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2005.10.31

佛教大学学園祭に17年ぶりに参加

10/31(月)はれ
 
20051031

 佛教大学の学園祭(鷹陵祭・おうりょうさい)の初日(写真、クリックすると拡大します)。
 ふだんは全く無関心の行事だが、今年はある学生さんのお誘いがあり、午前中ちらりとのぞきに行く。
 鷹陵祭参加は1988年以来ですから、17年ぶりです。
 
 午後1時から天理大学出講。
 石碑が建たなかった維新史蹟の話しをする。

 ご当地、天理大学のすぐそばは、天誅組の乱の史蹟地のひとつです。
 建碑されなければ、誰にも知られない事例紹介です。
 その前提たる天誅組の乱の解説をする。

 帰途再び、佛教大学・鷹陵祭に立ち寄る。
 ばったりあった受講生の子から勧められた「鍋物」を食べたり、喫茶をしたりと楽しく過ごしました。
 
 午後7時から「平安京・京都研究集会」事務局会議。
 花園大学の山田邦和博士邸に集会。
 次回「研究集会」の話し合い。

 帰宅後もいろいろあって、しんどかったり楽しかったり、と濃厚な日でした。

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2005.10.30

鷺森御坊の最新研究を聴く

10/29(土)あめのちくもり

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 山科本願寺・寺内町を考える市民の会、講演の日。
 事務局員ですので、でかけます。

 受付で拙著を5冊積んでおきましたら、すぐに売り切れてしまいました。
 もっと持ってくればよかった。

 本日の講師は、川端泰幸さん(大谷大学任期制助手)です。
 タイトルは「鷺森御坊と嶋の世界―都市としての雑賀―」。

 浄土真宗本願寺が、織田信長に敗れたあと、大坂本願寺を退去して本山としたのが、紀伊の鷺森(さぎのもり)です。
 その鷺森の史料上の初見から、江戸時代すぐそばに和歌山城下町が成立までの過程を丁寧にお話しくださいました。
 雨天のため少しお客さんは少なめでしたが、みなさん満足げでした。

 終了後、恒例の講師を囲んでの茶話会。
 川端さん、ありがとうございました。

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2005.10.29

霊山歴史館を参観し龍馬の墓参をする

10/28(金)はれ

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 ある方と一緒に東山の霊山歴史館へ行きました。
 いま「龍馬とめぐる人びと展」をしています(~11/20)。
 例の刀の鍔が出品されているというので拝見に。
 
 残念なことに墨書のある箱書きが出品されていませんでした。
 こちらが見たかったのに。
 しょうがない。展示終了後、特別閲覧を申請しましょう。
 展示解説には寺田屋の焼失が示唆されていました。
 そうそう、こっそりでもいいですから、記してくださいね。

 リニューアルしてから初めてうかがいました。
 修学旅行生と思われる層の入館の多いこと。
 他の博物館では見ないような層がいっぱい。
 この館の特徴ですね。 

 龍馬関係よりも、禁門の変勃発直前の嵯峨天龍寺から発信した淵上郁太郎の書簡に興味をもちました(元治元年7月=1864、霊山歴史館蔵)。
 池田屋事件に関する記載もありましたが、自身が池田屋を脱出し河原町の長州屋敷へ逃げ込んだことに(「乃美織江手記」)全くふれていませんでした。

 そのあと霊山墓地(京都霊山護国神社)へ。
 龍馬の墓参。
 今回、名古屋で講座を担当しますので、おまいりです。

 西木屋町四条の喫茶店ソアレで歓談。
 ここは古高俊太郎(枡屋喜右衛門)邸跡です。

 本日の展示や霊山墓地(京都霊山護国神社)の解説について論じ、散会しました。

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2005.10.28

拙著の索引を完成させ、丁寧に論文を読んだ日

10/27(木)はれ
 吉田松陰の祥月命日(安政6年=1859)。

 吉田松陰は大好きです。
 維新史研究者の1人として、こんなことをいっていいのか分りませんが、会えるものならあってみたい人です。
 
PC170028

 午後、いまはまっている、あるテーマの唯一といってよい論文を読み直しました。
 メモを取りながら、ていねいに読みました。
 論文をメモを取りながら読むなんて、正直大学院生以来のことです(すなわち10余年ぶり)。
 それだけこの問題にはまっているのです。
 なるべく近いうちに、この論文に立ち向えるものを書きたいと思っております。

 夜は拙著『御土居堀ものがたり』の索引を完成させました。
 もともと索引をつける予定でした。
 が、あまりにも加筆しすぎたため、掲載を断念したのです(拙著、291ページ参照)。

 しかしやはりあった方がよいと思い、刊行後に試みました。
 きっとお持ちの方々のお役に立つと思います。
 近々にわがサイトで公開します。
 いましばらくお待ち下さい。
(写真は京都所司代屋敷跡の碑。京都市教育会建立。熟読した論文と関係があります。)

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2005.10.27

近世京都の大名屋敷跡を訪れる

10/26(水)はれ
 伊藤博文の祥月命日(1909年=明治42)。

 何だということもありませんが、伊藤は、池田屋事件で死んだ吉田稔麿と同い年で(天保12年=1841)、しかも近所なので家族ぐるみの付き合いをしていました。
 僕は稔麿に執着しているので、伊藤の祥月命日も意識してしまいます。

 さて本日は佛教大学の日。
 先週から江戸時代京都の大名屋敷の話をしています。
 今日は天気がいいので、巡見(現地見学)をすることにしました。
 たまには外に出ないと、それが楽しみで受講している学生が反乱をおこします。

 寛永14年(1637)の「洛中絵図」によれば、千本今出川東入るに「織田出雲守」の屋敷が描かれています。
 織田信長の遺児、信雄の子孫である、大和国大宇陀郡松山の大名家と思われます(のち丹波柏原へ移封)。

 これが佛教大学からもっとも近い大名屋敷です。
 その跡地を訪れることにしました。

 「洛中絵図」のその部分と、現在の京都市都市計画図2500:1の同じ場所のそれぞれのコピーをみなに渡しました。
 これを片手に歩いて行きます。

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 途中、「洛中絵図」に描かれ、しかも現存する上品蓮台寺、引接寺(千本えんま堂)、上善寺などに立ち寄り、その都度「洛中絵図」を確認してもらいます(写真は上善寺前。受講者Mさんの撮影)。

 織田出雲守邸は跡形もありません。
 いまはその敷地のほとんどがマンションです。
 石碑も解説板もありません。

 でも誰もつまらないといいません。
 口を揃えて「大きい敷地やなぁ」といいます。

 その四至をぐるりと1周したからです。
 なんせ約3000坪ですから。
 これが現地に立つすごみです。

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 現地解散。
 次の時間も講義のある人がほとんどです。
 出席カードを書いて、急いで大学へ帰って行きました。
(写真右手が織田出雲守邸跡)

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2005.10.26

何でも経験はするものだと思う

10/24(月)はれ

book20051024-1

 天理大学の日。
 帰途、京都・河原町で古書店、新刊書店をひやかす。

 人生いろんなことを経験した方がいいものらしい。
 気づけないことに気づけるようだ。

 このたび初めて単著をもった。
 その書物が、どこの店の、どのコーナーに、何冊ぐらい、どのように置かれているか、どれほどのペースで売れるのか、関心をもって見て歩いています。
 
 いままでさんざん書店を利用してきた。
 それにもかかわらず初めて気づくことがあった。

 同じ「書店」でも、本店・支店の差異によって置かれる場所や置かれる量がことなるらしい。
 京都のO書店本店は、発売当日、約10冊、レジの前の新刊売り場に平積みだった。
 しかも2階の京都コーナーにもちゃんと1冊並んでいた。

 ところが同じO書店三条烏丸の支店には1冊も置いていなかった。
 
 河原町六角の大型書店、B書店では、日本史・中世(戦国)のコーナーに平積みだった。
 ところが京都コーナーにも、新刊コーナーにも置いていなかった。

 新京極六角の大型書店、K書店では、京都コーナーに平積み。
 逆に歴史系コーナーには1冊もなし。
 
 1冊の本をめぐり、書店はもとより、本店・支店でもこんなに扱いがちがうということを初めて知りました。
 個々の書店の裁量任せなのですね。
 それは良し悪しでしょう。

 拙宅の玄関には、拙著の広告を貼っています。
 近所の、ほとんど話したことのないおじさんが、この広告を見て、僕に話しかけてきます。
 「あんた、御土居の研究してんのか」
 「ご関心がおありですか」
 「そら、そうや。わしら小さいときから御土居をみて暮らしてきたんや」
 それから10数分立ち話。
 おじさんの「御土居」の話しがつづきます。
 おじさん、楽しそう。

 京都新聞出版センターには、新聞広告を読んで、年配の方から問い合わせがあるそうです。
 「どんな本ですか」と。

 昨日、本日も京都の大型書店2~3から再注文があったそうです。
 すでに印刷分の半数が世の中に流れた計算になります。
 まだ発売から5日間です。

 この本は京都市内で売れ行き好調のようです。
 「歴史の本」として売れているのではなく、京都の本として売れている感じです。

 書店さん、京都コーナーに置いてください。
 売れ行きが変わるような気がします。
 タイトルに「京都」を入れるべきだったなぁと、少し後悔しています。

 今回、京都の新進気鋭の写真家、水野歌夕(みずの・かゆう)氏も、初めての写真集を出されました(『京の路地風景』東方出版)。
 実は僕と同期で同窓です。
 同じ佛教大学史学科1991年卒業です。

 その2人が、いっしょに初の単著を出したわけです。
 さらにいえば、2001年、僕が京都新聞で連載していたとき、彼女も同じ曜日に連載をしていました。
 こんな偶然ってあるんですね。
 不思議なご縁です。

 K書店に行くと、その2人の書物が隣同士で並んでいました(写真)。
 すごいなぁ。

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2005.10.25

寺田屋の建物と旧蔵品問題

10/23(日)つづき

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 春田明氏の成果によれば、
①伏見の医師、藤田升斎(1814-1870)が、寺田屋で遭難し伏見薩摩屋敷へ逃れた龍馬を治療した。
②その際、その記念として、龍馬から藤田升斎に小柄と鍔が贈呈された。
③のち寺田屋の願いにより、それぞれを譲渡した。
ということです(44-46ページ)。

 ただその根拠は、藤田升斎の孫の藤田呉竹が、升斎の妻(呉竹の祖母)からの聞き取りです(「垂髫記」)。

 寺田屋事件後、龍馬を治療した医師の実名はもとより、その存在さえ、おそらくこれまで語られなかったと思います。
 事件よりかなり時間も経過しているので、史料価値は落ちます。
 が、当事者の妻の回想を聞き書きしたものですから、無視してよいものとは思えません。
 だからとりあえずは信用しておこうと思います。

 さてそのうち小柄は消失したようですが、鍔は京都府立総合資料館に現存します。
 それを収める箱には墨書があります。

 「此刀ノ鍔ハ坂本君カ当家ニテ幕吏ニ取囲マレタル際差料ニ用ヰラレタルモノニシテ戊辰ノ兵燹ニ罹リ一旦火中ニ埋リタル品ナリ/寺田屋所蔵/京都府立図書館蔵(異筆)」

 ここからは春田氏の解釈と「義憤」です。

 藤田家は「戊辰ノ兵燹」、すなわち鳥羽伏見戦争で焼失したが寺田屋は燃えなかった。
 だから箱書きにある「当家」とは本来藤田家のことで、藤田家が焼け跡から鍔を土中から拾い出し、その後寺田屋に譲渡したはず。
 それにもかかわらず墨書の文に「藤田家」のことを一切記さないのは、「道義的に」「寺田屋は怠慢のそしりを免れない」とされます。
 
 「藤田家」のことを一切記さないのが「道義的に」問題があるかはこの際論じません。
 それよりも著者春田氏が、現存の寺田屋を、維新以前の建物と無批判に信じている点は問わなければなりません。
 
  寺田屋お登勢の息子、寺田伊助の申立書によれば(1906年5月=明治39)、
 「戊辰の兵燹ニ罹リ、家屋諸共焼失」
とあり、ここからも幕末の寺田屋の建物が焼失したと考えるが自然です(『坂本龍馬全集』初版、760ページ)。

 前述の続きに「今ハ只左ノ二品ノミ所有致居申候。一、槍の穂(略) 一、故有馬新七殿ノモノセシ教訓書一軸」とあります。

 鍔の記載がありません。
 ですからこれはもともと藤田家のもので、鳥羽伏見戦争以後に寺田屋の所蔵に変った可能性は否定できません。 

 なおこの鍔はその後寺田屋の手を離れ、福井伊右ヱ門の所有となります。 
 ついで1915年(大正4)11月17日、400円(当時)で薩摩出身の樺山資紀と東郷吉太郎に売却される。
 さらに1917年(大正6)3月1日、両人および柴山矢八から京都府立京都図書館(当時)に寄附されるのです。
(春田氏前掲書、46-50ページ)

 本史料は原典を確認しましたので、同書にはありませんが京都府立総合資料館の出納番号を付記します(「京都府庁文書」大6-41 件名67「寄附物品受入ノ件 伏見寺田屋遺物」)

 現在は府立総合資料館へ移管され、京都文化博物館が管理しています。

 いずれにせよ、寺田屋の現存建物が「幕末当時のもの」と疑われることなく「事実」となっていることが問題です。
 それが定点となり、次の推定の基礎になっているからです。
 誤解の上になされる推定は、事実から遠く離れたものになるにちがいありません。
 
 「営業妨害」をおそれず、寺田屋焼失の事実はきちんと流布させるべきだと思います。
(写真は現存寺田屋「梅の間」の表札。「竜馬の部屋」とある)

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2005.10.24

寺田屋問題を再考するため京都府立総合資料館へ行く

10/23(日)あめのちくもり

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 午後から京都府立総合資料館へ行く。

 先日、「こんな文献がありますよ」と、いつもお世話になっている同館司書の松田万智子さんからメールをいただきました。
 
 本ブログの10/13条、「戊辰役で焼失した寺田屋」をご覧になられてのことです。
 ここで同館所蔵の龍馬の刀の鍔を紹介しました。
 その鍔が京都府立図書館に収蔵される経緯を記した文献がある、と紹介してくださったのです。

 その文献とは、春田明『藤田丹岳と山陽-附・俳人藤田呉竹』(東京図書出版会、2003年)です。
 
 知らないことがいっぱいありましたので、これを書評しつつ、「寺田屋問題」を再論してみたいと思います。
(写真は現在の寺田屋の梅の間-「龍馬の部屋」)

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2005.10.23

坂本龍馬を論じる・その1

10/22(土)はれ
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 平安京・京都の誕生日。
 延暦13年(794)、桓武天皇による遷都令がでた日です。

 本日、それを記念して時代祭があります。
 年配の友人、Sさんから入場券をいただきましたが、残念ながら本年は無理。

 名古屋で仕事があります。
 本日より栄中日文化センターでの「坂本龍馬講座」開講です。
(写真は公文菊僊・画の龍馬像。中村武生所蔵品)

 お客さん30人。
 古地図講座に比して、10余人多い。

 まず冒頭、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」のイメージで来られた方はがっかりされると思います、と伝える。
 
 僕は龍馬を使える史料にもとづき、現在の明治維新史研究の成果のなかで存在を位置づけたい、という思いで語ります。
 それゆえまちがいなく「ヒーロー」ではなくなります。
 でもそこにこそ悲哀のある「人間」がいます。
 それを語りたいとお伝えしました。

 本日の主題は、京都の龍馬史蹟や伝説がどのように生まれてきたか、の解明です。
 よくもわるくも、京都市教育会の寺井萬次郎とその仲間の個性が構築してきたこと、を指摘しました。
 これはなるべく早く論文化したいと思っています。

 少しタイムオーバー、残ってしまいました。
 次回つづきをいたします。

 終了後、恒例の茶話会。
 今回は10余人も参加。喫茶店、大変なにぎわい。
 「新選組」以来の受講生の方、大半が戻ってこられました。
 さすが幕末ネタはちがう。
 もちろん新しい方も4名参加。
 
 余熱はつづき、2次会へ。
 実に楽しいひとときでした。

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2005.10.22

伏見のまちづくりに参加できた日

10/21(金)はれ
 
 京のアジェンダ21フォーラムなど主催の「伏見エコ宝さがし講座」に講師として参加。

 同団体のエコツーリングワーキンググループの十倉真未子さんの趣旨説明から始まる。
 エコツーリングと僕の活動が、どの程度からむか、理解していませんでした。

 趣旨説明をうかがい、涙腺がゆるんできました。
 これはもうまさに僕が願い、やろうとしてきたこと、そのものだと知りました。

 僕の番です。
 今日は伏見の旧市街の一部を歩き、その知られざる歴史環境をみなさんにお伝えする予定です。
 ですからそのコース説明をしようと思っていました。

 でも十倉さんのお話をうかがい、気が高ぶってまいりました。
 僕がこれまでしようとしてきたこと、それがエコツーリングそのものだったといわずにはいられませんでした。
 自己紹介でほとんど時間がつぶれました。

 残り時間で簡単に、今回のコースにかかわる伏見の歴史をお伝えしました。
 
 つづいてNPO法人コミュニティデザイン研究所の永橋為介さん(博士〈農学〉)の「まちづくり」のお話し。
 とてもお話しがおもしろい。
 すいこまれていきそうでした。
 自分が好きなまち、これを明日変えてみたい、そんな気になる講演でした。

fushimi5

 お昼ごはんのあと、現地へ。
 伏見板橋小学校や伏見中学校が江戸時代の尾張屋敷跡です。
 両校には同じく江戸時代の道標が計3本移築されています。
 道標論をいたしました。

 また同じ場所に明治天皇聖蹟碑があります。
 明治天皇聖蹟とその指定解除、問題点、今後の課題など、論じる。
 ここだけで大変な時間をくう。
 担当H氏、N氏あせりぎみ。

 つづいて薩摩屋敷跡へ。
 いま酒工場。
 建碑がなされていません。
 寺田屋で遭難した坂本龍馬が逃げ込んだ場所です。
 龍馬で町おこしをねらっている伏見のみなさん、この場所をなぜ見落としている。
 ここに碑を建てなさい、ここで「龍馬」の銘柄の酒を売りなさい。
 確実な由緒地ですよ。
 ニセモノの場所でとやかくせず、本当の地で啓発をいたしましょう。
 声をかけてください。
 ご協力します。
(中略)

fushimi18

 予定の時間を大幅にすぎて、もとの場所へもどってくる。
 さあこれから見たものを模造紙に書き込んでいきます。
 建碑すべき場所も多くきづきました。

 歴史や文化、伝統を生かした伏見のまちづくり、これは進むかも知れない。
 何よりもわずかな僕の知識や経験がここで生かされようとしている。
 本当に楽しくありました。勉強にもなりました。感動もしました。

 おなかいっぱいな日でした。
 参加者で打ち上げがしたい気分でしたが、僕も、みなさんも次の予定がちゃんと入っていました。
 残念。

 ぜひまた、と別れを惜しみつつ、さよならをいたしました。

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2005.10.21

東京や名古屋に御土居堀ものがたりが並ぶ

10/20(木)はれ つづき
 
 午前10時40分、大垣書店北大路店に立ち寄る(地下鉄北大路駅前)。
 レジ前の新刊コーナーに拙著『御土居堀ものがたり』9冊あることに気付く。
 書店で初確認。

 新幹線で名古屋へ。
 栄中日文化センターの講座「江戸の古地図散歩」第1回。
 江戸時代の京都、道標と武家屋敷(いわゆる藩邸)を論じる。

 登録者19人。
 半数が新しいお客さん。
 これからよろしくお願いします。

 終了後、恒例の茶話会。
 3人の方とお話し。

 各地から「書店で本を見付けた」というメールが来る。
 名古屋駅にある高島屋11階の三省堂にも3冊あったと知り、名古屋にもあるのか、と行く。
 すでにあと1冊になっていた(写真)。

nagoya20051020

 1冊はお知らせくださった、名古屋のお客さんFさんのお買い上げですが、もうひとかたは知らない人。
 名古屋で当日拙著を買ってくださいますか。
 ありがとうございます。
 
 その後、東京・八重洲ブックセンターにも10冊あったとご連絡いただき、全国の大きな書店に並んでいることを知る。
 驚嘆。

 帰途、大垣書店北大路店に再び立ち寄る。
 8冊になっていました。
 どなたかが買ってくださったのですね。
 ありがとうございます。

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2005.10.20

御土居堀ものがたり書店に本日並ぶ

10/20(木)はれ

20051020

 今朝起きて、『京都新聞』を読む。
 地域・広域面(27面)を見ると、
 でかでかと拙著『御土居堀ものがたり』発売本日と載っている。

 昨日は、三宅日記輪読会メンバーのSさんが3冊を注文くださった。
 深夜には、発売日前日ながら「届いた」という未知の方から「読んだ」とメールをいただいた。

 この本が「御土居堀」再評価の一助になることを願ってやみません。

 本日は名古屋に出張です。
 途中、書店に並んでいる「彼」を探してみます。

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2005.10.19

江戸時代京都の大名屋敷を論じる

10/19(水)はれ
 洗濯をする。
 天をあおぐ。なんと青い空か。
 空が「青い」とおもえる。
 何とうれしいことか。

 11時、京(みやこ)エコロジーセンターのNさんが拙宅に来られる。
 あさっての同センターのイベントに使う都市計画図2500:1を取りにこられたのです。
 立ち話で失礼する。
 これから講義があるためです。

 12時50分、佛教大学「歴史地理学」の講義。
 江戸時代京都の大名屋敷(いわゆる藩邸)について語る(写真は薩摩屋敷跡碑)。

PB160245

 武家が住むことの少なかった近世京都にどうして多くの大名屋敷があるのでしょう。
 みなさん考えてください、と次回への宿題。

 実は種本があります。
 藤川昌樹氏「徳川期京都における武家屋敷の成立」です。
(宮崎勝美・吉田伸之編『武家屋敷』山川出版社、1994年)

 この論文がこの問題のほとんど唯一の近年の成果です。
 この論文に、若干の管見を加え、来週論じます。

 このブログをご覧の受講生のみなさん、ぜひ上記論文を図書館などで手に入れて、来週受講してください。
 きっとその方が理解が早いです。
 期待しています。

 夜、「三宅日記輪読会」に参加。
 今夜は1922年(大正11)2月条を読む。

 あわせて1919年(大正8)2月1日条の三宅安兵衛の遺言の部分を読む。
 メンバーのSさんから、亡父君の遺言、他界の日のエピソードをうかがい驚嘆する。
 参加者5名。
 いつも以上に学ぶことの多い会でした。

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2005.10.18

京都新聞に『御土居堀ものがたり』発売が告知される

10/18(火)はれ

news20051018

 本日の『京都新聞』朝刊社会面に、拙著『御土居堀ものがたり』発売の告知が出ました
(写真。クリックすると拡大して読めます)。
 
 同新聞社出版センターのサイトには昨日から。
 いくつかの書店のサイトではもう少し前から受付を開始しています。

 ですから「20日発売」とありますが、もう書店に出ているのではないか。
 と思って、大学書店に寄ってみましたが、ありません。

 書店をふらふらしていたら、2年前、高校生のとき教えていた某さんが「先生!」と声をかけてきました。
 おお、久しぶり。
 喫茶部に行き、近況を聞きます。

 拙著の話しをすると、えらい関心をもたれ、「先生、読んでみたいわ」と。
 
 それはよかった。
 佛教大学の学生さんなのだから、キャンパスがその遺跡地の1部であるミヤコの城壁・堀のことを知ってください。
 ぜひ読んでね。

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2005.10.17

伏見の寺院の墓地跡をみる

10/13(木)はれ
 午後1時、京阪「伏見桃山」駅。
 
 京エコロジーセンターのH氏と待ち合わせ。
 11月、同所のイベントで伏見町を巡見します。
 その下見です。
 最近、伏見づいているなぁ。

fushimi14

 いろんな名水を歩き、その都度、試飲します(写真)。
 うまい。

 たまたまコースちかくで、京都市埋蔵文化財研究所が発掘調査をしておられました。
 寺院跡です。

 担当されておられるのがYさんです。
 いろいろな研究会でいつもお世話になっています。

 以前にお目にかかったおり、墓地が調査対象になっていると聞いていました。
 ぜひにとお願いし、今回見学させていただくことになりました。

 実に多くの墓。
 明確に墓道がわかり、どういうふうに個々の墓が並んでいたかとてもよく分かります。

 1つ1つの墓穴がすごく小さく意外でした。
 大半が土葬ですのに。
 かなり小さく折りたたんで埋葬されていたようです。
 もちろん人骨もそのままで、思うこと大でした。

 この現場は、近世の墓研究の基準のひとつになるでしょう。
 もしかしたら今後、伏見城下町の発展過程も明らかになるかも知れません。

 調査はまだ続けられます。
 今後が楽しみです。
 どうもありがとうございました。 

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2005.10.16

奨学院址碑、消失する

10/9(日)

ichigoro

 市五郎神社に参拝(中京区西ノ京原町、国史蹟指定地、写真)。
 土塁(御土居)が境内にあります。
 あたかも土塁が神体のようです。

 先日、拙著『御土居堀ものがたり』を謹呈しましたところ、改めて5冊のご注文を頂きました。
 本日、お届けにあがったわけです。
 
 帰途、千本三条の交差点に立ち寄りました。
 ある変化がありました。

 そこにパチンコ店がありました。
 しばらく改装のため休業しておられました。
 本日、新装開店されたようです。

 そんなことに何の関心があるのか?

PC180123
 
 実は以前、ここには京都市教育会が戦前の大正6年(1917)3月に建立した、ある石碑が建っていたのです。
 「従是西北 奨学院址」(これよりせいほく、しょうがくいんし)です。

 奨学院は、在原行平(在原業平の兄)が創建した一族のための教育施設です。

 以前のパチンコ店の改装では、1度石碑は撤去され、「後ろ向き」という劣悪な状態で再建されていました。
 今回の改装で再び撤去されなければよいが、念じていたのです。

 立ち寄ってみました。
 ありません。

 警備のおじさんに声をかけ聞いてみましたが、「しらんなぁ」。
 
 ああ。
 すでに無くなったことが確実な京都市教育会の建立碑は、以下の通りです(順不同)。

 ○北持明院殿址
 ○柴田鳩翁修斉舎址
 ○尊攘堂址
 ○此附近源義経堀川邸址
 ○林道春邸址
 ○豊臣秀吉築造京都市外郭御土居残きょ
 ○後藤象二郎寓居址

 また増えてしまったということでしようか。
 改めて関係者を訪ねてみないといけません。

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2005.10.15

伏見城跡を歩きまわる

10/8(土)つづき
 お昼ご飯をすませ、伏見城跡を目指します。

gokogu
 
 途中、御香宮神社(写真)で賑わいを見る。
 神幸祭の日でした。
 出店を見つつ、伏見山を登ります。

 雨がふったり止んだり。
 傘もさしたり閉じたり。

 治部池に着きました。
 伏見城跡の水堀にして、治部小輔こと石田三成屋敷跡推定地に接する地です。
 ただ金網に囲まれて近づけません。
 外から見ます。
 広く深い堀です。
 さすが武家国家の首都の城です。

 ご一緒のFさんは「1人ではとてもこれませんでした」としきり。
 それはよかった。
 ご案内したかいがあります。

 伏見山にはいまも本丸や二の丸など、城の曲輪(くるわ)が完存しています。
 天守台も残っているようです。
 
 でも入れません。
 明治天皇陵域に含まれるからです。
 
 しかし城跡の見学は決して天皇陵に失礼にあたらないはずです。
 天皇の埋葬地とは直接関係がないからです。

 「日本一の城郭」跡が完存している以上、その精査は学問発展に大きな意味をなすはずです。
 天皇陵の公開は、考古学や古墳時代研究にとどまりません。
 近世史研究にも役立つのです。
 公開を望んでやみません。

 ここから入れば治部小丸、二の丸、本丸へ行ける、というところで我々は立ち止まりました。
 柵があります。
 「立入禁止」とあります。

 「残念」な顔をいたしました。

 やむを得ず南へ下っていきました。
 するとびっくり。

 「あれ、ここ柵がありませんね」
 「でもここ、絶対曲輪跡ですよ」
 入ってみました。 

 「すごい広い曲輪ですね」
 「誰の屋敷跡でしょう」

 こういうとき、我々は貴重な成果をもっています。
 山田邦和氏「伏見城とその城下町の復元」です。
(日本史研究会編『豊臣秀吉と京都』文理閣、2001年)

 所収の徳川期の城下町復元図をみてみます(218-219ページ)。
 すると、「板倉重宗」とあります。

 板倉重宗(1587-1656)は徳川3代目の京都所司代です。
 
 では豊臣期は?
 「徳川家康上屋敷」などとあります(222-223ページ)。

 おお、これが事実なら、すごい人の屋敷跡だ。
 そんな場所が立ち入り可能とはすごい。
 薮蚊に襲われることを嫌わなければとてもおススメです。
  
 その後、乃木神社に立ち寄り「乃木ワールド」を堪能。
 さらに伏見城舟入跡や、第1期伏見城こと指月(しげつ)城跡推定地へ。
 伏見城は実は4つあります。

 1つ目が指月城。
 2つ目が本格的な城郭に改造したものですが、慶長地震で倒壊。
 3つ目、位置もかえ再建したものです。
     通称木幡(こわた)城。ここで秀吉は死にます。
     関ヶ原の戦いの前哨戦で、石田三成らに攻撃され落城。
 4つ目、関ヶ原の戦い後、徳川家が再建したものです。
     ここで家康・秀忠・家光の3代が征夷大将軍となります。
     あまり知られていないようですが、江戸幕府の開始は、実は伏見だったのですね。

 世に伏見城の遺構というものがあります。
 西本願寺唐門とか、書院とか、御香宮神社表門(写真)とか。
 これらは常識的には、4つ目の建物でしょう。
 
 「伏見城遺構」という伝承をもつ寺社の建物を見ても、「秀吉」と思ってはいけません。
 徳川期の遺構なのです。

 さすがに歩きつかれました。
 JR「伏見」駅から電車に乗り、京都駅に移動し、打ち上げをしました。

 よく知ったつもりの「伏見」でしたが、まだまだ気づいていないことがある、と痛感した見学会でした。
 もっと歩かなければなりません。
(おわり)


    
 

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2005.10.14

坂本龍馬逃亡ルートを探る

10/8(土)つづき

 寺田屋から坂本龍馬逃亡ルートを探ります。
 
 坂本龍馬の寺田屋遭難は、慶応2年(1866)1月23日夜です。
 長府の三吉慎蔵といるところを、伏見奉行所の役人に襲われました。

 この事件については、龍馬の手紙など、同時代の「使える」史料が少なくありません。

 最終的に伏見の薩摩屋敷に逃げ込むのですが、その途中、避難していたという場所が古写真で残されています。
 「材木小屋」です。
 背後に橋が写っているためか、その場所も特定され、維新史蹟を紹介する各種の書物に紹介されています。

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 そこを訪れました。
 いまは酒工場になっています。
 橋は見えません。
 高い建物があります。
 ここに上がれば橋が見えるかも知れません。
 用件を述べ立ち入りを許していただきました。

 たしかに見えました。
 なるほど写真の場所はここかも知れません。

 ただ本当にここが2人の避難場所でよいのか、少なからず疑問があるのですが、今回はよしとして、薩摩屋敷跡へ向かいます。

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 薩摩屋敷跡も酒工場になっています。
 さきほどの地もそうですが、何ら石碑など過去の来歴を示すものがありません。

 そういえば伏見には、史蹟碑が少ない。
 これは伏見が「京都市」であることに起因すると思います。

 京都市が「京都」で出来ない(あるいは不十分な)啓発事業が、「紀伊郡伏見町」にすぎなかった郊外でなされるわけがない。

 伏見は伏見だけで行政のまとまりがあるべきでした。
 1929年(昭和4)5月1日、せっかく伏見町から伏見市になったのに、わずか2年で京都市に編入されてしまいました(1931年3月31日まで伏見市)。

 「伏見市」であれば、独自の歴史啓発があったはずです。
 惜しまれてなりません。

 現在も進められている市町村合併を見ながら、伏見のことがうかび、顔が曇ってしまいます。
(つづく)

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2005.10.13

戊辰役で焼失した寺田屋

10/8(土)つづき

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 中書島遊郭跡を通り、寺田屋に着きました。
 
 現在、寺田屋では、坂本龍馬が宿泊していた当時の建物のように説明しておられます。
 が、違います。
 幕末の建物は戊辰戦争(鳥羽伏見戦争)で焼失しているからです。

 位置もちがいます。
 幕末当時の位置は、現在石碑などが建てられている、現建物の東側の庭です(写真)。
 
 以前はよく知られていたようで、伏見町役場編『御大礼記念京都府伏見町誌』(1929年)にはっきりと記されてあります。
 「寺田屋遺址 字南浜 京橋北詰東に在り、現在の建物の東隣を遺址とす」(575ページ)

 現在の寺田屋さんの宣伝により、事実が抹消されてしまったのですね。
 すごいことです。

 根拠は2つあります。
 まず伏見戦争での焼失範囲を明示した絵図です。
 各種ありますが、ことごとく寺田屋附近は焼失範囲に入っています。

 もう1つ。
 京都府立総合資料館蔵の龍馬使用鍔(つば)の箱書きです。

 それには伏見の戦争の後、土中から掘り出したもの、という表現があります。
 常識的には、建物焼失のあと、焼け残ってそのまま土中に埋まったと理解すべきでしょう。

 この話しをすると必ず聞かれることがあります。

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 「でも現在の建物には刀傷がありますよ?」

 簡単なことです。
 再建後に付いた(付けた?)ものです。

 寺田屋の建物は、坂本龍馬にかたよらず、広く、伏見港が「船のり場」として活用されていた頃をイメージできる貴重な遺構、というのが客観的評価だと思います。

fushimi17
 
 伏見の各所に散在する道標の多くに「船のり場」とあります。
 (写真はその1つで、右側「右 大阪舟のり場道」)

 それがどこを指すのか。
 寺田屋のまん前ですね。
 それをイメージするために、本当にありがたいものと思っています。
 
 もちろんそれではお客が集められなかったのかも知れません。

 「史蹟はつくられる」、を象徴する事象と思います。
 興味深い。
(つづく)

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2005.10.12

10月20日、書店に並びます

 拙著『御土居堀ものがたり』を書店で買ってやろう、という奇特な方がいらっしゃいます。

 その方々へ。
 書店に並ぶのは、10月20日(木)とわかりました。
 その日の『京都新聞』朝刊にも載るそうです。

 もうしばらくお待ちください。
 よろしくお願いします。

 【余事】風邪をひき、本日はふせっております。
  医者に行きましたし、今夜は酒を断ちましたので、早晩治癒すると思われます。
  ご心配なきよう。

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2005.10.11

中書島遊郭跡を通る

10/8(土)つづき
 
 三宅碑のあとは寺田屋へ向かいます。
 碑の側面の道を北上します。

 途中の地域が「中書島」です。
 ある時期、宇治川の中ノ島だったのです。
 駅名はここから来ています。

 ここが埋め立てられ遊郭ができました。

 いまでも遊郭時代の建物が残されていて、隠れた名所になっています。
(つづく)

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2005.10.10

伏見城下町と坂本龍馬史蹟を歩く

 10/8(土)あめのちくもり

 午前10時、京都駅でF氏と合流。
 
 目的は伏見城と城下町を歩くことです。
 F氏は名古屋の中日文化センターのお客さんです。

 伏見城跡に残る「治部池」をご覧になりたいといわれたので、ご案内することになりました。
 治部池は、もと伏見城の水堀の跡です。

 ただそれだけではすぐ終わってしまいます。

 それゆえ別のネタのご案内もいたしましょう。
 F氏は坂本龍馬の熱心なる愛好者であられるので、坂本龍馬が寺田屋で遭難した際の逃亡ルートを想像して歩く、というのを提案してみました。

 関心をもっていただいたので、まずそれを行います。

 京都駅から近鉄に乗り、丹波橋駅から京阪に乗り換えます。
 中書島駅で下車。

teradaya

 まず久しぶり、三宅碑をながめます。
 表に「長建寺」を指し示す大き目の道標です。
 側面には「寺田屋/大黒寺」を案内しています(写真。移転前)。

 「寺田屋/大黒寺」はともに維新史蹟です。
 「寺田屋」は有名ですね。
 大黒寺も寺田屋事件戦死者9名の墓所なのです。

 さて以前にブログでご紹介しましたが、最近この三宅碑は位置が変わりました。

 僕はそのとき強く怒りましたが、その後、移転の経過がわかってまいりました。
 どうやら行政はこの碑が邪魔で、撤去を望んだそうです。
 それに対してある方が、強く反発し、そのため場所移転ですんだそうです。
 場所移転はまだましで、運が悪ければ、消失したわけです。

 「ある方」から、僕の三宅碑調査の助力者K氏に手紙で連絡がありました。
 それを拝見して知りました。
 
 お寒い話しです。
(つづく)

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2005.10.09

明治維新史学会大会に参加する

10/7(金)つづき

 明治維新史学会大会。
 午後から報告がはじまります。

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 報告4本。
 (1)文久三年京都政局における米沢藩の動向   友田昌宏氏
 (2)明治初年の立憲制導入問題と元田永孚    池田勇太氏
 (3)幕末の修陵事業-朝廷側の視点から-    佐竹朋子氏
 (4)伊達宗紀の海防策                 藤田 正氏

 学ぶこと甚大でした。
 とくに(1)と(3)は自分の研究と直接関係がありますので、本当に有意義なことを教えていただきました。

 が、自分の学習不足を棚にあげてあえていわせていただくと、正直「こんなことがこれまで明らかにされていなかったのか」、という思いです。
 
 明治維新史研究の歴史は決して短くはありません。
 いかに実証研究が遅れていたかをつくづく感じた日でもありました。

 僕は報告をうかがいつつ、質疑の時間になると、会場を走りまわります。
 質問者にマイクをもって行く係だったのです。

 あとで「大変でしたね」、とねぎらっていただきましたが、当人はけっこう楽しんでおりました。
 
 参加者70人。
 大きな学会を経験されておられる方にとっては少ないと思われるかも知れませんが、参加者の大半が関東からお越しで、そう思うと出席率は高いといえます。
 不思議なぐらい、関西からの参加が少ない。

 懇親会も9割ぐらいの方が参加で、こちらの出席率もすごい。

 懇親会の席で、若い研究者である重田麻紀さん(慶応大学・院生)から玉稿をいただきました。

 「近世後期松代藩の村役人と処罰-福嶋村沖八差紙不出頭問題をてがかりに-」
(渡辺尚志編『藩地域の構造と変容-信濃国松代藩地域の研究-』岩田書院、2005年)
です。

 ありがとうございました。
 お礼に拙著『御土居堀ものがたり』を差し上げる。
 重田さんは、2002年、僕が当学会で報告させていただいたとき、司会をつとめてくださいました。
 それ以来のお付き合いです。
 
 懇親会は1次会で失礼しました。
 町田明広氏(佛教大学・院生)といっしょに京都へ帰ります。

 町田さんは長州毛利家の政治史を専攻されており、
 「池田屋事変における吉田稔麿について」(『霊山歴史館紀要』16号、2003年)が有名なお仕事です。

 最近は文久3年(1863)の「猿ヶ辻の変」に立ち向かっておられます。

 東京からお越しで、今夜は拙宅にお泊りです。
 午前2時半まで、飲みながらさまざまなことを語り合う。

 あとから気づく。
 傘をどこかに忘れてきた。
 またか。
 だから傘はきらい。

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2005.10.08

3度目の大阪市立住まいのミュージアム

10/7(金)くもりのち雨

 明治維新史学会、秋の大会の日。
 
 僕は大会運営委員ですので、早めに行きます。
 本日は午後から雨なのだそうで、いやなのですが、傘をもっていきます。

 傘は邪魔で、本当に嫌いです。

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 会場は大阪市立住まい情報センター(大阪市立住まいのミュージアム)です。
 10階建てのビルの9階に、江戸時代後期の大坂の町並みがつくられてある、という実に意外な空間です。

 僕は大好きで、これまで2回訪れています。
 ぜひ参観なさってください。
 一見の価値があります。
 おススメいたします。

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2005.10.07

家の掃除をする

10/6(木)
 家の掃除をする。

 新聞の集金人の方こられ、購読料を払う。
 町内会長さんが国勢調査票を引き取りに来られ、お渡しする。
 
 それ以外、誰とも会うことなく、家にこもって仕事をする。

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2005.10.06

伏見城下町の最新研究を論ずる

10/5(水)あめ

 朝、キンモクセイが大変香る。
 秋なのだ、と深く感じました。

 本日は、女優黒木瞳さんの誕生日だそうですが、
実は僕の誕生日でもあります。
 38歳になりました。

 佛教大学に出講(科目名「歴史地理学」)。
 上記のことを述べますと、意外なことに拍手があがりました。
 びっくり。

 講義は、伏見城下町について。
 最近の研究動向を論じます。

 意外と受けたようで、続きが聞きたいという感想が多くありました。
 それはまた来週。

 終了後、来週から教育実習に行くというS君から指導教科について質問を受ける。
 喫茶部に行き、いろいろ話す。

 夜はいつもの「G」で誕生会(写真は韓国鉄板鍋)。

G2

 少なくない方々からメールで祝辞をいただきました。
 ありがとうございます。
 
 記さなかった楽しいことが他にも多数あり、楽しい誕生日になりました。
 幸せなことでした。

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2005.10.05

伏見の史蹟を歩く、準備会に参加する

10/4(火)くもりのち雨
 
 「伏見エコ宝さがし講座」というイベントが、今月21日(金)に行われます。

 伏見を「探検」し、そのエコロジーのツアーコースをつくる、というものです。
 主催は「京のアジェンダ21フォーラム事務所」と「京エコロジーセンター」です。

 僕は、エコロジーの専門家ではありませんが、あまり知られていない伏見の史蹟をご紹介するということで、お招きいただきました。
 
 僕にとって伏見は、豊臣期の城下町について検討したり、幕末の鳥羽・伏見戦争について論述したりしましたので、「私の城下町」なわけです(『中世都市研究』10、『歴史読本』2002年12月号など)。

 本日はその準備会が行われました。

 午前10時、京阪「丹波橋」駅西口集合。
 参加者は担当者4名のほか、僕と同じく講師をつとめる永橋為介さん(NPO法人コミュニティデザイン研究所)、計6名です。
 永橋さんは「まち歩き」の専門家です。

 会議は「京都市伏見青少年活動センター」で行われました。
 
 実はここは江戸時代、尾張徳川家の大名屋敷でした。
 参加メンバーはご存知ありませんでした。

 現地に全く標柱や解説板がないため、やむをえないところがあります。
 伏見にはその他にも多数の大名屋敷がありましたが、いずれにも建てられていません。
 
 このように標柱がなく、知られていない「伏見」が多数あります。
 会議のあと、現地を歩きました。

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 市伏見青少年活動センターの横には2つの公立学校があります。
 伏見板橋小学校と、伏見中学校です。
 それぞれの門や校庭に、近世の道標が建てられています。

 伏見には、伏見街道や竹田街道が南北に走っております。
 そこにあったものが、邪魔者扱いされて運び込まれたものです。

 弘化4年の建立ですので、坂本龍馬や近藤勇など幕末の人物が目にしたものでしょう。
 そんなお話しもできるなぁなんて考えながら、コースを考えながら歩きました。

 坂本龍馬が逃げ込んだ薩摩屋敷跡、伏見城下町の外郭「惣構」跡の濠川、御簾をつくっている工場、寺田屋事件戦死者を葬った大黒寺、豊臣期や徳川城下町建設でその都度移転を強要された由緒をもつ金札宮など、2時間近く歩きました。

 途中、大雨が降ってきて、歩きにくくなりましたが、まぁほぼ当日のコースが決まりました。
 
 終了後、さらに次のイベントの打ち合わせをするため、担当H氏と昼食をともにする。
 伏見の歴史などを楽しく語り合う。

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2005.10.04

天理大へ出講し史蹟空間を論ずる

10/3(月)はれ
 天理大学出講の日。
 先週はオリエンテーリングでしたので、本日から内容に入っていきます。
 「人文地理学概論」です。

 「場」というものがどのようにして生まれるか、を考えよう。
 「史蹟」のある「場」・・・史蹟空間はどのようにして生まれるか、について論じます。
 本日は導入。
 中身はまた来週、と思ったら、来週はさっそく休日で休講。
 
 せっかく始まったところなのに。
 きっと次回、受講者は何をしていたか忘れることでしょう。
 困ったものです。

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 天理図書館に立ち寄り(写真)、夏休み中借りていた書籍を返却する。
 戦前刊行の書籍の蔵書量が抜群で、ありがたい図書館です。

 現在刊行の書籍の収蔵も同じようにして下さると、もっと助かるのですが。

 夕方、帰宅。
 すぐに自転車に乗り、友人M氏宅へ届け物をする。

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2005.10.03

新選組不動堂村屯所跡の新しい表示板建つ

10月2日(日)はれ夕方から雨
 
 御土居堀研究会、緊急講座の日。
 いつもかわいがってくださっている会員のみなさんに、書店に並ぶ前に頒布するという企画です。
 
 ただし会場の都合で先着30人さままで。

 しかし現実にはそれ以上、お越しになられる可能性があります。

 実際その通りになりました。
 万一に備えて余分にもっていってよかったです。
 
 頒布のあと、ミニ講演。
 以前にブログでも紹介しました「本満寺買得地」石標の発見のお話しをいたしました。

 終了後、残っておられた方と茶話会。
 なぜか作家、吉村昭氏の話で盛り上がる。

 お手伝いしてくれた佛教大学学生のNさん、S君、ありがとうございました。

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 帰途、西洞院通塩小路の交差点で、これまで見なかった史蹟解説板にきづく。

 なんと「新選組不動堂村屯所跡」を示したものです。
 びっくり。

 ご存知の方も多いと思いますが、不動堂村屯所は新選組の最後の屋敷で、未だにその正確な遺跡はわかっていません。

 以前はその名の由来となった「不動堂」が、その遺跡として、書物などにその写真が掲載されていました。
 しかし一昨年、近くのホテルが石碑を建立してから、そちらにお株を取られていました。
 もちろん、何ら根拠があっての建碑ではありません。

 今回の解説板はそのいずれの場所ともちがうところです。

 これで「新選組不動堂村屯所跡」を示すものは3つになりました。
 なかなかおもしろい現象です。

 でもそろそろこの論争に決着をつけなきゃ。

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2005.10.02

京都市立高校の先生に御土居堀を語る

10/1(土)はれ

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 京都市立高校の先生に、御土居堀のお話しをする日。
 
 お昼12時30分、京都市立紫野高校に入りました。
 講演会場です。

 佛教大学のとなりの高校ですが、はじめて入りました。
 直木賞作家、綿矢りさの母校でもあります。
 実際、綿矢りさを教えた先生にもお会いでき、感無量でした。

 拙著を11冊持参しましたが、完売しました。
 ありがとうございます。

 1時間半余の講演のあと、現地へ。
 紫野高校のある地区は、御土居堀のもっとも良好な遺跡地です。

 いつものように「御土居餅」の光悦堂にも寄りました。
 
 北西隅の土塁・堀を所有される「有明」(「オアシス」)の森田さんにもまた甘えまして、中に入れていただきました。ありがとうございます。

 目的の場所に着かないのに予定の午後4時半が過ぎました。
 残念ながら途中で終了。

 3名の先生と中華料理店へ懇親会へ。
 楽しいひとときでした。
 ごちそうさまでした。

 僕がこの研究で依拠していたある史料集の編者の方がおられたり、おそるおそる述べた発言がうけたり、いろいろ得ることも多くありました。
 心より感謝申し上げます。

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2005.10.01

佛教大学の書店に並ぶことになる

9/29(木)はれ
 講義はないが、佛教大学へ。
 お目当ての先生にお目にかかれず。

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 校内の書店に立ち寄る。
 既知の定員Fさんに会う。

 「ついに出ましたね。もう注文しましたよ」といってくださる。
 拙著『御土居堀ものがたり』のことです。

 佛教大学内の書店にも並ぶのです。
 ありがとうございます。
 うれしくございます。

 その後は京都市内のお世話になったお家へ当該書籍を持参する。
 お会いできない方も多く、お手紙を添えて郵便ポストなどに投函する。

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