき
 お昼ご飯をすませ、伏見城跡を目指します。

gokogu
 
 途中、御香宮神社(写真)で賑わいを見る。
 神幸祭の日でした。
 出店を見つつ、伏見山を登ります。

 雨がふったり止んだり。
 傘もさしたり閉じたり。

 治部池に着きました。
 伏見城跡の水堀にして、治部小輔こと石田三成屋敷跡推定地に接する地です。
 ただ金網に囲まれて近づけません。
 外から見ます。
 広く深い堀です。
 さすが武家国家の首都の城です。

 ご一緒のFさんは「1人ではとてもこれませんでした」としきり。
 それはよかった。
 ご案内したかいがあります。

 伏見山にはいまも本丸や二の丸など、城の曲輪(くるわ)が完存しています。
 天守台も残っているようです。
 
 でも入れません。
 明治天皇陵域に含まれるからです。
 
 しかし城跡の見学は決して天皇陵に失礼にあたらないはずです。
 天皇の埋葬地とは直接関係がないからです。

 「日本一の城郭」跡が完存している以上、その精査は学問発展に大きな意味をなすはずです。
 天皇陵の公開は、考古学や古墳時代研究にとどまりません。
 近世史研究にも役立つのです。
 公開を望んでやみません。

 ここから入れば治部小丸、二の丸、本丸へ行ける、というところで我々は立ち止まりました。
 柵があります。
 「立入禁止」とあります。

 「残念」な顔をいたしました。

 やむを得ず南へ下っていきました。
 するとびっくり。

 「あれ、ここ柵がありませんね」
 「でもここ、絶対曲輪跡ですよ」
 入ってみました。 

 「すごい広い曲輪ですね」
 「誰の屋敷跡でしょう」

 こういうとき、我々は貴重な成果をもっています。
 山田邦和氏「伏見城とその城下町の復元」です。
(日本史研究会編『豊臣秀吉と京都』文理閣、2001年)

 所収の徳川期の城下町復元図をみてみます(218-219ページ)。
 すると、「板倉重宗」とあります。

 板倉重宗(1587-1656)は徳川3代目の京都所司代です。
 
 では豊臣期は?
 「徳川家康上屋敷」などとあります(222-223ページ)。

 おお、これが事実なら、すごい人の屋敷跡だ。
 そんな場所が立ち入り可能とはすごい。
 薮蚊に襲われることを嫌わなければとてもおススメです。
  
 その後、乃木神社に立ち寄り「乃木ワールド」を堪能。
 さらに伏見城舟入跡や、第1期伏見城こと指月(しげつ)城跡推定地へ。
 伏見城は実は4つあります。

 1つ目が指月城。
 2つ目が本格的な城郭に改造したものですが、慶長地震で倒壊。
 3つ目、位置もかえ再建したものです。
     通称木幡(こわた)城。ここで秀吉は死にます。
     関ヶ原の戦いの前哨戦で、石田三成らに攻撃され落城。
 4つ目、関ヶ原の戦い後、徳川家が再建したものです。
     ここで家康・秀忠・家光の3代が征夷大将軍となります。
     あまり知られていないようですが、江戸幕府の開始は、実は伏見だったのですね。

 世に伏見城の遺構というものがあります。
 西本願寺唐門とか、書院とか、御香宮神社表門(写真)とか。
 これらは常識的には、4つ目の建物でしょう。
 
 「伏見城遺構」という伝承をもつ寺社の建物を見ても、「秀吉」と思ってはいけません。
 徳川期の遺構なのです。

 さすがに歩きつかれました。
 JR「伏見」駅から電車に乗り、京都駅に移動し、打ち上げをしました。

 よく知ったつもりの「伏見」でしたが、まだまだ気づいていないことがある、と痛感した見学会でした。
 もっと歩かなければなりません。
(おわり)


    
 

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