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2005.09.03

徳川公儀の薬園の井戸

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  徳川公儀の薬園の井戸(中村武生)

 京都の江戸時代の史蹟を歩くといつも悲しい気持ちになる。あまりに評価されていないからだ。
 京都には江戸以前の重要史蹟が夥しくあり、文化財保護の手はそちらへ偏っている。

 北区鷹峯を例にあげたい。
 
 近世京都の外郭線「御土居堀」、京の七口のひとつ「長坂口」、本阿弥光悦の形成した「光悦町」など、学校の教科書類に載っているものが存在する。

 が、恥ずかしいほど顕彰されていない。
 
 とりわけこの地に徳川公儀(幕府)の薬園があったことは知られていない。
 公儀の薬園といえば、江戸の小石川が有名だが、京都にもあった。

 寛永十七年(一六四〇)の創設で、医官藤林道寿が明治維新まで維持した。
 栽培された薬種は朝鮮人参など、ある時期一〇五種にも及んだ。

 薬種は所司代を通じて天皇や法皇に献上され、ときには江戸の将軍にも運ばれた(上田三平『日本薬園史の研究』)。
 医学史に欠かせない存在だ。
 
 維新後、藤林道寿は罷免され、薬園は茶畑などに転用された。現在そこには「藤林町」の地名とわずかな畑、藤林邸跡の井戸が現存する。
 井戸は珍しい素掘りのもので、とても深い。
 
 ところが遺蹟地にはこれを示した解説板などが全くない。
 保護すべき対象になっていないのだ。
 
 さきにふれた小石川薬園は、東京大学理学部の付属植物園としていまも現役だ。
 大名家では島原松平家のものが、民間では奈良県の森野薬園などが国の史蹟に指定されている。
 公儀の鷹峯薬園が放置されてよいわけがない。

 いや戦前には一定の評価があった。
 
 時代は上るが本能寺跡、聚楽第跡、池田屋跡など重要史蹟約八十ヵ所に、いま碑が建っている。
 京都市教育会の事業だ。
 
 これらは今でも京都の歴史を啓発し続けている。
 実は最近、当時の建碑候補地一覧を確認できた。
 そこに「薬園址/鷹ヶ峯」とあった。
 建碑計画があったのだ。残念ながら実現できなかったらしい。

 いまからでも遅くない。
 地域の方の協力を得て、建碑してみたいものだ。

【写真のキャプション】
民家にひっそりと存在する藤林邸跡の井戸。
周囲は開発が進み、農地は減る一方だ。

※写真はクリックすると拡大します。
  新聞掲載の文章と若干異なります。

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コメント

Hさん、こんにちは。
井戸の深さ、どれだけあるのでしょうね。

 一度誰かが入って調べてくれるとうれしいです。

 冗談です。 
 二度とあがってこれなくなるので、とんでもないことでした。
 

 昔、地理学のF先生(K大学)が、学生に、二条城の堀の深さを調べろと命じました。

 「どうすればよいのでしょう」と質問すると、「メジャーをもって堀に入ればわかる」と一喝。

 F先生がこわい学生たちは、夜中に、本当に水堀に入って測量したそうです。

 後日、結果を報告すると、「ほんまに入ったんか、あほやなぁ」といわれたそうです。

 すごい話。
 このエピソードを思い出しました。

投稿: 中村武生 | 2005.09.05 11:37

徳川公儀の薬園の井戸の話は、去年私が受講したときに話されてましたよね。
薬草の種類の話もされていたような・・・。
東京の小石川の方は今の健在なのに、こっちは史跡にされてないと嘆いていたこと・
熱く語っていたのを思い出しました。
井戸の深さって、結構ありますよね。どれぐらいあるんでしょうね(^_^)

投稿: 元受講生のHです | 2005.09.03 10:34

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