2009.07.05

池田屋事件直前の西郷隆盛の手紙を読んだ

7/4(土)はれ

 名古屋の栄中日文化センターに出講。

 「幕末志士の手紙をよむ」の4回目。今回は西郷隆盛。

 まずは慶応2年(1866)12月29日付、3日前に西郷隆盛の家臣琉仲祐(徳之島仲祐)が京都で病死した。それをいたんだ書翰を読んだ。

 西郷は一般に「いい人」イメージがある。イメージではなく、実際に「この人なら、人はついて行きたくなるなあ」と僕が初めて思った忘れられないもの。

 なおこの琉仲祐の死を、新選組土方歳三が殺害したと記すものがあるが、根拠を提示されたことはなく、信ずるにたらない話であろう。

 本書翰は『西郷隆盛全集』には入っていないようで、横山健堂『大西郷兄弟』(宮越太陽堂書房、1944年、276ページ)から引用した。

なお琉仲祐は、相国寺塔頭の林光院に埋葬されたようで、同地にいまも西郷自筆銘による思われる墓碑が残る。

 西郷の楷書の筆跡は、かわいらしい文字で特徴がある。ほかに西郷筆跡と伝わる、伏見区大黒寺の寺田屋事件戦死者墓碑銘や、東山区東福寺即宗院の戊辰役戦死者墓碑銘も同じである。まちがいなかろう。

 カラーでクリアーな写真が、木村幸比古氏『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』(淡交社、2005年、16ページ)に掲載されている。ご参照ください。

 この墓碑以外にも、西郷は、薩摩の西郷家先祖墓地にも琉仲祐の墓碑をつくっている。なんと家臣思いか。書翰内容とセットで感動できるはなしだ。

 話がながくなりすぎた。ほかには、いまの僕の関心から、池田屋事件直前の京都からの西郷の手紙を読んだ。でも時間が全然足らず、かなり中途半端に終わった。

 事件直後に中村半次郎を長州屋敷にスパイとして送り込んだことを記した書翰(元治元年6月14日付大久保利通宛、全集1巻317ページ)も読みたかったが、残念だった(書翰の存在は桐野作人さんから先日教示をうけました)。

 今夜もいつもの「龍馬」に遊びにいかず、まっすぐ家に帰って、「池田屋事件」になやんだ。

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2009.07.04

池田屋事件になやむ

7/3(金)はれ

 くずし字入門に出講。まだ江戸時代の社寺の建物修復記録を読んでいる。今回は東寺、愛宕社、上賀茂社、下鴨社、河合社。なんで芦浦観音寺(滋賀県草津市)が愛宕社の復興にかかわるのか、という疑問がわいたりした。

 芦浦観音寺を巡検したいと、ちょっと思った。

 終了後、K理事と昼食を兼ねて歓談。相手におかまいなく、行き詰った池田屋事件論を吐く。いつもの喫茶店Hばで。みなさん、大事にしてくださる。今朝の京都新聞連載(中村武生さんとあるく洛中洛外)も読んでくださり、頭使いすぎてるからと、ショートケーキをサービスしてくださった。いつもありがとうございます。

 K理事に吐いたおかげで、やる気がでた。寺町三条上ルのスマートで修正する。進んだ。その勢いで、龍馬で遊ばず帰宅。

 家に帰って、食事して、また「池田屋事件」に立ち向かう。かなりうまく行った。進んだとはいいがたいが。よりよくなっているとだけ言っておく。

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2009.07.03

龍馬殺害地標石での除幕式をみた

6/30(火)はれのち雨

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 基礎からまなぶ日本歴史に出講。

 きたる7/6(月)午前中に、月例の巡検がある。「石田三成の死刑引き廻し推定ルートをあるく」という、超マニア行為。

 その準備会みたいなことをした。石田三成らの死刑執行は、慶長5年10月1日(1600年11月6日)である。その日の公家日記や、有名な「柿のはなし」の原典にあたった。「付録」もあったので、やっている本人が楽しかった。

 夕方から河原町通蛸薬師に出る。「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」標石前に、京都市による駒札と献花台ができた。その除幕式があったので、見に行った。

 京都市長もこられて、すごい狭い空間なのに、大にぎわい。知っている人が多数来られて、同窓会気分だった。

 (駒札の文章に少々問題があるのではないかと、読売新聞のT岡記者に聞かれたので、そうだなあとつぶやいたら、翌日の朝刊に活かされていて、驚いた)。

 夕方のNHK京都ニュースに報じられていたと聞いたが、僕はみれなかった。

 午後5時から、三条ラジオカフェにいつものラジオ収録に行く。池田屋跡の再開店のこと、八幡・松花堂弁当の器展のこと、最近いただいた本のことなどをしゃべった気がする。

 そのまま急いで帰って、原稿を打ち込むつもりが、いつもの「龍馬」で、京都国立博物館と京都文化博物館の「龍馬先生」がおこしで、楽しんでしまった。

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2009.06.29

福島克彦氏『畿内・近国の戦国合戦』を恵贈された

 最近、以下の書籍を頂戴した。

 福島克彦氏『畿内・近国の戦国合戦』(戦争の日本史11、吉川弘文館、2009年7月、2500円+税)

 福島克彦さん(大山崎町歴史資料館学芸員)は、僕よりふたつ年上の1965年生まれの方で、都市史や城郭研究でこれまで深く学ばせていただいてきた。

 ある時期は、研究会などでよくお目にかかり、終了後、食事をしたり飲みにいったりして議論させていただいていた。

 あまりに白熱して、ケンカしていると勘違いされて周囲から怒られたこともあった(大阪市中央区の城郭談話会の懇親会でした)。

 最近は僕の活動が違う方向へむいているので、お目にかかる機会が少なくなったのが残念である。

 本書は福島さんの最初の単著である。戦国期の日本の中心は京都やその周辺であるから、「畿内・近国の戦国合戦」なんて本はよくあるものかと思っていた。

 が、拝見して、驚いた。むしろ戦国期は地方の時代で、畿内・近国中心で語られたことはほとんどなかったようだ。

 よく知ったできごとでも、福島さんの斬新な視点で語られ、新しい位置づけで浮き上がった内容も多い。

 たとえば本願寺8世の蓮如が、越前吉崎や山城山科など、寺や町を要害化したように理解されてきたが、その蓮如に「専守防衛」の意識があったというのは、語られているようで語られてなかったのではないかと思えた(本書200ページ)。

 お勧めいたします。とてもおもしろい本です。福島さん、ご恵贈、ありがとうございました。

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2009.06.28

松花堂弁当誕生に関わる展示をみてきた

6/27(土)はれ

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 午前中、東寺の子院跡の現地見学会がある。行く。八条通に面した東寺北門から南へ下がった東側。室町時代の堀状の遺構が気になった。何を囲ったものだろう。

 午後から八幡市へ。いま松花堂美術館で「松花堂弁当の器」展をしている(6月28日(日)まで)。松花堂弁当といえば「吉兆」創業者湯木貞一ではない、八幡の郷土史家西村芳次郎(1868-1939)だ、と主張してきた中村武生なので、気になっていた。そのことが指摘されているかいなかである。

 ところが、どうやらそれどころではなく、西村芳次郎が松花堂昭乗の墓所(現、泰勝寺)を復興しようとした際の関係文書が貼り交ぜ屏風になって展示されていると知った。

 6/25(木)に行われた恒例の「三宅日記輪読会」での、メンバーK井裕さんからの情報である。

 翌日、いつものくずし字入門のあと駆けつけたら、びっくり。なんと1925年(昭和初年)前後の、21通もの西村芳次郎宛書翰群だった。竹田宮(宮の代行の家扶)や富岡鉄斎からのものが目立った。

 富岡鉄斎って、栂尾(とがのお)高山寺の「三宅安兵衛遺志」碑の揮毫者じゃないか。西村も三宅碑の大なる協力者だ。偶然かそうでないのか、なんて考える。

 とりわけ意義深かったのは、西村宛の益田孝(鈍翁)書翰2通。松花堂昭乗の墓所を復興にかかわるストレートど真ん中な文書だった。益田孝(鈍翁)は三井物産創業者にして、稀代の美術品コレクターとして知られる。

 しかもその2通だけ釈文が掲示されていた。必死で写す。時間がなかったので、釈文と原文の照合はもちろん、ほかの文書を読むひまがなかった。

 だから翌日である本日も来た、というわけ。

 2日目になると、前日気づけなかったことにも気づけてくる。やはり来てよかった。「三宅碑と西村芳次郎」論文は必ず今年出すつもりだった。

 京都大人文研の近代京都研究会(高木博志氏ほか班)でこの話を報告したのは、2005年秋だった。そのときにもほぼ完成しつつあったのに、さらに4年も放置した。この間の生活の変化が影響している。よかれあしかれ。

 が、偶然とはいえ、遅れたため今回の文書群を加味してまとめることができる。けがの功名とはこのことか。

 『池田屋事件』を真っ先に片づけなければならないので、そのあとだが。

 写真は西村芳次郎旧邸入り口現況(現、国史跡松花堂庭園内、八幡市女郎花)。

 ちなみに、西村芳次郎については、以下で大なり小なりふれた。ご参照ください。

1.「京都三宅安兵衛・清治郎父子建立碑とその分布」(『花園史学』22号、73ページ、2001年)

2.「鳥羽・伏見の戦い-史蹟を読み解く視点」(別冊歴史読本『新選組を歩く』114-115ページ、2003年)

3.「三宅安兵衛遺志碑と西村芳次郎」(『京都民報』2004年4月11日付)

4.『中村武生の京都検定日めくりドリル500問』132・154ページ、京都新聞出版センター、2008年

5.『京都の江戸時代をあるく―秀吉の城から龍馬の寺田屋伝説まで』203ページ、文理閣、2008年

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2009.06.26

直江兼続の洛中宿舎、本国寺跡と現本圀寺を参拝する

6/25(木)はれ

 京都新聞文化センターに出講。

 「直江兼続のみた京都」の最終回で、巡検。今回は下京の本国寺跡をあるく。午後1時、阪急四条大宮駅改札集合。

 天正14年(1586)6月、初めて上洛した上杉景勝や直江兼続にあてがわれた宿舎が、本国寺(現本圀寺)である。

 その境内は、北は五条小路(現松原通)、東は堀川小路(現堀川通)、南は七条坊門小路(現正面通)、西は大宮大路(現大宮通)である。現西本願寺の北半分も、もと本国寺寺内(境内)だったという。

 とても広い。洛中屈指である。残念ながら1971年(昭和46)に東郊御陵(山科区)に移動している。その跡地をくまなく歩く。

何も残っていないように思われがちだが、意外なほど残っていた。痕跡があった。

 上杉本「洛中洛外図屏風」や『都名所図会』、森田恭二さんの復元案(「中世京都法華『寺内』の存在―六条本国寺を中心として」『ヒストリア』96号、1982年)を片手に、あああそこに本堂が、祖師堂が、五重塔が、と跡地を示してあるく。

 どこに景勝や兼続がいたのでしょうねと想像しながら。

 二時間あるいた。そのあとは、現在地にも参拝しようということになった。

 暑い日だったようで、もうとてもしんどいと3分の1が下京でリタイヤ。

 有志で地下鉄に乗り、現山科区御陵の本圀寺へ参拝する。

 これまたおもしろかった。下京から移築したもの、新築したものはどれか、なんて想像し、議論しながらとても狭くなった境内を歩きまわった。

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 やはり加藤清正廟が一番興味をひいた(写真)。神社なのである。神仏混淆の時代の産物である。新規のものではない。

 『都名所図会』に描かれる墓石と近似したものが残っていた。それが清正の側室の墓とわかる。

 終わってみれば、御陵駅で5時。暑い中、4時間も。ありがとうございました。また聞き上手のみなさんに助けられました。

 次回からは「直江兼続のみた洛中洛外―伏見を中心に」と題して、舞台を伏見に移します。伏見城と武家地をまなび、濃密に歩きます。よろしければおこしください。主催は京都新聞文化センターです。

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2009.06.24

三宅碑とストイックな龍馬伝を楽しむ

6/21(日)午前中雨

 午前11時、嵯峨野学藝倶楽部の京都歴史講座に出講。

 三宅碑からみた洛中洛外の旧蹟を論じている。今回は城陽市・宇治田原町・井手町の約30碑を対象とした。

 さぼりまくっている三宅碑をひと月に2度思いだす日のひとつ。もうひとつは三宅日記を読む会の日。

 はやくまとめないといけないとまた思った。わかっているのだが、すべきことが百万ほどあって、どうもならない。

 次回は7月19日(日)です。時間は同じ。場所もおなじ。嵐山電鉄「帷子の辻」駅から徒歩5分の三壺庵(さんこあん)です。

 夕方3時50分から、京都駅前のキャンパスプラザ京都(5階第3・4演習室)で、「基礎からまなぶ坂本龍馬」に出講。

 誕生から文久3年(1863)正月までの龍馬を、かなりストイックに、使える史料を厳選し、ぜい肉のほとんどない龍馬伝を論じてみた。

 たとえば文久2年(1862)3月、土佐亡命ののち、大坂に出現するまでの滞在地の既往の説は完全否定せざるをえないとのべた。とても使えない史料で立論されていたから。

 前回より人数ふえていた。でも、まだ会場満杯にはまだまだゆとりがある。みなさん、きてください。つぎは7月19日(日)午後3時50分から。会場は同じです。

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2009.06.20

石清水八幡宮の寺院建物はどこにいったか

6/19(金)はれ

 くずし字入門に出講。

 元禄期の洛中洛外の寺社の建造物の由来を記した史料を読んでいる。

 今回は石清水八幡宮。残念なのは、そこで記された建物がまったく残っていないこと。

 維新の廃仏毀釈で石清水八幡宮の寺院建物は全壊した。

 八角堂や松花堂、泉坊書院のように、他所に移動して残っているものもあるのだろうが、その悉皆調査はなされていない。

 同じく現存神社の神宮寺で廃絶した例でいえば、大和の石上神宮の内山永久寺(現天理市)。

 こちらは東京国立博物館によって、散在した建造物などの報告書が出ている。

 石清水もその調査がなされることを願っている。

 なお本年の大河ドラマにからめていえば、天正14年(1586)の初上洛の際、上杉景勝は一旦大坂へ移り再び上洛する。

 その途上の6月18日、石清水にも立ち寄り、塔頭の滝本坊に入った。今週の放映分にあたるが、さてその描写はあるか。

【追記】石清水の神仏分離については、鷲尾順敬「石清水神社神仏分離調査報告」『明治維新神仏分離史料』上に詳しい。

 よみやすいものでは、臼井史朗「石清水の入札事件」『神仏分離の動乱』46-62ページ(思文閣出版、2004年)が手頃である。

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2009.06.16

土方歳三箱館戦争跡をあるいた

6/14(日)くもりのちはれ一時雨

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 函館2日目。明治維新史学会が催してくれた巡検に参加した。箱館戦争古戦場をバスで移動した。おおざっぱなコースは以下。

 函館市内→館城跡(国史蹟松前氏城跡のうち。厚沢部町)→開陽丸青少年センター→(昼食)→檜山護国神社(新政府軍墓地)→旧檜山爾志郡役所(以上江差町)→福山城跡(国史蹟松前氏城跡のうち)→国史跡松前藩主松前家墓所(以上松前町)→函館市内

 二股口古戦場を通った。土方歳三の知られた旧蹟である。山中には塹壕が現存するという。降りることはできなかったが、国道沿いに建つ碧血碑(函館市のものとは別)が見えて感激した。

 京都の新選組旧蹟を浴びるように生活している者として、よくぞこんな遠方までと涙が出そうになった。

 つづいて館城跡。こちらはバスが停車した。学芸員の方のご案内があった。館城は、松前が榎本武揚軍に落とされたあと、松前氏が政府を移した場所。

 南東隅の土塁の屈曲部が残っていてうれしかった。堀跡にもさきほど降った小雨がたまっていて水堀っぽくなっていた。こんなところに関心持つのは、中世都市史にかかわってきた僕ぐらい。

 江差・松前も感激。盛りだくさんすぎて触れる程度だったが、こんなツアーでもないと絶対これない。ありがたくってしょうがなかった。企画してくださった小泉雅弘先生以下、みなさまに御礼申します。

 写真は、江差の旧檜山爾志郡役所にある「土方歳三嘆きの松」。開陽丸座礁をみた土方が叩いたら曲がったそうだ。誰がいいだしたかもわかっているそうで(役場の人らしい)、こうして「史蹟はつくられる」を地で行く場所といえる。こわいことだ。

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2009.06.14

函館五稜郭にきました

6/13(土)はれ

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 明治維新史学会の大会が、北海道函館市で行われる。そのため函館にきた。

 写真は五稜郭内部からニの橋と半月堡をみたところ。明日は学会が用意してくれた松前・江差巡検である。楽しみだ。

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