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2005.08.17

連載4「左々の碑」その3

京都に石碑を建立す 4話「左々の碑」その3

 ながくなっております。申し訳ありません。
 第4話「左々の碑」、その3です。

 関東大震災の2カ月後の11月1日、「日記」にこの碑の記事が出て参ります。

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 「真葛ゲ原の芭蕉菴に岩井藍水氏訪問、道しるべ石碑の事を尋ぬ」

 「真葛ゲ原」(真葛原〈まくずがはら〉)は、現在の円山公園付近の旧称です。
 また芭蕉堂(写真)の岩井藍水を訪問しています。何を尋ねたのでしょう? 分かりません。
 
 次の記事は12月3日です。
 この間に岩井藍水は揮毫をなしたようです。

 「豫に双林寺の奥へ更に建築をすべき指道碑の下書、岩井藍水氏より出来、中村石工、廻す」

とあります。
 「中村石工」は、例の富小路錦小路の中村善一(寿山)のことですね。
 石工に揮毫文を渡したわけです。
 
 これからわずか1ヵ月足らずで碑は完成します。

 「日記」12月24日条を見ますと、この日、完成を記念して、石工中村善一に昼食を振舞っています。
 
 注目すべきことに、この日の記事には、石材の種類についての記載がありました。
 それによれば、本体は根府川石、台石は滋賀県守山市の石でつくったとあります。

 根府川石は、神奈川県小田原市の石として有名です。
 予想外に遠いところから求めたのですね。
 本体と台の石材が異なるというのも、こっています。

 のち山城地方南部(城南)におびただしく建碑されますが、その大半が花崗岩です。
 建碑当初と後半では石材さえ異なることがわかります。

 その3日後、12月27日の夕刻、改めて芭蕉堂の岩井藍水を訪ねます。
 完成のお礼訪問です。
 「道しるべの揮毫御礼として金十円を呈す」とあります。

 いまの金額にして、おおよそ5万円ぐらいでしょう。
 
 第1号碑を揮毫した碓井小三郎にもそれに近い品を贈呈していますので、清治郎は揮毫を依頼するたびに、同程度の金銭を謝礼として贈呈したと思われます。

 碑は約400基あるわけですから、その全てに謝礼を出していたとしたら、この費用だけでも相当な金額に達したと思います。

 周知のように、この事業は、亡父安兵衛が「京都の公利公益に使え」と清治郎に1万円(現在の約5000万円)を託したことに端を発します。

 この謝礼もその1万円から支払われたのでしょうか。

 いえ、僕はそう理解していません。

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 亡父母の追悼録『木の下蔭』によれば、完成したとき合計2万円を使ったとあります(写真中央)。
 この記事を信用するなら、清治郎も自ら1万円を出資しているのです。

 ところが「日記」には矛盾した記事があるのです。

 のちのことですが、清治郎は、1929年(昭和4年)上半期にこの事業を打ち切ります。
 その理由はよく分かりません。

 しかし同年下半期によそから建碑依頼があったおりの「日記」には、「既に故父上の遺志たる分は上半期にて締切」ったので、「余の私費を以て建立す」ることにした、とあります。

 おそらく同年上半期までに亡父の遺産を使い切り、それが理由で建碑事業を打ち切ったと解釈すべきだと思います。

 それにしても、すでに多額の自費を投入しているはずなのに、この時期になってあえて「余の私費を以て建立す」ると記すのは腑に落ちません。
   
 ここで「謝礼金」を思い出します。

 実は亡父の1万円は、石を加工するという、いわば直接的な費用にのみ使われ、謝礼などの間接的な費用は清治郎が支出した、それがこの1万円だった、このように考えるとこの矛盾が解けると思っています。
(おわり)

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