« 2005年7月 | トップページ | 2005年9月 »

2005.08.31

毎日のべ200人もお越しとは存じませんでした

2004

 人気ブログランキングでは、最近1日に70人程度の方が投票してくださるようで、1位と2位を行ったり来たりしています。

 3日前、ついにブログの容量が一杯になり、書き込み困難になりました。
 
 それゆえ止むをえず、初めてバージョンアップしまして、容量を2倍にしましたところ、予期せずアクセス解析が見れるようになりました。

 そこで知ったのですが、毎日のべ200名以上の方が訪問して下さっていたのですね。

 あまりの多さに感動いたしました。

 これまでに感謝いたすとともに、今後もどうかご愛顧下さいますよう、よろしくお願いいたします(写真は文章と直接関係がありません。於祇園一力)。

| | コメント (0)

2005.08.30

石田孝喜『京都高瀬川』刊行を喜ぶ

ishida

去る8/24(水)
 石田孝喜氏『京都 高瀬川』(思文閣出版、2200円+税)が恵贈される。
 
 石田孝喜氏は戦後まもなく京都にこられ、それからずっとJR京都駅前に住まれて、京都の郷土史に没頭してこられた方です。

 単著は多く、『幕末維新京都史跡事典』、『写真でみる維新の京都』、『京都史跡事典』(すべて新人物往来社)など。

 これだけ並べると、京都の明治維新史が専門と思われがちです。
 ところが専門は、高瀬川なのです。

 京都史の泰斗、故・林屋辰三郎先生やそのお弟子たちに高瀬川案内をしたほどの方です。
 
 ところがこの専門を、まったく単著として刊行されませんでした。

 僕は20年前、高校3年生のとき、『幕末維新京都史跡事典』を購読して、手紙で質問状を差し上げて以来の交流があります。
 文字通り「先生」です。

 ずっと石田先生に「高瀬川はまだですか」、といいつづけてきました。
 この方ほど高瀬川を知っている人はいない。
 高瀬川をまとめた方が皆無に近い。

 もうご高齢です。
 昨年満80歳になられました。

 「先生、高瀬川をあの世にもっていかないで下さい」、なんて暴言まで吐いて、刊行を心待ちにしていました。

 今回刊行が実現し、感無量です。
 本当によかった。

 これから僕も高瀬川を最初から勉強いたします。

| | コメント (0)

2005.08.29

廃案になった拙著、表紙案

 廃案になった拙著『御土居堀ものがたり』表紙案も見たい、というご要望を頂きました。
 そこで掲載させていただくことにしました(写真はクリックすると拡大します)。

13

 どうぞご覧ください。
 よろしくお願いいたします。

| | コメント (0)

2005.08.28

拙著の表紙案が提示される

 去る8/26(金)、京都新聞出版センターから電話がありました。

 拙著『御土居堀ものがたり』の表紙案が届いたという連絡です。

 さっそく駆けつける。
 2案ありました。
 さぁ、どっちがよいでしょう。
 
 悩みまして、一旦返事を保留しました。
 それから2日、会う人会う人、みんなに聞いて歩きました。

14

 その結果、約40対0で、写真で掲示している方が良い、というご意見を頂きました(写真はクリックすると拡大します)。
 ご意見頂戴したみなさんに感謝申し上げます。

 刊行は9月下旬です。

| | コメント (2)

2005.08.27

連載5「滋賀県の三宅碑」その2

2005_08240075

 「微妙大師万里小路藤房卿墓所」碑のつづきです。
 (写真はクリックすると拡大します)

 碑に記された、万里小路(藤原)藤房は、後醍醐天皇の側近の公家で、建武の新政を助けた人物です。
 ところがまもなく天皇と対立して突然出家、その後行方不明になります。
 
 道標に指し示された妙感寺には、妙心寺2世の授翁宗弼の墓所があります。

 いつのころか分かりませんが、この授翁宗弼こそが、万里小路藤房ののちの姿だという説があり、一部では信じられています。

 「微妙大師」は授翁宗弼の諡号で、昭和初年に贈られました。
 つまりこの建碑の直前です。
 碑の建立のきっかけが、大師号授与だったことは間違いないでしょう。

 碑銘に「授翁宗弼」ではなく、「万里小路藤房卿」と刻んだのは、これを妙心寺の聖蹟ではなく、南朝史蹟として認識したための建碑だったと思われます。

 ちなみに「三宅日記」にはこの建碑について一切記載がありません。
 清治郎自身が建碑したものは、多くの場合、何らかの記載があります。

 あるいは清治郎は出資しただけで、「南朝史蹟」に関心をもつ別の誰かによって建てられたものかも知れません。
(まだつづく)

| | コメント (0)

2005.08.26

連載5「滋賀県の三宅碑」

「京都に石碑を建立す」連載5
番外編その1「滋賀県の三宅碑」

2005_08240074

8/24(水)のつづき
 古高俊太郎の先祖墓地を離れたあと、旧中山道を通って、JR守山駅へ戻る。
 夕方5時少し前。

 日暮れにはまだ時間がある。
 もう一件、行っておきたいところがある。

 滋賀県唯一の三宅碑です。
 以前、某所で三宅碑の講演をしたとき、お客さんから教えてもらったのです。
 
 「滋賀県にもあったなんて・・・。」
 とっても驚きました。
 早く実見したかったのですが、なかなか行けず。
 
 今日は何としてでもと、やってきました。

 場所はJR草津線「三雲」駅前(旧甲西町三雲〈現湖南市〉)。
 旧東海道沿いです。

 碑銘は、
 (表)微妙大師万里小路藤房卿墓所
 (左)妙感寺 従是二十二丁
 (裏)昭和四年夏京都市三宅清治郎建之

です(写真はクリックすると拡大します)。

 お気づきでしょうか。
 いつもの碑とちがいますね。
 そう。
 「安兵衛遺志」ではないのです。
 三宅清治郎、自分の氏名をちゃんと書いているのです。

2005_08240080

 どうしてか。
 おそらく建立地が京都ではないからでしよう。

 ほかにも「三宅清治郎建之」や「三宅洛園建之」という碑が確認できていますが、いずれも京都府以外か、昭和5年以後です(「洛園」は清治郎の雅号)。
 つまり「亡父の遺言」の条件と異なる場合です。
(つづく)

| | コメント (0)

2005.08.25

古高俊太郎の先祖墓地を訪問す

8/24(水)はれ
 午後、庶務で滋賀県近江八幡市へ行く。

 帰途、守山市へ立ち寄る。
 守山市古高町の古高俊太郎(ふるたか・しゅんたろう)先祖の墓調査のためです(写真は誕生地〈顕彰碑建立地〉への道標。写真は全てクリックすると拡大します)。

2005_08240018

 古高俊太郎は幕末の志士です。
 滋賀県守山市古高町が「本籍」地です(写真は同町に建つ顕彰碑)。

2005_08240022


 長州毛利家のエージェントとして、8・18政変のあと宮・堂上に出入りして毛利家の政治活動を助けました。
 しかし新選組に捕らえられ、それが原因で池田屋事件が起きます。

 僕の大学卒論のテーマが古高俊太郎でしたので、ずっとこだわっておりました。
 ようやく昨年末「古高俊太郎考」(『明治維新史研究』創刊号、明治維新史学会)という小文を発表できまして、それはそれでほっとしているのですが、まだ完成ではありません。

 ひとつには古高俊太郎の特異な活動、すなわち宮・堂上に信用があったという点の具体的解明です。
 
 古高は、元山科毘沙門堂門跡(慈性法親王、有栖川宮家出身)の家来でした。
 その経験・人脈がその活動を支えたわけですが、「山科毘沙門堂門跡家来」という職は、古高が初代ではありません。

 現在知られるところでは、父周蔵以来のものです。
 その周蔵はというと、決して若い時からこの職にあったわけではなく、元は大津代官所の手代だったのです。

 大津代官所手代から山科毘沙門堂門跡家来に転進したという、けっこうこれも特異な職歴で、もし父が転職していなければ「志士古高俊太郎」は生まれなかったでしょう。

 ではなぜ周蔵はそんな珍しい職歴をもちえたかというと、厳密には分かりません。
 しかし唯一推定できる情報があります。

 それは妻(俊太郎の母)の実家の職業です。
 妻すみは松本多門という人物の娘ですが、これは公家広橋家の家来なのです。
 
 妻すみの実家の縁が、周蔵の転職を実現させた、と考えられるのです。

 しかし情報があまりに少なすぎます。
 こんな推定でいいのか、という自らの不満を解消すべく、違う角度からの情報収集を心がけています。

 そのひとつが、古高の先祖墓地調査です。

 古高周蔵の墓は、京都市上京区の福勝寺にあります。
 この寺は関白九条家の菩提寺なのですが、娘智恵(俊太郎の妹)の婚家が九条家と縁があったため、智恵によって営まれたものです。

 つまり古高周蔵以後の墓所は京都にあり、故郷古高町にはありません。
 ここから、周蔵は古高本家の家督相続者でなかったと推定されます。

 大津代官所手代という職は、古高本家の世襲ではないのかも知れません。
 では本家は何をしていた家なのか。
 古高俊太郎の政治活動を支えた環境は、純粋に父母が構築したものといってよいのか、本家は関係ないといってよいのか。

 どうしてそこまで疑うのか、と思われると思います。
 
 実は古高家は出身地の地名と同一であることからお分かりのように、地元の名家なのです。
 
 古高俊太郎伝の名著のひとつ、高田文太郎氏『古高俊太郎』(執筆寺井秀七郎氏、古高俊太郎先生遺徳顕彰会、1964年、3~4ページ)によれば、地元古高町の墓地には、戦国期の「古高大和守」に始まる由緒を記した墓碑など、豊臣期の天正19年から大正3年までの300年に及ぶものが45基存在しているとあります。
 
 この多くが古高本家のものであることは間違いありません。
 墓碑の調査によって、前記の疑問点が解明できないか、それが今回の訪問の目的です(写真は同墓地)。

2005_08240031

 予想通り、意外な墓碑銘がいくつか気づけました。

 大津で亡くなって大津で埋葬されたという人物が2人見つかりました。
 大津で何らかの仕事についていたことを想像させて興味深いです。

 詳細は今後の検討によることにしまして、本日はここまで。

| | コメント (0)

2005.08.24

新発見!!「御土居」買収を示す標柱

8/23(火)くもり
 研究対象としている史蹟には、特に用事がなくても<近くを通ると、わざわざ立ち寄ります。

 そんなことしてどうするの。
 そう思われる方、多いと思います。
 
 時々、驚くべき「出会い」があるのです。
 「どうして、今まで気づかなかったのだろう」というようなことが起きるのです。

 同じ場所を何度も訪れること、誰が何といわれようが、それは大事なことなのです。

 本日、またそんな「出会い」がありました。
 
 烏丸通今出川の相国寺付近に用事がありまして、終了後、自転車で寺町通をふらふらしていました。
 ふと、寺町に接する惣構の土塁(御土居)跡を見ようと、本満寺に行きました。

honman1

 ここにはすでに土塁はありませんが、墓地がそこだけ高くなっていてその跡地が明瞭です。
 隣地の白鷹弁財天という祠は、そのなかでもっとも高い場所に鎮座しています(写真。クリックすると拡大します)。
 おそらく4メートル程度の高さはあると思います。
 その白鷹弁財天にお参りに来たのです。

 参拝のあと石の階段を下りました。
 階段の最下段には、高さ60センチメートル程度の石標があります。
 何か文字が刻まれています。
 磨耗して読みにくいです。

 そのため、いままで何度も視界に入っていたのですが、気にもとめませんでした。

 ところが本日、なぜか目にとまったのです。
 文字を読もうとしたのです。

 「従是南六拾七間壹尺五寸」(これより南、67間1尺5寸)、??なんじゃこれ。
 別の面の文字を読んで見ました。

honman2

 「・・・寺買得(ばいとく)地」?・・・・あぁ「本満寺買得地」か。
 
 さらに別の面を読んでみました。
 「従是西拾間壹尺五寸」(これより西、10間1尺5寸)。

 ここまで読んで、あっと驚く。
 
 本満寺は江戸中期、境内の東に接していた惣構の土塁(御土居)を、公儀から買得(購入)しているのです。
 この標柱は、土塁(御土居)購入範囲を示した牓示石(境界石)なのではないか!

 西の長さというのは土塁の幅のことでしょう。
 10間1尺5寸は、18.6メートルにあたり、幅約20メートルの土塁幅とほぼ一致します。

 こんなものが存在し、現在もその地にあるなんて・・・・。
 
 確認しようと思い急いで帰宅。
 そしてさらに息を飲む。
 
 惣構の土塁(御土居)・堀の所有者や、拝借者を克明に記した絵図があります。
 寛政年間作製の「御土居麁(そ)絵図」(京都大学総合博物館蔵)です。

 京都大学の好意で、うちにその写しがあります。

 当該場所には、「享保十八丑年本満寺江買得」とあり、享保18年(1733)に本満寺が購入したことが分かります。
 その横にその規模が書かれてありました。

  「長六十七間一尺五寸」「巾北十間一尺五寸/南十一間二尺」。
 
 まったく一致するではありませんか!!
予想は当たっていたのです。
 「大発見」です。

 僕はいままでこの地で何を見ていたのだろう。
 喜びとともに、うかつさにあきれる。

 この石標のことを近刊の拙著に書き加えたい!
 しかしできない。
 もう刊行直前なのだ。

 今回が初めてではありません。
 すでに別の部分にも、加筆したい新発見がおきています。
 そちらはすでに『花園大学人権教育研究センター報』に発表しましたからいいのですが、今回のは活字に未発表のまま拙著が刊行されるでしょう。

 読者のみなさまへ。
 拙著の当該部分に、本日のブログをプリントアウトして貼っていただけますでしょうか(まだ刊行されていないのに)。

 ともあれ、これだから史蹟見学は止められない。

| | コメント (2)

2005.08.23

拙著、とどめの校正

8/22(月)はれ
 午前中、京都新聞出版センターから電話あり。
 拙著に挿入する図のうち、全域図を1枚、最後の校正をせねばなりませんでした。
 それが上がってきたというご連絡です。

zeniki
 
 午後引取りにいきました(写真。クリックすると拡大します。転載厳禁)。

 預かった段階ではほとんどミスに気づきませんでしたが、帰宅して丁寧に見ると、ありました。
 土塁・堀がずれている部分を発見。
 ご連絡せねば。

 今週中に表紙の案が2種類上がってくるそうです。
 これも確認いたします。

 着々と進んでいます。
 これはもしや、本当に9月中旬に刊行されるかも。

 とても疑いぶかくなりました。

| | コメント (0)

2005.08.22

岡田有希子の誕生日

okada_yukiko2

 本日、8/22は、故・岡田有希子(第26回日本レコード大賞「最優秀新人賞」受賞歌手)の誕生日です。
 存命なら、38歳です。

 亡くなったとき、18歳7ヵ月でした(1986年4月8日他界)。
 誕生を祝い、冥福を祈ります。

 写真は1984年(昭和59)7月25日(水)に撮影したものです。
 
 2枚目のシングルレコード、「リトルプリンセス」のキャンペーンで大阪に来たときのものです。
 16歳11ヵ月です。

 ずっと秘蔵していましたが、今回初公開いたします。
 (※写真をクリックすると、拡大いたします。)

| | コメント (4)

2005.08.21

義経論の第一人者、前川佳代さんの講演を聴く

8/21(日)はれ時々雨

 本日は、「山科本願寺・寺内町の歴史を学ぶ市民講演会」の日でした。

2005_08210001

 講師は、前川佳代さん(京都造形芸術大学非常勤講師)です。
 演題は「源義経の軌跡―山科・京都と周辺地域」(写真。クリックすると拡大します)。
 
 今年の大河ドラマにあわせて、わが「山科本願寺・寺内町を考える市民の会」もブームにあやかろうと思いました。
 山科本願寺・寺内町と義経? といわれるかも知れません。

 しかし本会は単に真宗や寺内町だけを扱うのではなく、山科地域の歴史啓発の役割も担っております。
 そのため、「山科」にかかわれば、むしろ積極的に「時事ネタ」も扱おうと思ったわけです。

 山科にはさまざまな義経伝承地があります。
 それが史実とどのようにからむのか、検討できないか。

 そんな無理な注文を、僕が知己の前川さんにお願いしたのです。

 前川佳代さんは「義経を愛している」ことで有名な研究者です。
 研究者の立場を堅持ながら、愛を込めて義経を語れる、珍しい方です。
 「義経」を題材にした本会講師にもっとも適した方と思いました。

 本日のお話しは、全く期待した通りのものでした。
 実は上記のような注文は結局無茶なことで、最近の義経論を紹介くださるだけでも十分だと思っていました。

 ところが何と山科はいうに及ばず、北区紫竹(しちく)の「牛若丸誕生井」についても、その伝説誕生の興味深い仮説を提示してくださいました。

 思わずうなってしまう。
 「締め」には、ご自身が義経に関心をもたれたきっかけについても語られました。

 非常に熱の入ったよい講演で、終了後はいつも以上に、参加者の質問や発言がありました。
 僕は、ぜひ活字(論文)にしてくださいとお願いをいたしました。

 慰労を兼ねて事務局員で喫茶にお誘いしたのですが、町内の地蔵盆に参加しないといけないので、と大急ぎで去っていかれました。
 残念。

 去り際、後日、紫竹(しちく)で慰労をしてくださいといわれ、笑う。
 どこまでも「義経」だなぁと、また感心した次第です。

| | コメント (0)

2005.08.20

京都・地蔵盆に参加

8/20(土)はれ
 午前中は事務処理。郵便物の発送など行う。
 午後は執筆。少し進みました。

2005_08200003

 夜は地蔵盆に参加。
 たまたま転居した町は、旧知のNさんのご実家のあるところでした。
 
 最近、Nさんから講演のご依頼を頂き、その打ち合わせをメールでしていたおり気づいたものです。
 奇遇にびっくり。

 そこで昨日Nさんから、「町内の地蔵盆に行きませんか」とお誘いをいただいたわけです。
 午後7時30分から開始。

 Nさんに誘われて生ビールをいただく。
 これがわずか200円。

 木屋町三条の僕の「書斎」顔負けです。
 しかも途中から無料になりました。
 驚き。

 恥ずかしながら、京都の地蔵盆に参加するのは初めてです。
 Nさんのご紹介で、いっぺんに地域の方にご挨拶ができました。

 途中からNさんの奥様がお迎えにこられました。
 奥さんとも歓談。
 実は奥さんとの交流の方が長いのです。
 
 Nさんありがとうございました。
 
 地蔵盆は明日も続きます。

| | コメント (2)

2005.08.19

三宅碑の関連史蹟を踏査

8/19(金)はれ
 午後、連載「京都に石碑を建立す」の関連史蹟を歩きました。
 いわば取材「旅行」です。

 まず円山公園へ。

2005_08190002

 芭蕉堂、西行庵、双林寺を参拝しました。

2005_08190018


2005_08190021


 ついで第1号碑の確認。
 このあたりは実に観光客が多い。

 清水寺から円山公園・八坂神社へ行かれるお客さんです。

2005_08190036

 この方たち、第1号碑の文言を読んで、目指す場所を確認していました。 
 (それでも判断に困っておられている方がおられたので、どちらへ行かれるのですか、とうかがいましたら、円山公園はどちらですかと聞かれましたので、目指しておられるところが分かりました。)

 意外でした。
 石の道標はもう役に立っていないと思っていましたので。
 第1号碑はまだ観光客の役にたっていました。

2005_08190069

 つづいて南禅寺金地院へ。
 自転車で移動します。

 ここは亡父三宅安兵衛の墓があります。

2005_08190076

 約5年ぶりの墓参をいたしました。
 受付の方に、4年前の秋に発表した三宅碑論文(『花園史学』22所収)を託し、住職さんへお渡しくださいとお願いしました。
 もっと早くお持ちするはずでしたが、大変遅れてしまいました。
 申し訳ありません。

 最後に南禅寺帰雲院の碑にも立ち寄りまして終了。
 本日も暑い日でした。

| | コメント (0)

2005.08.18

8月18日に思う

8/18(木)はれ
 本日は豊臣秀吉の祥月命日(慶長3=1598)であるとともに、8月18日の政変(文久3=1863)の日でした。
 毎年、この日は、忘れずにおります。

Hideyoshi-tomb

 一日、秀吉の冥福を祈り(喪には服しませんが)、幕末の混乱を思っておりました。
 (写真は東山阿弥陀ヶ峯の埋葬地に建つ秀吉五輪塔、伊東忠太設計、1898年=明治31)
 
 夜はJR東海のKさんにお目にかかり歓談いたしました。
 楽しくございました。ごちそうにもなりました。

| | コメント (0)

2005.08.17

連載4「左々の碑」その3

京都に石碑を建立す 4話「左々の碑」その3

 ながくなっております。申し訳ありません。
 第4話「左々の碑」、その3です。

 関東大震災の2カ月後の11月1日、「日記」にこの碑の記事が出て参ります。

basyodo1980

 「真葛ゲ原の芭蕉菴に岩井藍水氏訪問、道しるべ石碑の事を尋ぬ」

 「真葛ゲ原」(真葛原〈まくずがはら〉)は、現在の円山公園付近の旧称です。
 また芭蕉堂(写真)の岩井藍水を訪問しています。何を尋ねたのでしょう? 分かりません。
 
 次の記事は12月3日です。
 この間に岩井藍水は揮毫をなしたようです。

 「豫に双林寺の奥へ更に建築をすべき指道碑の下書、岩井藍水氏より出来、中村石工、廻す」

とあります。
 「中村石工」は、例の富小路錦小路の中村善一(寿山)のことですね。
 石工に揮毫文を渡したわけです。
 
 これからわずか1ヵ月足らずで碑は完成します。

 「日記」12月24日条を見ますと、この日、完成を記念して、石工中村善一に昼食を振舞っています。
 
 注目すべきことに、この日の記事には、石材の種類についての記載がありました。
 それによれば、本体は根府川石、台石は滋賀県守山市の石でつくったとあります。

 根府川石は、神奈川県小田原市の石として有名です。
 予想外に遠いところから求めたのですね。
 本体と台の石材が異なるというのも、こっています。

 のち山城地方南部(城南)におびただしく建碑されますが、その大半が花崗岩です。
 建碑当初と後半では石材さえ異なることがわかります。

 その3日後、12月27日の夕刻、改めて芭蕉堂の岩井藍水を訪ねます。
 完成のお礼訪問です。
 「道しるべの揮毫御礼として金十円を呈す」とあります。

 いまの金額にして、おおよそ5万円ぐらいでしょう。
 
 第1号碑を揮毫した碓井小三郎にもそれに近い品を贈呈していますので、清治郎は揮毫を依頼するたびに、同程度の金銭を謝礼として贈呈したと思われます。

 碑は約400基あるわけですから、その全てに謝礼を出していたとしたら、この費用だけでも相当な金額に達したと思います。

 周知のように、この事業は、亡父安兵衛が「京都の公利公益に使え」と清治郎に1万円(現在の約5000万円)を託したことに端を発します。

 この謝礼もその1万円から支払われたのでしょうか。

 いえ、僕はそう理解していません。

konoshitakage1

 亡父母の追悼録『木の下蔭』によれば、完成したとき合計2万円を使ったとあります(写真中央)。
 この記事を信用するなら、清治郎も自ら1万円を出資しているのです。

 ところが「日記」には矛盾した記事があるのです。

 のちのことですが、清治郎は、1929年(昭和4年)上半期にこの事業を打ち切ります。
 その理由はよく分かりません。

 しかし同年下半期によそから建碑依頼があったおりの「日記」には、「既に故父上の遺志たる分は上半期にて締切」ったので、「余の私費を以て建立す」ることにした、とあります。

 おそらく同年上半期までに亡父の遺産を使い切り、それが理由で建碑事業を打ち切ったと解釈すべきだと思います。

 それにしても、すでに多額の自費を投入しているはずなのに、この時期になってあえて「余の私費を以て建立す」ると記すのは腑に落ちません。
   
 ここで「謝礼金」を思い出します。

 実は亡父の1万円は、石を加工するという、いわば直接的な費用にのみ使われ、謝礼などの間接的な費用は清治郎が支出した、それがこの1万円だった、このように考えるとこの矛盾が解けると思っています。
(おわり)

| | コメント (0)

2005.08.16

お盆で、墓参しました

8/16(火)はれ
 お盆です。
 午後、大阪府H市にある父方の墓参をいたしました。
 1年ぶりのことです。
 すでに近所の親戚がきれいな花を供えておられました。

 夕方京都へ帰る。
 木屋町三条、瑞泉寺へ。

2005_08160006
 
 こちらには三宅清治郎一族の墓所があります。
 僕に「日記」を託して下さった先代も眠っておられます。

 お参りをしました(写真)。
 
 そのあと近くの「書斎」で執筆に向かう。
 この「書斎」、実に久しぶりです。 
 主任A氏から「お元気でしたか?」といわれる。
 必死で生きておりました。

 約1時間半滞在。
 また喫茶店料金で滞在させていただきました。

 そんなわけで、本日は大文字送り火ですが、拝観しませんでした。

| | コメント (0)

2005.08.15

連載4「左々の碑」その2

京都に石碑を建立す 4話「左々の碑」その2

 「左々の碑」の碑銘は以下の通りです。

1923-1

 (表)高台寺
    きよミづ
    左へ左へ
 (裏)大正十二年冬三宅安兵衛


 所在地は、京都市東山区鷲尾町。
 円山音楽堂の南向かい、芭蕉堂の北向かいです。

 「日記」には、1923年(大正12)7月22日に初めて登場します。
 
 「岩井藍水氏ニ面会し双林寺、東の石碑の文字を依頼す」

 岩井藍水は元京都市立小学校長で、小学生に童話や歴史をおもしろおかしく口演する、「童話口演」の研究者として当時知られた俳人です。

 初めて碓井小三郎以外の揮毫を依頼したことになりますが、いずれにせよ通り一遍な文字ではなく、「名士」への揮毫です。三宅碑の一つの特徴です。

 「双林寺、東の石碑」というのは、第1号碑の東隣に建てる予定の碑、という意味です。

 つぎの記載は9月1日。
 「次で芭蕉堂へ到リ岩井藍水氏面会、石碑の文字揮毫を依嘱す」
 
 今回も揮毫を依頼。
 前回は「考えとく」とでもいわれたのでしょうか。

 ところで興味深いのは、この日の日記の欄外に、
「東京全滅」とあることです。
 
 当日は1923年9月1日。
 関東大震災の日です。
 これを付記しているわけです。
 おそらく後日の加筆と思いますが、この「日記」の特徴として適宜、時事ネタを記載している点があげられます。

 僕は昔習った先生から、日記を書け、そのとき時事ネタを加えよ、時間が経過し、改めて読み直したとき、「歴史」のなかの自分が自覚できる、と教わったことがあります。

 三宅清治郎はどういうつもりでこれを実行していたのでしょう。
 毎日日記を書いている者として、意識の高さに感嘆しております。
(つづく)

| | コメント (0)

2005.08.14

引越しの荷物整理をする

8/14(日)はれ

20050814

 久しぶりの仕事のない日。
 引越しの荷物を整理します。

 とにかく本が多い。
 本だけで100箱ぐらいあります。

 早く書架に戻さないと、仕事になりません。
 疲れます。

| | コメント (0)

2005.08.13

中世都市研究会京都大会準備会に参加

8/13(土)
 中世都市研究会京都大会、最後の準備会に参加する。

 前回は不調により参加できませんでしたので、今回僕の担当の聚楽第巡検コースを提示しました。
 (予定では僕も研究報告をするはずでしたが、種々の事情で報告しないことになりました。)

 夕方から、また「某所」での高校生の講義がありましたので、途中で退席させて頂きました。
 誠に残念。
1920

 今回はM大学のS先生が初参加で、先生と豊臣期の竹のお話しをしたかったので、懇親会から再参加しようと思いました(写真は竹が植えられた京都惣構の土塁、1920年)。
 
 でも「某所」の仕事が終わって駆けつけている途中、参加者Fさんから携帯に電話あり。
 「もう終わりますよ」。
 ええーっ。
 
 でも残念ながらあきらめます。
 当日のご報告が楽しみです。

| | コメント (0)

2005.08.12

日航123便の事故を思う

8/12(金)
 本日も「某所」で高校生に講義。

11-01

 応仁の乱を論ずる(写真は「西陣」碑、三宅碑)。
 よけいなお世話なのに、京都がいかに壊滅したか語る。
 入試には出ない。

 本日、日航123便の事故から20年。
 あの日のこと、覚えています。
 
 稀少の生存者、川上慶子さんが島根県大社町だったことも忘れられない一つです。
 (僕は島根県大田市生まれ)

 多くの小学生が死んだのですね。
 娘のことを思い、断腸の思いです。

| | コメント (0)

2005.08.11

愛知県T市の先生方に京都の歴史地理のご案内をする

8/11(木)はれ
 愛知県T市の小・中学校などの先生方、約10名の京都歴史地理巡検のご案内をする。
zinchi

 昨秋、人文地理学会という学会の大会が佛教大学でありました。
 僕も末席ながらホスト役をさせていただき、最終日の巡検案内もいたしました。

 そのときご参加されたA大学のA先生から特にご指名を頂き、本日の巡検案内を致すことになりました。
 
 朝9時、京阪四条駅改札に集合。
 自己紹介のあと、さっそく開始。
 
 祇園→四条大橋→新京極→寺町→錦市場と歩いて行きます。
 市バスで北野へ移動。
 
 大報恩寺本堂(千本釈迦堂)を参拝。
 同建物は京都の旧市街地において最古です。
 これをご案内せずして、歴史地理巡検にはなりません。

 つづいて上七軒を通って北野天満宮へ。
 もちろん京都惣構=いわゆる御土居をご案内いたします。

 ここだけで終わりません。
 さらに北上し、土塁跡をひたすらご案内します(写真は史蹟指定地にもかかわらず破壊された土塁跡=北区紫野
西土居町)。
nishidoi

 ものすごく暑い。
 参加者の先生方、文句もいわれず付いてこられました。

 お昼になり、ファミリーレストランで昼食。
 1時間、巡検を忘れます。
 ドリンクバーで、ひたすら水分の補給です。
10-4

 午後、タクシーで千本中立売へ移動。
 秀吉の聚楽第跡のご案内。
 堀跡、天守閣跡推定地などをしつこく歩きます。
 また暑くなってきました。

 途中、西陣織の機織の機械の音が聞こえてきます。
 参加の先生、ぜひ見せてもらいたいと、自ら「家内工場」へ「直訴」。

 快く見せてもらえました。
 先生方、満足のご様子でした。
nishizinori

 聚楽第跡は平安宮内裏跡とほぼ一致します。
 聚楽第跡につづいて内裏清涼殿跡へ。

 石碑も何もありません。
 こんな有名な場所に表示がないのか。
 京都は史蹟がありすぎて、金が回らないのでしょう。

 京都を一地方都市扱いにし、その文化財の啓発に特別の資金を割り振らないことが問題なのです。 
 本当に悲しい。

 大極殿跡公園からJR二条駅を向かいます。
 解散まじかです。

 会昌門跡で、出光美術館蔵の「伴大納言絵巻」の「応天門炎上を見る官人」の部分をお見せします。
 高校日本史の副読本に必ず載っている部分です。 

 「ここですよ!この場所は」とご紹介。
 専門でもないのに気合が入ってしまった。

 午後3時すぎ、JR二条駅で散会。
 ありがとうございました。
 わざわざ指名を下さったことに心より感謝申し上げます。 

| | コメント (0)

2005.08.10

受験生に義満の皇位簒奪を話す

8/10(木)
 最近京都市内に転居しました。
 毎日のように夕立があります。
 洗濯を干すものの身になってほしい。
 本当に困る。

P7050055

 「某所」で高校生に講義する。
 室町幕府について述べる(写真は室町殿跡を示す京都市教育会建立碑)。

 専門でも何でもないのに、やけに熱を入れてしまい、予定のところまで進まなかった。
 反省。

 相手は受験生といえども、現在の学問水準はふれずにはいられない。
 もう一昔前のものとはいえ、今谷明さんの『室町の王権』(中公新書)の成果は紹介したくなります。

 足利義満は皇位簒奪(さんだつ)をねらっていた話しです。
 高校生も(入試に出ないのに)まじめにきいて下さったようで、話しがいがありました。

| | コメント (2)

2005.08.09

感謝!真夏に80名も参加者がありました

8/9(火)はれ
 午前、駅売店で『京都新聞』朝刊を購入。
 昨日の記事が載っているか確認します。
 おぉ、小さいけれど載っていました(写真)。
news

 つづいて佛教大学四条センターへ。
 講座「御土居堀ものがたり」第5回です。

 夏は暑いので、お客さんが減るのが通例と聞いています。
 そのつもりでした。
 ところが、何と80人もご参加です!
 ありがとうございます。

 昨夕、JR東海のイベントでのお客さん、東京都T区のTさんから暑中お見舞いのお葉書を頂きました。
 内容を拝見してびっくり。
 上記講座を毎月欠かさず参加しているというお話です。

 知らなかった・・・。
 東京からの参加者があったなんて。
 
 みなさんに支えられて生かされております。
 本当にありがとうございます。

 タイトルは「有事の都市防衛と近代の変容」でしたが、タイムオーバーで「近代の変容」ができませんでした。
 次回は最終回ですが、そちらへまわします。
keizi1

 今度は無駄話をしている場合ではありませんね。

| | コメント (0)

2005.08.08

忘れがたい2005年8月8日

8/8(月)
 午前中、京都新聞出版センターへ。
 拙著『御土居堀ものがたり』の最終ゲラを担当者にお返しする。
 地図1枚だけ、もう一度ゲラ確認をしますが、原則もうお任せです。

 9月中旬刊行の見込みです。
 定価1500円前後のようです。
 これは安価でしょう。

 僕の初の単著であるだけでなく、「御土居」をテーマにした初の書物です。
 どうかご期待ください。

 午後から京都市役所へ。

 山科本願寺・寺内町を考える市民の会の代表の1人として、「再び、山科本願寺・寺内町遺跡の保存と活用を求める要望書」(写真)を、京都市長および京都文化市民局長へ提出するためです。
yobo

 山科本願寺・寺内町(京都市山科区西野など)は、戦国時代屈指の寺院、都市、城郭です。

 遺跡破壊があいつぐなか、2002年12月、ようやく国の史蹟に指定されました。

 もうすぐ3年になります。
 それなのに、現地には国史蹟に指定されたことを示すものは一切掲示されず、30年も前に建てられた説明版が、文字が読めなくなったまま放置されています(写真は指定された土塁)。

siteichi

 それゆえ
 ①案内板を建て替えるなど、今後の啓発活動の計画はどんなものですか。

 ②史蹟指定後にも考古学の発掘調査が進められています。
   それによりどんなことが分かりましたか。
   またそれらの遺跡の保存のための努力は、どの程度なさっておられますか。

 ③史蹟指定範囲は、遺跡全体のわずか数パーセントです。
   指定地拡大のための具体的な取り組みはどんなことをされていますか。
   また今後どう予定されていますか。

以上3点を教えてください。
という要望をいたしました。

 会長Y先生と、事務局長M先生と3人で文化財保護課へうかがいました。
 残念ながら課長さんや担当の方がおられず、お話しをうかがうことはできませんでした。
 要望書をお渡しして辞去しました。

 つづいて京都府庁へ。
 同じ要望書を、府知事と府教育長宛につくっていますので、お渡しするためです。
 府知事に会えるわけもないので、秘書室に託しました。

 まだ終わりません。
 
 この要望書を府庁の記者室に持参します。
 「投げ込み」というのですが、新聞社・テレビなどに知ってもらうためです。
 関心のあるところから連絡があったり、記事にしてくれたりするはずです。

 これで終わり。
 辞去しようとすると、外は大雨。
 にわか雨だと思っていたら、どんどんひどくなる(写真は雨の中の京都府庁)。
fucho

 結局1時間も雨宿り。
 雨宿り中、参議院で郵政民営化法案が否決され、衆議院解散を知りました。
 
 両先生とお別れし、今度は私的な用事に従事。
 そのとき京都新聞社から電話がありました。

 文化財担当の記者さんからです。
 要望書の件です。
 ご質問に応じます。
 明日の朝刊に載るかも知れません。
 
 いや無理かも知れない。
 明日の新聞は「郵政民営化法案否決」「衆議院解散」で埋め尽くされるでしょう。
 われわれの活動なんて無視されるかもしれない。 

 こういうとき文化活動は非力です。
 が、京都新聞の良識に期待しましょう。

 スペースシャトルの着陸は悪天候のため、明日に延期と知る。

 2005年8月8日(月)は、忘れられない日になりました。

| | コメント (2)

2005.08.07

連載4「左々の碑」

京都に石碑を建立す 4話「左々の碑」

 三宅碑建立の事情を、まとまった形で伝える唯一の文献は、三宅清治郎が、亡父母の13回忌に刊行した追悼録『木の下蔭(このしたかげ)』(1932年6月刊行、私家版)です。
 
 そのなかに掲載された「建碑個所」一覧(343基)により、その建碑地がおおよそ推定できるのですが、なかには推定困難な碑があります。

 それが7番目に記載された「左々の碑」です。
 「左々の碑」って・・・・(苦笑)。
 この名称だけではどこに建っているか、まったく想像できませんよね。

 京都に詳しい友人たちに賞金をかけたことがあります。
 それほど発見は困難と思われたからです。

 しかし仕事のため京都市内をバイクで走り回っておられた友人K氏(女性)によって、この碑はあっさり発見されました。
 第1号碑のすぐそばだったのです。
hidari
(つづく)

| | コメント (3)

2005.08.06

北野天満宮で拙著の再調査

8月6日(土)
 広島原爆投下から60年目の日。
 いろいろ思う。

 午前中、京都市上京区の某寺に参拝。
 冥福を祈り、感謝をささげる。
cid_a0001
 午後から昨日のつづき。
 拙著『御土居堀ものがたり』の第2部の再調査で北野天満宮へ。

 「第2部」というのは全くの書き下ろしで、御土居堀跡23キロメートルを紙上で巡検するという内容です。
 地形図と写真がたくさん入っています。
 その地形図上に示したものに誤りがあってはいけませんので、改めて確認をしているわけです。

 北野天満宮の土塁をメジャーで測量していると雷鳴が轟く。
 天神が怒っているようだ。
cid_a0002
 まもなく雨が降ってくる。
 本殿横の回廊で雨宿り。

 20分ほどすると止む。
 北野社を辞去し、北区紫野西土居町へ。
 
 ここは1964年にA建設によって史蹟指定地の大半の土塁が壊された場所です。
 その場所も本日再点検。
 少し地元の人に尋ねたいことがありましたので訪問しましたが、めぼしいところはすべて留守。
 後日に改めます。

 それから佛教大学へ戻り、講師室で前期試験の採点をする。
 意欲的な答案と、そうでないものの差が顕著です。
 自分自身を振り返ると偉そうなことはいえませんが。
 採点終了。
 教務課にお渡しして下校。

 本日も暑い暑い日でした。
 

| | コメント (0)

2005.08.05

史蹟は同じ場所を何度歩いても新たな発見がある

 8月4日(金)はれ
hi1
 拙著『御土居堀ものがたり』最終ゲラの校正を行う。
 あわせて、内容の確認のため、遺跡地各所を自転車で回る。
 
 御土居堀跡は場所によって、おそらく何十回と立った地があるはずです。
 それにもかかわらず、本日また新たな発見がありました。
 できれば加筆したい。
 写真も1枚増やしたい。
 
 いえいえ、そんなことをしたらまた刊行が遅れます。
 誠に残念ですが、今回は原則として校正ミスの修正にとどめます。

 御土居堀跡近く、「西院」交差点付近のマクドナルドで校正を終え、さあ帰ろうと思うと、突然の雨。
 帰るに帰れなくなりました。
 
 1時間ほど雨宿りをしながら、大好きな森浩一さん(考古学)のエッセーを読んでいました。
 有意義な一日でした。

| | コメント (0)

2005.08.04

連載3「南禅寺金地院、東照宮」

京都に石碑を建立す 第3話「南禅寺金地院、東照宮」

konchiin1
 南禅寺金地院は、徳川家康の側近で黒衣の宰相といわれた崇伝ゆかりの寺です。
 ここには「東照宮」もあり、徳川家との縁の深さが知れます。

 この東照宮の前に三宅碑は建てられました(1922年9月29日竣工)。
 これが第2号碑です。

 前回紹介しました広隆寺桂宮院の碑は、銘によると1922年(大正11)12月の建立になっています。
 しかし「日記」によれば、翌1923年1月の建立でした。
 1922年の建立ではなかったのです。

 つまり金地院東照宮碑が、唯一の1922年碑なのです。
 どうして第2号碑が金地院に建ったのでしょう?

 実は同院は、三宅清治郎の亡父安兵衛の墓所なのです。
 亡父ゆかりの地に建てたわけです。
 
 碑銘は、
 (表)東照宮 金地院
      けあげ大津行電車近道
 (裏)大正壬戌仲秋日 三宅安兵衛建之
 (左)建設施主 吉田嘉一
              喜久子

 銘にある電車とは、三条通を走る京阪電車京津線のことですね。
 「けあげ」は「蹴上」で、最寄の駅名です。 
 金地院の前の道を通れば、南禅寺参道へ戻らなくとも駅に行けますよ、という意味です。
 
 ところで左側面にある建設施主の「吉田嘉一・喜久子」とは何でしょう。
 清治郎が建てたはずなのに、別に建設者があったということでしょうか。

 実は吉田喜久子は旧姓三宅で、安兵衛の次男安次郎の娘です。
 清治郎の姪にあたります。
 嘉一はその夫です。

 清治郎の建立事業に姪夫婦が手助けをしたということでしょうか。
 いえ、喜久子は、1922年当時まだ幼児でした。
 もちろん嘉一と結婚もしていません。

 そうすると現存碑は、清治郎の建てた碑が何らかの事情で失われ、のちに吉田夫妻が再建したものである可能
性が出て参ります。

 先年、ちょっとした機縁で、高齢の吉田喜久子さんにお目にかかる機会がありました。

 『京都新聞』で僕の三宅碑研究を知られた女性から連絡がありました。
 その方は僕が非常勤講師をつとめる花園大学の卒業生で、なんと吉田喜久子さんのお孫さんだったのです。

 京都市上京区の病院に入院中のところをお訪ねし、お嫁さんの介助でお話しをうかがいました。
 残念なことにすでにご記憶ではなく、答えはわかりませんでした。

 しかし三宅家ゆかりの建物の古写真などをご覧に入れると、明快に、三宅邸だとか、馬代町(の別荘)だなどと
語られました。
 目の前におられる方が安兵衛や清治郎と生きてこられたのだなぁと感慨深く思い、1時間ほどで辞去しました。
 
 他界されたのはそれからまもなくのことでした。

 忘れられない思い出になりました。

| | コメント (2)

2005.08.03

拙著、ついに出るか!?

story1
 8/2(火)、京都新聞出版センターから電話あり。
 刊行予定の拙著の残り半分の最終ゲラが届いた由。
 さっそく取りに行く。
 
 ほぼ300頁です。
 京都新聞連載のものに多く加筆しましたので、2倍の量になりました。
 値段はおそらく2千円前後と思います。
 手前のことで恐縮ですが、なかなかお買い得だと思います。
 
 9月上旬刊行予定です。
 もうこれ以上遅れることはない。
 そう思いたい。

 本日は母の誕生日なので、夜訪ねていきました。
 ささやかながら楽しい誕生会になりました。

| | コメント (0)

2005.08.02

京都に石碑を建立す 第2話

京都に石碑を建立す 第2話「広隆寺桂宮院」

keiku3
 三宅碑の連載にタイトルをつけました。
 いつまで続くか分かりませんが、どうぞよろしくお願いします。

 第1号の三宅碑が1921年(大正10)年末に建てられましたので、第2号は翌1922年に建てられることとなります。
 この年には、2か寺に、計3基建てられます。
 広隆寺桂宮院と、南禅寺金地院です。

 まずは広隆寺桂宮院をご紹介しましょう。
 広隆寺は、飛鳥時代の弥勒菩薩像が残されていることで知られる寺院です。
 創建者が聖徳太子の側近、秦河勝とされますので、同寺は聖徳太子ゆかりの地としてながく信仰されてきました。
 
 たまたま1922年は聖徳太子没後1200年にあたります(622年死去)。

 清治郎の友人に平井仁兵衛という人物がいます。
 この人はなかなか文化財保護に熱心で、のちに清治郎といっしょに国から文化財保護に尽力したとして表彰されます。
 その平井が、聖徳太子没後1200年にあたり、広隆寺の「法要執行並に殿堂、宝物館、其他建設及び修復に付き寄附」を求めるのです。
 同年2月8日のことです。

 清治郎は平井の申し出に快く応じ、即座に当時のお金で200円寄附しました。
 現在のおおよそ100万円です(すごい)。
 
 その際、清治郎は、同時に広隆寺へ「道標の建設をも申込」みます。
 理由は、「同寺境内桂宮院は、京都第一の古建築物」のためです。

 ただ残念ながらこれは事実に反します。
 むしろ同寺の「講堂」の方が古い建造物です(平安後期)。
 広隆寺講堂は京都市内最古の建物、平安時代の建物たった二つのうちの一つなのです。

(弥勒菩薩像だけおまいする方が多くて残念です。
 ぜひ講堂を見学してください。
 なおもう一つの京都市内の平安時代の建物とは、醍醐寺五重塔です。)

 それはさておき、 
 この碑の建立過程は、第1号とは異なり、「日記」にさほど詳しく記載されません。
 それでも、今度も碓井小三郎に揮毫を求めたこと(12月)、翌1923年の2月に2基建立されたことなどが分かっています。

 しかし現在までに1基しか確認できていません。
 それは広隆寺境内の桂宮院への参道入り口にあります(写真)。
 碑銘は以下です。

 (表)左桂宮院
 (裏)大正十一年十二月三宅安兵衛建之

 気づかれることを指摘しておきますと、
 第1号碑と同じで、まだ「遺志」という文言はありません。
 父安兵衛は生きているかのように扱われています。

 また「大正十一年十二月」は建立年月と思っていましたが、「日記」のおかげで、これは碓井が揮毫した年月ということが分かります。

 さて残り1基はどこへ行ったのでしようか。
 
 現在桂宮院は、期間限定公開です(4、5、10、11月の日・祝日のみ)。
 恥ずかしながら僕は参拝したことがありません。 
 ですから桂宮院に近づいたことがないのです。
 
 しかし古写真などで桂宮院入り口を見ると、「桂宮院」と刻まれた石碑が建てられているのが分かります。
 これがもう一基の三宅碑ではないか、と想像しています。
 
 次の公開日には必ず参拝し、確認してみたいと思います。
(第2話おわり)
 

| | コメント (0)

2005.08.01

龍馬を観覧し、東山の史蹟を歩く

ryoma1
7/31(日)
 名古屋の栄中日文化センターのお客さんと京都国立博物館へ行く。
 目的は現在開催中の坂本龍馬展の観覧です。
 
 僕は10月から同センターで坂本龍馬講座を担当しますので、いわばその準備学習会という感じです。
 みなさん熱心で、知らぬ間に3時間も観覧してしまいました。

 昼食のあとは、近辺の史蹟巡検。
 
 耳塚→豊国神社→方広寺→大仏殿公園→妙法院→今熊野神社→御陵衛士墓所、というコースでした。
 この地区は、後白河法皇、豊臣政権、幕末史の三時代の史蹟が交じりあっていて、実に充実したポイントです。
 
 大変楽しかったです。

 

| | コメント (2)

« 2005年7月 | トップページ | 2005年9月 »