伏見城跡を歩きまわる
10/8(土)つづき
お昼ご飯をすませ、伏見城跡を目指します。
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途中、御香宮神社(写真)で賑わいを見る。
神幸祭の日でした。
出店を見つつ、伏見山を登ります。
雨がふったり止んだり。
傘もさしたり閉じたり。
治部池に着きました。
伏見城跡の水堀にして、治部小輔こと石田三成屋敷跡推定地に接する地です。
ただ金網に囲まれて近づけません。
外から見ます。
広く深い堀です。
さすが武家国家の首都の城です。
ご一緒のFさんは「1人ではとてもこれませんでした」としきり。
それはよかった。
ご案内したかいがあります。
伏見山にはいまも本丸や二の丸など、城の曲輪(くるわ)が完存しています。
天守台も残っているようです。
でも入れません。
明治天皇陵域に含まれるからです。
しかし城跡の見学は決して天皇陵に失礼にあたらないはずです。
天皇の埋葬地とは直接関係がないからです。
「日本一の城郭」跡が完存している以上、その精査は学問発展に大きな意味をなすはずです。
天皇陵の公開は、考古学や古墳時代研究にとどまりません。
近世史研究にも役立つのです。
公開を望んでやみません。
ここから入れば治部小丸、二の丸、本丸へ行ける、というところで我々は立ち止まりました。
柵があります。
「立入禁止」とあります。
「残念」な顔をいたしました。
やむを得ず南へ下っていきました。
するとびっくり。
「あれ、ここ柵がありませんね」
「でもここ、絶対曲輪跡ですよ」
入ってみました。
「すごい広い曲輪ですね」
「誰の屋敷跡でしょう」
こういうとき、我々は貴重な成果をもっています。
山田邦和氏「伏見城とその城下町の復元」です。
(日本史研究会編『豊臣秀吉と京都』文理閣、2001年)
所収の徳川期の城下町復元図をみてみます(218-219ページ)。
すると、「板倉重宗」とあります。
板倉重宗(1587-1656)は徳川3代目の京都所司代です。
では豊臣期は?
「徳川家康上屋敷」などとあります(222-223ページ)。
おお、これが事実なら、すごい人の屋敷跡だ。
そんな場所が立ち入り可能とはすごい。
薮蚊に襲われることを嫌わなければとてもおススメです。
その後、乃木神社に立ち寄り「乃木ワールド」を堪能。
さらに伏見城舟入跡や、第1期伏見城こと指月(しげつ)城跡推定地へ。
伏見城は実は4つあります。
1つ目が指月城。
2つ目が本格的な城郭に改造したものですが、慶長地震で倒壊。
3つ目、位置もかえ再建したものです。
通称木幡(こわた)城。ここで秀吉は死にます。
関ヶ原の戦いの前哨戦で、石田三成らに攻撃され落城。
4つ目、関ヶ原の戦い後、徳川家が再建したものです。
ここで家康・秀忠・家光の3代が征夷大将軍となります。
あまり知られていないようですが、江戸幕府の開始は、実は伏見だったのですね。
世に伏見城の遺構というものがあります。
西本願寺唐門とか、書院とか、御香宮神社表門(写真)とか。
これらは常識的には、4つ目の建物でしょう。
「伏見城遺構」という伝承をもつ寺社の建物を見ても、「秀吉」と思ってはいけません。
徳川期の遺構なのです。
さすがに歩きつかれました。
JR「伏見」駅から電車に乗り、京都駅に移動し、打ち上げをしました。
よく知ったつもりの「伏見」でしたが、まだまだ気づいていないことがある、と痛感した見学会でした。
もっと歩かなければなりません。
(おわり)
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