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2005.10.14

坂本龍馬逃亡ルートを探る

10/8(土)つづき

 寺田屋から坂本龍馬逃亡ルートを探ります。
 
 坂本龍馬の寺田屋遭難は、慶応2年(1866)1月23日夜です。
 長府の三吉慎蔵といるところを、伏見奉行所の役人に襲われました。

 この事件については、龍馬の手紙など、同時代の「使える」史料が少なくありません。

 最終的に伏見の薩摩屋敷に逃げ込むのですが、その途中、避難していたという場所が古写真で残されています。
 「材木小屋」です。
 背後に橋が写っているためか、その場所も特定され、維新史蹟を紹介する各種の書物に紹介されています。

zaimoku

 そこを訪れました。
 いまは酒工場になっています。
 橋は見えません。
 高い建物があります。
 ここに上がれば橋が見えるかも知れません。
 用件を述べ立ち入りを許していただきました。

 たしかに見えました。
 なるほど写真の場所はここかも知れません。

 ただ本当にここが2人の避難場所でよいのか、少なからず疑問があるのですが、今回はよしとして、薩摩屋敷跡へ向かいます。

satsuma

 薩摩屋敷跡も酒工場になっています。
 さきほどの地もそうですが、何ら石碑など過去の来歴を示すものがありません。

 そういえば伏見には、史蹟碑が少ない。
 これは伏見が「京都市」であることに起因すると思います。

 京都市が「京都」で出来ない(あるいは不十分な)啓発事業が、「紀伊郡伏見町」にすぎなかった郊外でなされるわけがない。

 伏見は伏見だけで行政のまとまりがあるべきでした。
 1929年(昭和4)5月1日、せっかく伏見町から伏見市になったのに、わずか2年で京都市に編入されてしまいました(1931年3月31日まで伏見市)。

 「伏見市」であれば、独自の歴史啓発があったはずです。
 惜しまれてなりません。

 現在も進められている市町村合併を見ながら、伏見のことがうかび、顔が曇ってしまいます。
(つづく)

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