徳川公儀の薬園の井戸
徳川公儀の薬園の井戸(中村武生)
京都の江戸時代の史蹟を歩くといつも悲しい気持ちになる。あまりに評価されていないからだ。
京都には江戸以前の重要史蹟が夥しくあり、文化財保護の手はそちらへ偏っている。
北区鷹峯を例にあげたい。
近世京都の外郭線「御土居堀」、京の七口のひとつ「長坂口」、本阿弥光悦の形成した「光悦町」など、学校の教科書類に載っているものが存在する。
が、恥ずかしいほど顕彰されていない。
とりわけこの地に徳川公儀(幕府)の薬園があったことは知られていない。
公儀の薬園といえば、江戸の小石川が有名だが、京都にもあった。
寛永十七年(一六四〇)の創設で、医官藤林道寿が明治維新まで維持した。
栽培された薬種は朝鮮人参など、ある時期一〇五種にも及んだ。
薬種は所司代を通じて天皇や法皇に献上され、ときには江戸の将軍にも運ばれた(上田三平『日本薬園史の研究』)。
医学史に欠かせない存在だ。
維新後、藤林道寿は罷免され、薬園は茶畑などに転用された。現在そこには「藤林町」の地名とわずかな畑、藤林邸跡の井戸が現存する。
井戸は珍しい素掘りのもので、とても深い。
ところが遺蹟地にはこれを示した解説板などが全くない。
保護すべき対象になっていないのだ。
さきにふれた小石川薬園は、東京大学理学部の付属植物園としていまも現役だ。
大名家では島原松平家のものが、民間では奈良県の森野薬園などが国の史蹟に指定されている。
公儀の鷹峯薬園が放置されてよいわけがない。
いや戦前には一定の評価があった。
時代は上るが本能寺跡、聚楽第跡、池田屋跡など重要史蹟約八十ヵ所に、いま碑が建っている。
京都市教育会の事業だ。
これらは今でも京都の歴史を啓発し続けている。
実は最近、当時の建碑候補地一覧を確認できた。
そこに「薬園址/鷹ヶ峯」とあった。
建碑計画があったのだ。残念ながら実現できなかったらしい。
いまからでも遅くない。
地域の方の協力を得て、建碑してみたいものだ。
【写真のキャプション】
民家にひっそりと存在する藤林邸跡の井戸。
周囲は開発が進み、農地は減る一方だ。
※写真はクリックすると拡大します。
新聞掲載の文章と若干異なります。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。


コメント
Hさん、こんにちは。
井戸の深さ、どれだけあるのでしょうね。
一度誰かが入って調べてくれるとうれしいです。
冗談です。
二度とあがってこれなくなるので、とんでもないことでした。
昔、地理学のF先生(K大学)が、学生に、二条城の堀の深さを調べろと命じました。
「どうすればよいのでしょう」と質問すると、「メジャーをもって堀に入ればわかる」と一喝。
F先生がこわい学生たちは、夜中に、本当に水堀に入って測量したそうです。
後日、結果を報告すると、「ほんまに入ったんか、あほやなぁ」といわれたそうです。
すごい話。
このエピソードを思い出しました。
投稿: 中村武生 | 2005.09.05 11:37
徳川公儀の薬園の井戸の話は、去年私が受講したときに話されてましたよね。
薬草の種類の話もされていたような・・・。
東京の小石川の方は今の健在なのに、こっちは史跡にされてないと嘆いていたこと・
熱く語っていたのを思い出しました。
井戸の深さって、結構ありますよね。どれぐらいあるんでしょうね(^_^)
投稿: 元受講生のHです | 2005.09.03 10:34