三宅碑第1号、名士に相談する
建立者三宅清治郎の日記(以下「日記」と略します)に建碑の記事が最初に現れるのは、1921年(大正10)8月21日条です。
父安兵衛(写真)の他界は前年12月ですので、8ヶ月のちのことになります。
(建碑は亡父の遺産によってなされますので、少し気にしてみました)
「双林寺畔(そうりんじ・ほとり)、西行庵(さいぎょうあん)に赴き、道しるべ建石の事を相談」した、とあります。
(ふりがなや句読点は記主中村が振りました。助詞のカタナカはひらがなに改めた部分があります。以下同じ)
双林寺や西行庵は円山公園に南接した寺院です。
西行庵の庵主は宮田小文といい、当時同庵を復興した人物として知られた人でした。
この人に相談したわけですね。
清治郎とは知己だったようです。
注目しておきたいのは、わたしたちは三宅碑を「史蹟碑」と認識することが多いですが、当人は「道しるべ」と記していることです。
この連載のかなりあとでふれる予定ですが、三宅碑には「史蹟碑」と「道しるべ」の両方の顔があることが分かってきます。
本人の意思とは別に「史蹟碑」の顔をもちだすのはなぜか。
これがこの碑の「探索」のおもしろいところです(私個人の視点ですが)。
さて次の日記の記事は約1ヵ月後の9月19日です。
この日、さらに碓井小三郎(うすい・こさぶろう)の意見を聞くため同氏宅を訪問しています。
碓井は当時の京都の名士の一人です。
京都市会議員や府会議員を経験した政治家ですが、それよりも京都の歴史を学ぶものにとって忘れがたい大事な「顔」があります。
それは近代京都の地誌の金字塔といってよい『京都坊目誌』の編者である点です。
清治郎自身が日記にはっきりと、
「京都市の地理、歴史に詳かなる同氏の意見を聴かんとてなり」
と碓井に相談した理由を記していました。
お時間がまいりました。
つづきはまた次回。
三宅碑の概要は以下をご覧ください。
http://homepage2.nifty.com/NakamuraTakeo-HP/yasu/index.html
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