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2005.08.25

古高俊太郎の先祖墓地を訪問す

8/24(水)はれ
 午後、庶務で滋賀県近江八幡市へ行く。

 帰途、守山市へ立ち寄る。
 守山市古高町の古高俊太郎(ふるたか・しゅんたろう)先祖の墓調査のためです(写真は誕生地〈顕彰碑建立地〉への道標。写真は全てクリックすると拡大します)。

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 古高俊太郎は幕末の志士です。
 滋賀県守山市古高町が「本籍」地です(写真は同町に建つ顕彰碑)。

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 長州毛利家のエージェントとして、8・18政変のあと宮・堂上に出入りして毛利家の政治活動を助けました。
 しかし新選組に捕らえられ、それが原因で池田屋事件が起きます。

 僕の大学卒論のテーマが古高俊太郎でしたので、ずっとこだわっておりました。
 ようやく昨年末「古高俊太郎考」(『明治維新史研究』創刊号、明治維新史学会)という小文を発表できまして、それはそれでほっとしているのですが、まだ完成ではありません。

 ひとつには古高俊太郎の特異な活動、すなわち宮・堂上に信用があったという点の具体的解明です。
 
 古高は、元山科毘沙門堂門跡(慈性法親王、有栖川宮家出身)の家来でした。
 その経験・人脈がその活動を支えたわけですが、「山科毘沙門堂門跡家来」という職は、古高が初代ではありません。

 現在知られるところでは、父周蔵以来のものです。
 その周蔵はというと、決して若い時からこの職にあったわけではなく、元は大津代官所の手代だったのです。

 大津代官所手代から山科毘沙門堂門跡家来に転進したという、けっこうこれも特異な職歴で、もし父が転職していなければ「志士古高俊太郎」は生まれなかったでしょう。

 ではなぜ周蔵はそんな珍しい職歴をもちえたかというと、厳密には分かりません。
 しかし唯一推定できる情報があります。

 それは妻(俊太郎の母)の実家の職業です。
 妻すみは松本多門という人物の娘ですが、これは公家広橋家の家来なのです。
 
 妻すみの実家の縁が、周蔵の転職を実現させた、と考えられるのです。

 しかし情報があまりに少なすぎます。
 こんな推定でいいのか、という自らの不満を解消すべく、違う角度からの情報収集を心がけています。

 そのひとつが、古高の先祖墓地調査です。

 古高周蔵の墓は、京都市上京区の福勝寺にあります。
 この寺は関白九条家の菩提寺なのですが、娘智恵(俊太郎の妹)の婚家が九条家と縁があったため、智恵によって営まれたものです。

 つまり古高周蔵以後の墓所は京都にあり、故郷古高町にはありません。
 ここから、周蔵は古高本家の家督相続者でなかったと推定されます。

 大津代官所手代という職は、古高本家の世襲ではないのかも知れません。
 では本家は何をしていた家なのか。
 古高俊太郎の政治活動を支えた環境は、純粋に父母が構築したものといってよいのか、本家は関係ないといってよいのか。

 どうしてそこまで疑うのか、と思われると思います。
 
 実は古高家は出身地の地名と同一であることからお分かりのように、地元の名家なのです。
 
 古高俊太郎伝の名著のひとつ、高田文太郎氏『古高俊太郎』(執筆寺井秀七郎氏、古高俊太郎先生遺徳顕彰会、1964年、3~4ページ)によれば、地元古高町の墓地には、戦国期の「古高大和守」に始まる由緒を記した墓碑など、豊臣期の天正19年から大正3年までの300年に及ぶものが45基存在しているとあります。
 
 この多くが古高本家のものであることは間違いありません。
 墓碑の調査によって、前記の疑問点が解明できないか、それが今回の訪問の目的です(写真は同墓地)。

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 予想通り、意外な墓碑銘がいくつか気づけました。

 大津で亡くなって大津で埋葬されたという人物が2人見つかりました。
 大津で何らかの仕事についていたことを想像させて興味深いです。

 詳細は今後の検討によることにしまして、本日はここまで。

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