坂本龍馬逃亡ルートを探る
10/8(土)つづき
寺田屋から坂本龍馬逃亡ルートを探ります。
坂本龍馬の寺田屋遭難は、慶応2年(1866)1月23日夜です。
長府の三吉慎蔵といるところを、伏見奉行所の役人に襲われました。
この事件については、龍馬の手紙など、同時代の「使える」史料が少なくありません。
最終的に伏見の薩摩屋敷に逃げ込むのですが、その途中、避難していたという場所が古写真で残されています。
「材木小屋」です。
背後に橋が写っているためか、その場所も特定され、維新史蹟を紹介する各種の書物に紹介されています。
そこを訪れました。
いまは酒工場になっています。
橋は見えません。
高い建物があります。
ここに上がれば橋が見えるかも知れません。
用件を述べ立ち入りを許していただきました。
たしかに見えました。
なるほど写真の場所はここかも知れません。
ただ本当にここが2人の避難場所でよいのか、少なからず疑問があるのですが、今回はよしとして、薩摩屋敷跡へ向かいます。
薩摩屋敷跡も酒工場になっています。
さきほどの地もそうですが、何ら石碑など過去の来歴を示すものがありません。
そういえば伏見には、史蹟碑が少ない。
これは伏見が「京都市」であることに起因すると思います。
京都市が「京都」で出来ない(あるいは不十分な)啓発事業が、「紀伊郡伏見町」にすぎなかった郊外でなされるわけがない。
伏見は伏見だけで行政のまとまりがあるべきでした。
1929年(昭和4)5月1日、せっかく伏見町から伏見市になったのに、わずか2年で京都市に編入されてしまいました(1931年3月31日まで伏見市)。
「伏見市」であれば、独自の歴史啓発があったはずです。
惜しまれてなりません。
現在も進められている市町村合併を見ながら、伏見のことがうかび、顔が曇ってしまいます。
(つづく)
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