2005.07.30
2005.07.29
三宅碑第1号、完成す
石匠中村方に立ち寄った翌日、すなわち10月26日、再び碓井小三郎方へ赴いています。
もちろん「道碑の事相談」するためです。
11月2日、3たび地理係へ行きます。このときは石匠中村も同道します。
その結果、ようやく2ヵ所の「双林寺畔道しるべ碑」の建設地が決定しました。
しかしまだ手続きは残っています。
2日後の11月4日、また地理係へ出向きます。
地所が決定したことを受けて、改めて建設願書を提出するためです。
その帰途、碓井宅を訪ね、碑の文字の揮毫(きごう)を依頼します。
具体的になってきましたね。
碓井はすぐにこれに応じ、10日後の11月13日、揮毫文の下書きを清治郎に手渡しました。
翌日、清治郎は石匠中村宅へ行きます。
おそらく下書きを見せたのだと思います。
それから1ヵ月、「日記」に碑に関する記載は見当たりません。
しかしこの間に碑の製作・建設作業が進められたようです。
12月24日午後、清治郎は「双林寺及び高台寺北門北入ル所の二ヶ所に」建設された碑を検分します。
こうして碑は完成しました。
翌日、清治郎は碓井宅を訪問します。
そして世話になった礼を述べ、品物を贈呈するのですが、ここで世話になった内容についてふれています。
碑銘の揮毫のほか、もう1つ、これまで触れていなかったことを記していました。
それは「市役所紹介」です。
市役所地理係との交渉は、碓井の仲介があってのことだったわけです。
なるほど、たしかに市役所地理係の初訪問は、碓井宅訪問の翌日でした。
市議や府議を経験した碓井の紹介があれば、進めやすかったのでしょう。
明けて1922年(大正11)正月2日、清治郎は「三宅清治郎商店」の店員全員とともに碑を訪ね、その前(東側の碑)で記念写真を撮りました。
第1号碑の完成はよほどうれしかったのですね。
写真は、碑の建立地と、それが示す場所との関係を示したものです(写真をクリックすると拡大します)。
円山公園へお越しの節はぜひ一度お立ち寄りください。
(第1話おわり)
2005.07.28
三宅碑第1号を石匠に依頼す
碓井を訪ねた翌日、すなわち1921年(大正10)9月20日、清治郎は京都市役所の地理係を訪ねます。
目的は「道標建設の届を」提出するためです。
清治郎があのおびただしい石碑を無断で建てていたのではないことが分かります。
ちゃんと行政の許可を得ているのです。
なおここでも清治郎は本碑を「道標」と記しています。
それからまた約1ヵ月、間があきます。
10月25日、再び市役所地理係を訪ねます。
この日は続きがあります。
その足で「石匠中村方に立寄」ります。
「石匠中村」は、京都市中京区富小路錦小路上ル東側にあった石材店です。
当時知られた石匠だったようで、京都市内の多数の寺社の石碑にその名を確認することができます。
清治郎は自宅の外壁建設など、以前からこの石材店を利用しているようです。
実はこの「中村」こそ、三宅碑を多数刻むことになる石匠なのです。
またお時間がまいりました。
どうぞ次回をお楽しみに。
2005.07.27
三宅碑第1号、名士に相談する
建立者三宅清治郎の日記(以下「日記」と略します)に建碑の記事が最初に現れるのは、1921年(大正10)8月21日条です。
父安兵衛(写真)の他界は前年12月ですので、8ヶ月のちのことになります。
(建碑は亡父の遺産によってなされますので、少し気にしてみました)
「双林寺畔(そうりんじ・ほとり)、西行庵(さいぎょうあん)に赴き、道しるべ建石の事を相談」した、とあります。
(ふりがなや句読点は記主中村が振りました。助詞のカタナカはひらがなに改めた部分があります。以下同じ)
双林寺や西行庵は円山公園に南接した寺院です。
西行庵の庵主は宮田小文といい、当時同庵を復興した人物として知られた人でした。
この人に相談したわけですね。
清治郎とは知己だったようです。
注目しておきたいのは、わたしたちは三宅碑を「史蹟碑」と認識することが多いですが、当人は「道しるべ」と記していることです。
この連載のかなりあとでふれる予定ですが、三宅碑には「史蹟碑」と「道しるべ」の両方の顔があることが分かってきます。
本人の意思とは別に「史蹟碑」の顔をもちだすのはなぜか。
これがこの碑の「探索」のおもしろいところです(私個人の視点ですが)。
さて次の日記の記事は約1ヵ月後の9月19日です。
この日、さらに碓井小三郎(うすい・こさぶろう)の意見を聞くため同氏宅を訪問しています。
碓井は当時の京都の名士の一人です。
京都市会議員や府会議員を経験した政治家ですが、それよりも京都の歴史を学ぶものにとって忘れがたい大事な「顔」があります。
それは近代京都の地誌の金字塔といってよい『京都坊目誌』の編者である点です。
清治郎自身が日記にはっきりと、
「京都市の地理、歴史に詳かなる同氏の意見を聴かんとてなり」
と碓井に相談した理由を記していました。
お時間がまいりました。
つづきはまた次回。
三宅碑の概要は以下をご覧ください。
http://homepage2.nifty.com/NakamuraTakeo-HP/yasu/index.html
2005.07.26
2005.07.25
2005.07.24
2005.07.23
2005.07.22
2005.07.21
2005.07.20
古高俊太郎らの祥月法要に参加
昨日は京都市上京区の竹林寺の幕末の志士の祥月法要に参列いたしました(写真は同寺の山門)。
以前にも書きましたが、竹林寺は古高俊太郎の菩提寺のひとつ(埋葬地?)です。
古高や平野国臣(但馬生野の乱)、水郡善之祐(天誅組の乱)らが六角獄で殺されたのは7月20日ですが、本年は前日におこなわれました。
御住職と奥様をのぞけば、僕だけの参加でした。
本堂での約1時間の読経のあと、墓碑の前で再び読経。
当法要のことは以前より知っていましたが、今回が初参加です。
感無量です。
2005.07.15
祇園祭宵山の前日でした
バスでの帰り、やけに人が多いなぁ、なんでゆかたの人ばかりなのだ、と思った瞬間、あぁ今日は祇園祭宵山の前日なのだ、と気づきました(宵々山とはいわない)。
最近あまりに忙しく、「7月15日」であることを忘れていました。
ああいかん。
いまの私にとって、もっとも大事な研究対象の1つが池田屋事件です。
これは元治元年(1864)の祇園祭宵山の前日(6月5日)におきた事件でした。
幕末の祇園祭は6月7日なのです。
ただし旧暦の6月5日が現在の暦の7月15日にあたるわけではありません。
現在の暦では、旧暦の6月5日は7月8日にあたるはずです。
とはいっても「祇園祭宵山の前日」というのは、僕の心を刺激せずにはいられない響きがあります。
本日の「庶務」が、「この日」にあたった偶然を心より喜びます。
2005.07.13
三宅碑建立の意味を「八幡の郷土史家」で解く
昨7月12日(火)、ようやくパソコンが修理から帰ってまいりました。
ご心配をおかけしました。
さっそく本日の佛教大学の講義で使用できました。
ついに前期最終回です。
今回は石碑(石標)が建立されたことによって生まれる、「地域の歴史像」についてお話しました。
例えば京都府八幡市には三宅碑が約140本も建立されていますが、それはどういう意図でなされ、その結果八幡地域の人々の歴史認識にどのような影響を与えたか、を問題にしました。
それは西村芳次郎(閑夢)という八幡の郷土史家の、実に個性豊かな行動を「発見」することにより解明が可能になったという落ちです(写真は西村が揮毫した三宅碑)。
少しマニアすぎたかも知れません。
なおこれについては、
■拙稿「鳥羽・伏見の戦い―史蹟を読み解く視点」(『別冊歴史読本 新選組を歩く』新人物往来社 2003年10月)
■拙稿「『三宅安兵衛遺志』碑と西村芳次郎」(『京都民報』2129号所収、2004年4月11日)
に概略を記しました。ご参照ください。
また秋にはJR東海のイベント「石碑のまち 八幡」で、現地でさらに詳しいお話しをさせていただく予定です。
どうぞご参加ください。
2005.07.12
御土居堀ものがたり第4回目を行う
本日は佛教大学四条センターで講演の日です。
講座「御土居堀ものがたり」も今回が4回目、折り返し地点です。
今回は「江戸時代の管理と活用」というタイトルです。
京都の惣構(そうがまえ)、いわゆる御土居が、豊臣期のあと江戸時代にどのように「生きた」かについて、論じました。
個別テーマは、河原町通沿いの土塁が寛文以後開発される話、角倉(すみのくら)家が支配を任されながら最後は解任される話、「藪」としての意義、本当に洛中洛外の「境界」と認めてよいのか、などについてお話しました。
暑い中なのに、お客さん約75人も来て下さいました。
多いです。
関係者にうかがいますと、暑いとき、寒いときはお客さんが激減するそうです。
ありがたや、ありがたや。
いつも話題になることは、拙著『御土居堀ものがたり』はいつ出るのか、です。
昨日版元に尋ねましたところ、今月末は困難だそうです。
8月上旬ではないでしょうか。
さらに遅れるようでしたら、それはただごとではありません。
終了後、四条烏丸で祇園祭の山鉾の組み立てを見る(写真)。
京都惣構の構築により、天正19年(1591)から慶長6年(1601)まで、祇園祭の神幸祭は邪魔されました。
今年もあと5日で神幸祭です。
2005.07.10
古高俊太郎論文を菩提寺に納める
先日、京都市下立売紙屋川東入る、竹林寺へまいりました。
場所はJR山陰線円町駅の東北で、徒歩約10分のところです。
目的は、昨年末に活字化した「古高俊太郎考」(『明治維新史研究』創刊号)をお寺に届けるためです。
こちらは元治元年(1864)7月、禁門の変のさなか六角獄舎で惨殺された幕末の志士30余名の菩提寺として知られます(写真は墓碑)。
実は殺された志士の中に古高俊太郎が含まれているのです。
僕は研究成果をあげれば、それが故人の供養になると思っているところがあります。
それゆえ人物研究のおりは、必ず菩提寺や出身地の文化財係や自治体史編さん所などに抜き刷りを届けるよう心がけております。
今回も早々に郵送すればよかったのですが、竹林寺には少々思い入れがありました。
そんなたいそうなことではないのですが、住職さんと知り合いなのです
以前別の仕事でご一緒したことがあり、それ以来おりをみて、墓参の際は必ずご挨拶をしてかえります。
つまり郵送はみずくさいな、と思ったのです。
しかしずるずる参拝が遅れ、持参が刊行より半年もすぎてしまいました。反省。
突然の参拝でしたが、住職さんはおられました。よかった。
軽く立ち話しをしましたところ、今月19日の午後1時から毎年恒例の法要があることを教えて頂きました。
僕は左京区岩倉の三縁寺の法要には毎年ほぼ必ず参列しているのですが、竹林寺の法要にはうかがったことがありません。
それゆえ今年はやっと古高論文をかけたことですし、初めて参列しようと思いました。
その旨、住職さんに伝えました。
帰る際、わずかばかりの供養料をおさめて辞去。
この日も暑い日でした。
2005.07.09
2005.07.08
鷹峯小学校、続報
本日も鷹峯小学校へまいりました。
まずは校長室へいき、ついで教室へ。
昨日のささやかな僕の発言が、けっこう子たちにうけたことを知りました。
彼・彼女たちの感想文に、「先日遠足で行った奈良の大仏や大阪の古墳にも感動したが、昨日の授業で本阿弥光悦や御土居を知り、その史蹟を身近にもっている自分たちの地域を誇りに思う」というようなものが多くあったからです。
胸にくるものがありました。
さて本日は昨日の基礎学習をもとに校外へ出ます。
江戸前期につくられた「光悦町古図」というものがあります。
これには光悦町の住人の宅地割が描かれ、たとえば「間口五間」というふうに、具体的な規模の記載があります。
これを小学生が6つの班に分かれ、それぞれメジャーをもって測ってゆくのです。
僕の担当班は第6班で、町の最南端です。
古図には「土手」とある部分です。
そう、いわゆる御土居が含まれる場所です。
この場所の土塁と堀は運よく残されています(国史蹟指定地)。
それゆえ測量をする場合の基準になります。
わが班はもっとも好環境だったわけです。
そのためさっそく測量をせず、まず御土居堀の見学をしました。
この場所の土塁と堀を所有しておられる森田さんとは親しい関係です。
また同小学校OBですので、急なことでしたが見学のお願いをしました。快諾でした。
お水までサービスしていただきました。
暑いなかでしたので、それはみな大喜び。
子のなかには土塁の土をほんの一握り削り持ち帰り、「戦国時代の城壁やで!」と会う大人・友達すべてに見せびらかしている子がありました(写真)。
実物の迫力だなぁと思ったしだいです。
主題である測量は、わずか5軒分しかできませんでしたが、子たちの楽しいそうな動きをまのあたりにしまして、幸せな気分になりました。
しかも本日は、いまから75年前、「御土居」が国の史蹟に指定された日でした。
なんという奇遇、土塁と堀も今日の日を喜んでくれたことでしょう。
明日の京都新聞朝刊に掲載される由です。
2005.07.07
京都市の小学生に地元の歴史を語る
本日は京都市立鷹峯(たかがみね)小学校にまいりました。
当小学校の位置する京都市北区鷹峯は、江戸前期、本阿弥光悦(ほんあみ・こうえつ)による「光悦町」が形成された場所として知られます。
当小学校では総合学習の一環で、6年生がこれを学んでいます。
僕は校長先生から「達人」としてお招き頂きまして、光悦町の立地について約10分、お話し致しました。
僕は以前から「歴史を活かした鷹峯のまちづくり」のありようを考えており、大学の講義でも学生さんに案を課したりしてきました。
その結果強く思ってきたことは、明日地域を担う地元の子たちに、鷹峯の歴史や意義を知って貰わなければならないと言うことでした。
今回、その第一歩が踏み出せたと思います。
大変感慨深く思っております。
なおこの授業は明日も続きます。
2005.07.06
『中央史学』やっと入手
京都大学人文科学研究所にやって来ました(写真)。
昨日入手に失敗した『中央史学』が同研究所図書館に所蔵されていることが分かったためです。
ちゃんとありました。
借り出して近くのコンビニでコピーします。
(同図書館にはコピー機がありません)
ほっとしました。
木屋町へ移って「書斎」で早速読みます。
予想通り読んでおくべき内容のものでした。
苦労したかいありです。
途中、路上で未知の道標(近代)を見つけたし、少し幸せ気分。
暑い日でした。
2005.07.05
国会図書館関西館、初体験
三宅碑調査で京都府相楽郡にやってきました。
その帰途、ある雑誌論文を求めて国立国会図書館関西館へ立ち寄る。
実は初訪問です。
ところが何と、無い!
『中央史学』という学術誌です。
国会図書館に寄贈しないなんて、何ということだ。
ビックリ!
しようがないので、同館のレストランに入る。
ところが図書館施設にしては高い。
何だか楽しいことの少ない初体験でした。
写真は注文したピラフ。
2005.07.04
京の夏野菜
今夜は北野・上七軒の御茶屋さんで講演でした。
タイトルは「京の石碑二題」。三宅碑と京都市教育会碑のお話しをしました。
少し眠いネタかなと思いましたが、意外と聴いて頂けたと思います。
二次会の酒席でも建碑が話題の中心になりました。
肴は京の夏野菜(写真)。
鷹峯唐辛子、賀茂なすなど話でしか知らないものが多数出まして、勉強になりました。
帰りは自宅までタク送。
気分よく帰れました。
2005.07.03
【速報】御土居餅の光悦堂
佛教大学のスクーリングで京都惣構(そうがまえ)の巡検(エクスカーション)をしました。
写真は惣構跡に立つ光悦堂という和菓子屋さんです。惣構の土塁を模した御土居餅が人気です。
講義中ですが学生さんにお勧めしました。
買っておられるところです。

